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赤い世界の話
2





「どこへ行こうというの」
 背中に突きつけられた刃物の冷たさが、触れずとも伝わってくる。
 きっとこうなるような予感がしていた。
「……そっとしておいてくれない?」
「そうはいかない。こんなことは間違ってる」
 その声は決断的で、この世界に正義があると信じ切っているようだった。
 正しいことは、確かにあるのだろう。でも。
「どこの世界にだって、まっとうな幸せを追い求めることすらできない人はたくさんいるんだ」
「私は正しくない行いを止めなければならない」
「それを」
「それがあの子の、そして私の役目だから」
「あなたたちみたいな人間は、ただ日の下に引きずり出すことこそが正しいとばかり思っている」
「従ってくれないのなら、こうする他にない」
「放っておいてよ。私たちは陰でひっそりと終わりたいだけなんだ」



 彼女に出会ったのは、私がもっとずっと幼い頃。
 私はいっときそこを訪れていただけの余所者で、彼女はきっと一生そこを離れることのない人間だった。
 彼女は、この世の全てを憎んでいるように見えた。
 目に映るもの、耳に聞こえるもの、肌に触れるものの全てが彼女にとっては敵のようだった。彼女は轟々と吹きすさぶ嵐の中でたった一人、小さな膝を抱えて、孤独な戦いを続けていた。
 彼女を一目見た時、私はその悲壮な姿に胸を打たれた。
 救いたいと思った。
 それがいかに傲慢で残酷なことか、幼い私はまだ知らなかった。

 私は彼女に魔法をかけた。ほんの少しだけ前向きになれる魔法。
「また友達ができたよ」
 彼女は劇的に変わっていった。彼女の報告を聞くたびに、私は心が満たされた。荒んでいた彼女の瞳に少しずつ光が戻っていくのが嬉しかった。
 やがて私には帰る日が来たが、きっと彼女はもう大丈夫だろうと思った。
 そして、彼女と別れて数年が過ぎた。
 再びこの世界を訪れた私は、幼き頃の自分が何をしてしまったのかを知る。

 この学校に入ってからしばらくして、私は彼女と再会した。
 ただし、そこは校舎の中ではなく、病院の一室だった。
 家に火をかけられ、目の前で両親が焼け死ぬのを見た彼女は、もう半年も意識が戻らないのだという。
 彼女自身も重い火傷を負っていたが、命に到るほどではなかった。しかし彼女はこの世界に戻ってくることを拒むかのように眠り続けていた。

 私が魔法をかけたあの日から、彼女は出会う人々全てに好意を向けていた。
 それは彼女が初めて知った生きる方法であり、頼ることのできる全てだったから。
「あなたは一人じゃない。あなたが勇気を出せば、誰だって友達になってくれる」
 彼女は小さな勇気を振り絞ってその言葉を実践し、そして成功した。それは彼女にとってはまさに、魔法のようなものだったのかも知れない。
 彼女が頼れる唯一にして絶対のもの。それを与えたのは、私だった。
 世の中の全ての人間が、好意に対して好意を返してくれるとは限らない。しかし、好かれていると知って逆に相手を嫌うような人間は、それほど多くはなかった。
 いつしか彼女はたくさんの友達に囲まれていた。母数が増えればイレギュラーも増える。彼女を取り巻く人間関係の中に、彼女に対して特別な感情を抱くものが現れるのも当然だった。
 しかし彼女はそうした機微に無頓着だった。いや、元より好意を向ける以外の複雑な人間関係の捌き方を、彼女は知らなかった。
 増え続ける関係が、軋みを上げる。
 そしてついに、不自然にねじ曲がった感情が、悲劇を呼び起こした。
 彼女の家から発見された焼死体は三つ。
 両親のものと、彼女の家に火をかけた少女のものだった。
 その少女は彼女のことを深く愛していたのだが、彼女はそれに気付かなかった。
 彼女が無差別に振りまく『好き』が自分だけに向けられないのなら、いっそ――
 そのようなことが書かれた焼け焦げた紙片が、少女の手の中から見つかったのだという。

 私は、幼い頃に自分がしたことを悔いた。
 救いたいなどという傲慢な感情が、結果、四人もの人間を破滅に追いやったのだ。
 彼女を取り戻さなければならないと思った。そして罪を償わなければと。
 私は学校を休学し、それからの数年間を祖母の元で過ごした。
 祖母は魔女の血を引いていた。
 そもそも私が家を出て遠い街に行くことを決めたのは、自分の中に流れる異質の力を嫌ってのことだった。
 だけど今度は逆にその力に頼らなければならない。情けなさに涙が出そうだったが、持てる力の全てを彼女に捧げると誓い、厳しい訓練を耐え抜いた。
 そうして私はこの街に帰ってきた。彼女はあの日から変わらず眠ったままだった。
 力を得た私は、ひと目見ただけで、彼女がもう半分以上死んでしまっていることを知った。
 たとえ今強制的に目覚めさせたとしても、彼女はもう二度と人間らしく振る舞うことはできないだろう。
 その事実に私は愕然とした。全てが遅すぎた。
 でも私は、自分のしてきたことを無駄にするわけにはいかなかった。
 私は、なんとしても彼女を救わなければならない。たとえそれが不完全な姿だったとしても!

「アコ」
 真っ赤に染まる廊下に彼女の姿を見つけて、私は思わず声をかける。
 砂漠で水を求める遭難者のように虚ろな瞳で窓の外を見つめている彼女を、ただ遠くから見ていることなどできなかった。
 振り返った彼女の人形のような表情を見て胸が張り裂けそうになる。今、彼女の魂は、ちゃんとここにあるのだろうか?
 不安や焦りを笑顔の下に隠して、私は彼女に呼び掛け続ける。
 あなたはここにいる。あなたの居場所はここにある。だからどうか、どこにも行かないで。
「部長……」
「どうだった?」
 彼女はここではないどこか遠くを見ているようだった。
 彼女の意識は今も、この世とあの世の境をさまよっている。
 私が彼女に施した魔法は彼女の意識を取り戻しはしたが、その魂を完全にすくい取ることはできなかった。
 彼女は、半分死んでいた。

「私、部長のことが好きです」
 だから、彼女が突然そんなことを言い出した時、私は自分の耳を疑った。
 確かに、安定して力を供給できるようにするために、彼女に私の近くにいるよう暗示をかけはしたが、こんなふうに直接……まるで普通の人間みたいに、恋をして、その想いを伝えてくるなんて、信じられなかった。
 私はひどく動揺した。でも、それを表に出すわけにはいかなかった。私はいつでも笑っていなければならない。私はいつでも彼女を導くような人間でなければならないのだ。
 でも……
 私は、自分がひどく醜いもののように思えた。
 気付くと私は彼女に懺悔していた。これまで抑え込んでいた感情が漏れ出てくるのを感じた。
 体が勝手に動き、彼女を抱きしめていた。
「好きだよ」
 そうだ。私は初めて会ったあの時からずっと、彼女のことが好きだった。
 どうしようもなく弱いその姿が。フィルタを通さずに世界を受け止めてしまうその純粋さが。私には眩しかった。手に入れたい、と思った。
 今、彼女は私の腕の中にいる。
 まわりまわって……こんな酷い方法で、私はついに彼女を手に入れたのだ。
 ひときわ重い罪悪感と、それに伴う背徳的な感情が、背筋を駆け抜けていく。
 私はとっくに壊れていた。

 終わりは、確実に近づいていた。
 無理な方法でこの世に顕現させていた彼女の体が、徐々に崩壊を始める。
 腕に、足に、亀裂が走る。その都度私はそれを修復するけれど、やがてジリ貧になるのは目に見えていた。
 彼女にそれが不自然なことではないと信じこませるために、更に暗示を重ねる。だがそれは認識を大きく歪ませる力技だ。正直、無理な暗示がこれ以上うまく作用するとは思えなかった。
 それでも私は笑っていなければならなかった。何事もなく、世界は変わらず平和なのだと、演じなければならなかった。
 だがそんなある日。
 私は自らの誓いを破り、彼女以外の他人を救うために力を使った。
 目の前で脅威に晒されている存在を見捨てることができなかった。
 エゴの報いは速やかに訪れる。人は一度に二つの物を追うことはできない。
 力の供給が途切れた彼女の体は、もはや手の施しようがない状態にまで至ってしまった。
 気を抜けば、肉体に亀裂が生じる。私はそれに手を触れて、直接治すしかない。そのたびに彼女は少し不審な表情を見せた。暗示の効果が薄れてきているようだった。
 私の力はもう限界だった。これ以上彼女の肉体を生かし続けることは出来そうになかった。
 ……この世界では。

「ねえ、それよりアコ。今日は私の家に来ない? ちょうど両親が遠出しててね……」
 私の両親は最初からこの世界にはいない。だがそんなことは些細な問題だった。
 彼女は私の淹れたお茶を一口飲み、そして、眠るように倒れた。
 私は彼女を抱えて森の中へと入る。
 ざくり、ざくりと厚く堆積した落ち葉を踏みしめながら、祈るような思いで歩く。
 魂とは何なのか、などと考える。
 例えば彼女を細切れにして隅々まで分析することで、記憶や経験までも完璧に再現した彼女の複製が作れたとしても、それはもう彼女ではないのかも知れない。
 しかしそれはオリジナルの彼女自身の認識の話で、世界や私や新たに複製された彼女にとっては、それは問題なく彼女自身であるはずだ。
 だが、彼女は間違いなく死んでしまっている。
 私のしたことによって、彼女の大切な部分を損なってしまったのではないだろうか。私がこれからしようとしていることは、ただの人形遊びに過ぎないのだろうか……。
 詮なき葛藤に心を囚われて、私は背後から接近している存在に気付けなかった。



「もう一度聞くわ、木島部長。あなたはこれからどこへ行こうというの? ……そんなものを持って」
 私はゆっくりと彼女を地面に置き、少女の方へと向き直る。
「……うるさいよ。二花」
 歴史編纂部の四人目の部員、三ケ山二花は、手にした巨大な刃物を油断なくこちらに向けたまま一歩後ずさった。
「あなたのしていることは罪だ。死人を墓から掘り起こすような真似はもうやめなさいよ」
「……じゃあ誰がアコを救えたというの。肉体の命が尽きるまで眠り続けることが彼女の幸せだったとでもいうの」
「それは誰にも分からない。それを決める権利は誰にもない。あなたにも、もちろん私にも」
「それなら私の行動を、あなたが咎める権利もない」
「彼女がそれを望んだというの?」
「……それには、返す言葉もない。死んでしまった者が何を望んでいたのか、二度とそれを知る手段はない。でも、死者の言葉を自分の望む方向へと歪ませて代弁するかのような、その卑怯なやり口を、私は醜いと思う」
「なんと思われても構わない。私は姉さんと三月の影。ふたりの役割を補うのが私の役目。今、眼の前にある不正義を正す。それだけ」



 私は空を見上げていた。
 赤い葉がそよぎ、澄み渡る赤い空を縁取っている。
「もう、水上さんを休ませてあげなよ」
 私を見下ろす影を、私は精一杯の感情を込めて見返した。
「力のないものは、義を持たないものは、容赦なく蹂躙されて泣き寝入るしかない。……私はこんな世界が、大嫌いだ」
「そう。でも世界はきっとあなたのこと、好きでも嫌いでもないわ」
「……お願い。アコを連れていかないで」
「それはできない。あるべきものは、あるべき場所にかえらなければならないの」
「アコはまだ死んでいない。アコを物みたいに言わないで……」
「……私も、こんなことは言いたくないのだけれど。そこにあるのは、ただの遺体なのよ。水上さんはもうそこにはいないの」
 彼女に触れようとするその手を、私は残ったすべての力を込めて掴んだ。
「放しなさい」
 全身に電気が走り、びくんと体が跳ね上がる。
「待って……最後に、手くらい、握らせてよ……それくらい……いいでしょ……」
 二花は少し考えてから、静かに身を引いた。
 冷たい彼女の手を握る。この手はもう二度と動かないのだろうか。この瞳も、この唇も、もう二度と動かないのだろうか? 本当に?
「……いいえ」
「なに?」
「正しさってなんだろうね。この場合なら、私はアコの死を受け入れて、悲しみや後悔を乗り越えて、自分自身の幸せを探して歩き始める、ってところかな。でもね。私は何度でも、この子を生き返らせて見せるよ。何度だって。正しさなんて、そんな綺麗事で、全てを諦めてたまるか」
「あなたはまだそんなことを……っ」
 突然、私と彼女の周りを光の粒が包み始めた。
 それらは二花を押し出すようにして、徐々に密度を増していく。
 地面に円形の輝きが浮かび、風景にノイズが走る。
「転移魔法陣!? いつの間に」
「私だけの力じゃとても足りなかったけれど、おかげでなんとか起動できた。ありがとね、二花」
「まさか、最初から私の力を利用するつもりで……」
「さようなら。もう……私達を放っておいて」

 やがて目に映る景色は完全に灰色の砂嵐となった。それも徐々に撹拌されて、のっぺりとした闇が世界を覆っていく。
 私たちは、ここではない別の世界で、静かに、たった二人で、お互いのためだけに生きる。
 私は彼女のために力を尽くすと誓った。だから彼女が死んでしまったら、私はもう生きられないのだ。
 恐らく私の選択は間違っているのだろうと思う。何もかもが、最初から間違っていた。
 でも私は、時間を巻き戻して一からやり直したいとは思わない。
 私は何度でも彼女を生き返す。
 これまでに彼女がくれた言葉を、体温を、もう一瞬たりとも手放したくはないのだ。



 おわり