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携帯らっと
11-1



 その図書館は旧校舎の二階にあった。新校舎が完成し、本のデータを携帯端末で取り出せるようになった日から、図書館に足を運ぶ者はほとんどいなくなっていた。
 図書館の隅にある扉からは準備室に入ることができた。そこは傷んだ本を保管したり、司書が休憩を取ったりするためのささやかなスペースだった。しかしかつての部屋の主は去り、今ではとある学生が時々利用するだけの場所となっていた。
 そんな準備室の中に、もう一つ奥へと続く扉があった。その扉には鍵がかかっていた。中には貸出禁止の本を詰め込んだ本棚がずらりと整列していた。
 本棚の隙間を縫って更に奥へと進むと、ぽっかりと空間が開けていた。そこには床一面に茶色の柔らかい絨毯が敷かれていた。絨毯の上にはベッドがあり、背の低いテーブルがあり、食器棚があり、冷蔵庫があり、水道があった。そして、その先には何もないのだった。いや、正確には壁があり、壁に、バスルームの扉と、倉庫の扉が並んでいた。倉庫の中には業務用の巨大な冷蔵庫と、山のように積まれた段ボール箱があった。月に一度、ここに業者が生活物資を運んで来るのだ。これらは全て、一人の学生のために用意されているものだった。
 その学生の名は物江桃子といった。
 ここで暮らすようになってからどれくらいの時間が過ぎたのか、彼女には分からなかった。彼女の時間感覚はあの日から壊れてしまっていた。どうしてここにいるのかも思い出せなかった。気付けばいつも夕焼けに照らされているような気がした。ここは本当に現実なのか、自分はまだ生きているのか、そんなことすらも分からなかった。
 誰かと会話をしている時、バラバラになった記憶の欠片をどうにかこうにか手繰り寄せていると、まるでルールを知らないビデオゲームで不器用に自分のアバターを操っているような気持ちになった。体も心も借り物のようだった。
 しかし淡々と過ぎていく日々に、彼女は何の疑問も抱かなかった。そこには希望も絶望もなかった。ただ、渇きだけが募っていった。何かを摂らなければならないことは分かっているのに、それが何なのか分からなかった。人とふれ合う一時、僅かに満たされるような気がしたが、何故だかそれはとても恐ろしいことのように思えた。
 気付けば彼女は他人を拒絶するようになっていた。
 一日のうち何度も記憶が飛ぶようになった。見たこともない景色を幻視するようになった。何の前触れもなく過去の記憶が目の前に現れては消えた。一度見た筈の場面がもう一度再現されるといったことが頻繁に起こった。
 常人なら気が触れていてもおかしくないような混沌の中、幸か不幸か、彼女の心は既に何も感じなくなっていた。これが夢か現実かはともかくとして、仮に現実だとしたら自分が壊れているに違いないと思った。そう判断した上で、ただ何事も起こらぬよう努めるだけだった。
 ある時彼女は、時間感覚の欠陥を補うために、ある簡単な仕事を毎日行うことを思い付いた。それは、日記を書くことだった。