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携帯らっと
11-5



 リリィは幼い頃に転化した。
 そこは日の光も家族の愛も届かぬ石の城だった。その城の主はヴァンパイアの貴族で、大きな街をまるごと支配しており、幼い子供の生き血を特に好んだ。
 彼の地下牢には常時三十人ほどの子供がストックされていた。リリィもその中の一人として、遠くない未来に全身の血を抜かれて紙屑のように棄てられる運命を待っていた。
 子供たちはそれぞれ違う番号の書かれた首輪をはめられ、十人ずつ三部屋に分けられていた。
 リリィの番号は九十一番だった。それは同じ部屋の百番の少女が教えてくれた。リリィは、百番の少女と特に仲良くなった。彼女はサラといった。サラはリリィよりも少し年上で、大人のような落ち着きと気品があった。
 話を聞くと、どうやらサラは遠くの国から旅行に来ていた富豪の娘らしかった。一人で歩き回っていたところを何者かに連れ去られたのだという。
 しかし、そんな目に遭ったというのに、彼女は泣き言ひとつ言わなかった。
 「寂しくないの?」
 リリィは訊ねた。
 「たくさんお友達ができたから平気ですわ」
 サラは笑った。
 それから、今までに見てきた様々な国の話や、可愛いお菓子の話、珍しい花の話をしてくれた。
 リリィも自分のことを話した。貧しい家庭に生まれたこと。いつも両親が喧嘩ばかりしていたこと。毎日の食事もままならなくなり、この城に売られてきたこと。そしてその日は誕生日だったこと。
 話してみてから、自分は何と中身のない人間なのだろうと思った。なんだか申し訳ない気持ちになって謝ると、サラはリリィの手を握りしめて涙を流した。ごめんね、と何度も呟いて、それから涙混じりの優しい声で、あなたに誕生日プレゼントをあげると言った。
 サラは九十九番の首輪をはめた少女に、自分とリリィの首輪を外して欲しいと頼んだ。
 九十九番の少女はミーといった。
 彼女は孤児で、街で盗みをして暮らしていた。運悪く捕まった後、この城の主が保護者になると申し出て、ここに入ることになったのだという。
 「ネコみたいにすばしっこいからミーってんだ。可愛いだろ」
 ミーはこれまで自由気ままに生きてきた。自分には盗みの才能があるということを知っていたし、そういう生き方が自分の気質に一番合っていると信じていた。だから、見ず知らずの誰かが勝手に自分の保護者になることなど、彼女には到底承服できないことだった。
 いずれ逃げ出してやろうと鍵あけの道具をこっそり持ち込んだまではよかったが、入れられたのは子供部屋ではなく、殺風景な冷たい石の部屋だった。
 ミーは結局この部屋の扉を開けることはできなかった。扉には、鍵穴がなかったのだ。
 しかし首輪の鍵を開けるのは簡単だった。首輪の後ろには簡素な鍵穴があり、全ての首輪が同じ鍵で開くような粗末なつくりだった。
 「でも、こいつを外したからってどうなる訳でもないだろ? それにもし勝手に外してるのがバレたら……」
 あっという間にサラとリリィの首輪を外してから、ミーは言った。
 「大丈夫、これは交換するだけですわ。本当のプレゼントはこっち」
 サラは自分の髪を結んでいた橙色のリボンを解き、百番の首輪と一緒にリリィに手渡した。
 「お守りですわ。これ以上あなたが辛い目にあわないように」
 「ありがとう……でも首輪はどうして?」
 「その番号の方があなたに合うと思ったものですから」
 そう言って、サラは九十一番の首輪を自分の首にはめた。リリィもリボンを髪に結んで、二人で顔を見合せて笑った。

 地下牢での生活は、それほどひどいものではなかった。特に、毎日食事にありつけるということがリリィには嬉しかった。
 サラ、リリィ、ミーの三人は比較的年齢が近かったが、他の七人は彼女たちよりもだいぶ幼かった。しかし意外なことに、ミーが幼い子供たちの面倒をよく見てくれたため、大きな問題は起こらなかった。
 「外でも似たようなことやってたんだ。施設にも行けないような、親のいないガキたちが集まってさ、ちょっとした大家族だよ。アタシは母ちゃんの役だったんだ……」
 ミーは年下のリリィのこともよく気にかけてくれた。大雑把そうに見えるけれど、実はとても細かいところに気付く優しい人なのだということが分かるにつれて、リリィはミーのことを姉として慕うようになった。
 一番年上のサラはとても物知りで、皆の知らない話を語って聞かせてくれた。彼女のほっとするような明るい笑顔は、いつも皆の雰囲気を和ませてくれた。リリィにとってサラは、年の近い母親のような存在になった。
 リリィは生まれて初めて、幸福に似た暖かいものを感じていた。彼女たちと出会えてよかったと心から思った。

 二ヶ月ほど経った頃、リリィは扉の外に何か騒がしい気配を感じた。よく耳をすませてみると、微かに子供の声が聞こえてくる。
 別の部屋の子供たちが出ていったのか、あるいは新しく連れて来られたのか……。やがて静寂が戻ったが、リリィの心はしばらく揺れていた。
 更に一ヶ月ほど経ったある日、それは突然訪れた。
 いつも食事を運んでくる使用人とは違う、血色の悪い男が扉の覗き窓に顔を出した。男は黙ってサラを指差してから、その指を曲げて、こちらに来いというジェスチャーをした。サラが扉の前まで来ると、男は
 「他の者は離れるように」
 と、低くかすれた声で言った。決して大きな声ではなかったにもかかわらず、その場にいた全員は一斉に口を閉ざした。扉の近くにいた子供たちは逃げるようにしてミーとリリィの体にまとわりついた。
 男はゆっくりと扉を開け、サラに外へ出るよう促した。サラは一歩進んでから振り返り、にっこりと笑った。
 「ちょっと行ってきますわ。みんな、また後でね」
 リリィたちは不安な気持ちでサラの帰りを待ったが、結局その日、サラは帰って来なかった。
 次の日、サラを連れて行った男が再びリリィたちの部屋を訪れた。リリィはサラが帰って来たのではないかと期待したが、男は一人だった。
 男は昨日と全く同じように一人の子供を指差し、連れ出して行った。連れていかれた子はやはり帰ってこなかった。
 その訪問は毎日続いた。そして誰一人として帰って来る者はいなかった。
 やがて、部屋にはリリィとミーの二人だけが残された。
 「明日はアタシの番か……」
 独り言のようにミーが言った。
 「サラに教えてもらった数字が役に立ったなあ」
 「うん……」
 リリィもミーも気付いていた。首輪の数字が連れて行かれる順番なのだということに。
 「どこに行くんだろうな、アタシたち」
 「わからないよ」
 「正直恐いし、不安だけどさ、ちょっとだけ期待してる部分もあるんだ。みんな別の部屋に行っただけなんじゃないかとか、引き取り手が見つかって外に出ていったんじゃないかとか……」
 「きっと、そうだよ。サラはまた後でって言ったんだもん。サラを信じようよ」
 「そうだな。サラは嘘ついたことなんて一度もなかったもんな」
 ミーはそう言って、リリィの髪と、髪を結んでいるサラのリボンをそっと撫でた。
 次の日、ミーが連れて行かれた。
 「また後でな」
 ミーは最後にサラの真似をして、笑った。
 そしていよいよリリィの番がやってきた。リリィは男に指を差されて初めて、なぜ子供たちがおとなしく男に付き従ったのかを理解した。男の赤い瞳に見詰められた瞬間から、何かを考えようとする力がどんどん失われていったのだ。睡魔に抗えないのと同じように、思考が楽な方へと流れていった。このまま何も考えずに、されるがままになりたい……。
 しかしリリィは、最後に、皆で過ごした部屋を見ておきたいと思った。必死の思いで頭にまとわりつく誘惑を振り払い、どうにか少しだけ振り返ることができた。でもそれが限界だった。
 サラは、そしてミーは、どんな気持ちで、どれほどの力を振り絞って、あんな風にいつも通りの笑顔を見せてくれたのだろう。
 リリィの視界は夢の中のように歪んでいた。男の後ろを歩きながらも、何一つ現実感がなかった。
 リリィは気付くと薄暗い部屋の中にいた。天井の高い、広い部屋だった。部屋の真ん中には見たこともないほど大きなベッドがあり、その上に座ってくつろぐ人影があった。
 長い黒髪が乱れながら白い顔を縁取り、適度に筋肉のついた肩に垂れ下がっている。頬はこけ、眼窩は落ち窪んでいるが、真っ赤な瞳は不気味にギラギラと輝いている。ゆったりとした黒いローブの胸元は大きく開かれており、そこから覗く白い胸板には乾いてこびりついたような赤い塗料が見え隠れしていた。
 彼こそがこの城の主であることをリリィは一目で理解した。
 「今年ももう百か……早いものだ」
 主は誰に聞かせるでもなく呟いた。
 「あの、他のみんなはどこですか?」
 リリィは勇気を振り絞って言った。主はちらりとリリィを見た。
 「同じ部屋にいた女の子たちです。みんなここへ来たんですか?」
 「ああ……来たとも」
 「い、今はどこに……」
 主は壁際のカーテンの一つを指差した。
 「開けてみるといい」
 リリィは恐る恐る壁際に歩み寄り、震える手で少しだけカーテンを開いた。途端に、鮮やかなオレンジ色の光が目に飛び込んできた。
 それは大きな窓越しに見える夕焼けだった。眼下には城の敷地と思われる広大な芝生の庭が広がっていた。
 リリィは久しぶりに外の景色を見て涙が出そうになった。庭には花壇や植木、そして小さな建物がいくつかあるだけで、人の姿は見えなかった。
 「みんな、外に出ていったんですか?」
 リリィが振り返って訊ねると、主は口の端を歪めた。どうやら笑ったらしかった。
 「そうとも……白い小屋が見えるだろう」
 そう言われてリリィは再び窓の外を見た。確かに白い小屋があった。小屋には煙突があり、薄く煙が登っていた。
 「みんなあそこに?」
 リリィが聞くと、主は静かに頷いた。
 「よかった……私もあそこに行けるんですよね?」
 「そうだな、十中八九、そうなるだろう。しかし君は百番目だ。奇跡か何かが起これば行かずに済むかも知れん。ま、そんなことは今まで一度もなかったがね……」
 リリィは主の言っていることがよく分からなかった。『行かずに済む』だなんて、まるで……
 「小屋から煙が上っているだろう。君が一緒の部屋で過ごしてきたお友達の今の姿だ。あの小屋は焼却炉というんだ」
 「え……」
 リリィはもう一度窓の外を見た。白い小屋の煙突から出ていた煙はもうほとんど消えていた。
 頭の芯が痺れたように熱くなった。たくさんのお話を聞かせてくれたサラの優しい声が、頭を撫でてくれたミーの温かい手が、皆で過ごした短い日々が、嵐のように頭の中を駆け巡った。
 ふと気配を感じて振り返ると、すぐ後ろに主が立っていた。リリィは思わず息を吸い込んだが、声は出なかった。
 「いい顔だ。希望が絶望に変わり、絶望から怒りが生まれ、怒りが恐怖に挫かれ……。やはり美しさとは動的なものだ」
 主は満足そうに頷くと、ゆっくりとリリィに覆い被さった。リリィは指先ひとつ動かせずに、肩口に鋭い痛みを感じながら立ち尽くしていた。目の前にチカチカと光の粒が舞い踊り、四肢が痙攣し始めた。何とも言えぬ喪失感が全身を襲ったかと思うと、目に映る全てが白い光になった。
 急激な血圧の低下と共にリリィの心臓はその機能を停止した。瞳孔が開き、全身の筋肉が弛緩し、リリィの肉体は死んだ。
 主が口と手を離すと、小さな体は枯れ木のように崩れ落ちた。主は、未だ血の滴る牙で自分の指先に傷を付けた。裂けた皮膚からヴァンパイアの血液がぷっくりと盛り上がる。リリィの亡骸を転がして仰向けにすると、傷を付けた指先をその小さな口にねじ込んだ。
 転化の儀式が完了した。

 ヴァンパイアは、血を吸った人間に自らの血を飲ませることで、相手を転化させることができる。しかし、その儀式を行えば誰でもヴァンパイアになれるというわけではない。転化が成功する確率はそれほど高くなく、強力な血統になるほど適合できる人間は限られていく。ましてや子供や老人などの体では、よほど弱いヴァンパイアの血でなければとても耐えることはできない。
 石の城の主は、精神に干渉する能力と日光への耐性を併せ持つ、かなり強力な血統のヴァンパイアだった。その血を未発達な子供に注げばどうなるか。転化に耐え切れなかった肉体は変質し、人間とも動物とも異なる奇形を成して崩壊するのだ。
 彼は、美しい少女の形が醜く変容していく様子を観察するのが生きがいだった。百人の血を吸う毎に一人、あえて失敗すると分かっている転化の儀式を行い、自らの欲望を満たすのだった。

 しばらくすると、死んだ筈のリリィの肉体に変化が起こり始めた。
 指先が微かに震え、それが徐々に全身へと広がっていく。皮膚の下で血管が虫のように蠢き、肺から押し出された空気がふいごのような音を立てる。
 石の城の主は顔中を歪ませながら、これから起こる変化をひとつも見逃すまいと目を見開いた。
 しかし次の瞬間、リリィの頭部から強い光が発せられ、何かが弾けるような破裂音が響いた。主は小さく唸りながら顔を背けた。何が起きたのか確認するために振り返ると、リリィの体に起きていた変化は全て収まっていた。手も、顔も、爪の先ひとつさえも、人の形を逸脱したものはなかった。
 うっすらと少女の瞼が開く。転化が完了したのだ。
 リリィは薄目を開けながら、妙に視界がはっきりしているなと思った。暗かった筈の部屋がやけに明るい。埃の数さえ数えられそうだった。
 体を起こすと、ばさりと髪が顔にかかった。頭に手をやってから、サラからもらったリボンがなくなっていることに気付いた。代わりに手には白い灰が付いていた。
 「なんということだ……」
 主は呆然としながら呟いた。
 「まさか我が血に耐え得る子供がいようとは……面白い、名は何という?」
 「……リリィ」
 「よし、リリィ。君は今から我が子となる」
 その日から、リリィのヴァンパイアとしての生活が始まった。
 リリィは主の教えに従う他なかった。逆らえばすぐにでも殺される。自分は気まぐれで生かされているに過ぎないということはよく分かっていた。
 血を飲めと言われて、自分と同じくらいの子供の血を泣きながら啜った。主はその様子を楽しそうに笑いながら見ていた。サラやミーを殺した主と同じことをしなければならない屈辱に体が震え、我が身の運命を呪った。
 リリィが少しずつヴァンパイアとしての力を付けてきたころ、石の城では異変が起き始めていた。
 リリィと、地下に捕まっている子供たち以外の、城に住まうあらゆる者たちが一斉に食欲不振を訴えたのだ。
 それは主も例外ではなかった。一日に一人の血を吸うという日課が、二日に一人、三日に一人という具合に減ってゆき、ついには全く血を飲まなくなってしまった。
 体は痩せ細り、覇気は失せ、血が足りないと分かっているのに血を飲むことができない。明らかに異常な状態の中、しかし主は何故かその原因を突き止める気が起きなかった。
 主が弱っていくに連れて、まるで反比例するかのように、リリィの力は急激に増していった。しばらく血を飲んでいないにもかかわらず活力は充実し、まるで百年を生きたかのような重みを身に付けていった。
 ある日、主が目を覚ますと、すぐ側にリリィの顔があった。
 「どうした。何かあったか」
 それが主の最後の言葉だった。
 リリィは主の首筋に牙を突き立てると、一滴も残さず血を吸い尽くしてしまった。
 人の身ではなくなったとはいえ、それでも強いヴァンパイアの血を取り込むには相当のキャパシティを要する。リリィは朦朧とする意識の中で、主がこれまでに奪ってきた幼い命の記憶に触れた。その中には、サラやミーの記憶もあった。
 サラは、最初から気付いていた。自分たちが助からないかもしれないこと。首輪の番号に意味があるとしたら、それは犠牲になる順番だろうということ。その上で、リリィの九十一番と自分の百番を交換したのだ。リリィの生きる時間がほんのわずかでも延びるように。そして魔除けの効果があるリボンを託したのだった。
 サラが番号を交換してくれなければ、リリィは真っ先に死んでいた。サラがリボンをくれなければ、リリィは転化に耐え切れず消滅していただろう。リリィは泣いた。ヴァンパイアが流す血の涙ではない、人間の、透明な涙だった。
 リリィは自分の中に、サラや、ミーや、無念のうちに死んでいったたくさんの子供たちの命が脈打つのを感じていた。彼女たちと共に、彼女たちが生きる筈だった時間を生きようと思った。
そしてこれ以上、人の血を吸わずに生きられますようにと願った。