ripsh


携帯らっと
11-6



 ヴァンパイアが人間を転化させる理由は、大きく分けて二つしかない。一つはヴァンパイア自身の利益のため。もう一つは人間の利益のためだ。リリィが転化させられた理由は前者だった。彼女はヴァンパイアの愉しみのためだけに転化させられた。
 しかし、同じことを繰り返すまいと誓った彼女にも、人間を転化させる日が来る。それは果たして相手の人間のためだったのか、あるいは自分自身のためだったのか……。

 数百年に渡り街を支配し続けてきたヴァンパイアの死は、街中に混乱をもたらした。理不尽に子供を奪われて続けてきた人間たちは、その憤りを抑えるものがなくなると、ヴァンパイアの排斥を声高に唱えるようになっていった。
 この街には元々、石の城の主とは違う血統のヴァンパイアが数多く入り込んでいた。彼らのほとんどは穏やかな血統で、人間だった頃の良心を引き継いでおり、人間との共存を望みながら静かに暮らしていた。しかし彼らもまた人間から血を得ていたのは事実。高まっていくヴァンパイア排斥運動の大きな流れの中で、彼らだけが見逃されるということはなかった。血統の違いに関わらず、迂濶にも昼間に一人で街を出歩くようなヴァンパイアは囲まれて棒で殴られ、人間を傷付けたヴァンパイアは銀メッキのナイフや弾丸で命を奪われた。
 リリィは、かつてサラや自分たちを地下牢から主の元へと連れ出したあの男の手引きで、いち早く街を抜け出していた。彼は石の城の主の忠臣にして最初の子だった。彼は、城で働いている者は人間もヴァンパイアも関係なく全員逃がし、最後に一人城に残って自害した。
 リリィは彼から城の宝物をいくつか託されたが、さすがに巨大な剣などを持ち歩く訳にはいかなかった。結局、貝でできた首飾りだけを身に付けて城を飛び出し、ヴァンパイアの血を飲んだ後遺症で朦朧としたまま、人里離れた洞窟の奥深くで仮死状態となり数年間を過ごした。強力なヴァンパイアの血をその程度の時間で消化できたのは、転化したばかりの彼女にとってはむしろ幸運だったと言える。
 エルダーの血を取り込むことで、リリィは数百年に及ぶヴァンパイアの知識と経験を手に入れた。しかし不思議なことに、主の狂気じみた感情や黒い情念を受け継ぐことはなかった。

 基本的に、ヴァンパイアに寿命はないとされている。しかし肉体に寿命はなくとも、精神にはそれがある。正確には、人間の精神には、だ。心と呼んでもいいかもしれない。
 ヴァンパイアとなった肉体は、人間の限界を超えて生き続ける。本来ならば経験できなかった筈の膨大な時間に曝され、人間の心には少しずつ澱が溜まっていく。その澱によって人間の心は侵食され、やがて理性も知性もなく血だけを求めて徘徊する化物のような存在が出来上がるのだ。
 その事実を知ったリリィは、やがて直面するであろうその問題にどう対処するべきか考え、一つの妙案を思い付いた。それは、人間としての別人格を心の中に作り出し、定期的に表層意識と交代することで、心に溜まっていく澱をリセットするという方法だった。この方法は、無数の少女たちの記憶を受け継ぐリリィだからこそ可能なことだった。
 別人格を作成するために少女たちの記憶を参照する際、リリィは人間として最後に経験した幸福な記憶を思い起こし、しばしばその暖かい時間に浸った。そのため、サラやミーの記憶の一端がリリィの主人格にまで影響を及ぼしたが、リリィはむしろそれを歓迎した。彼女たちが消えることなく自分の中に生き続けることが嬉しかった。

 穢れず、傷付かず、決して成長することがないヴァンパイアの肉体に少女の心を封じて、数百年が過ぎた。
 初めは広大な世界に放り出されて右も左も分からなかった彼女も、長い時を生きるうちに嫌でも要領を掴んでいく。
 リリィはずっと旅をしていた。長く一つの場所に留まることはなかった。それは彼女の食餌方法が特殊だということもあったし、世界的にヴァンパイアを排除する動きが高まっているためでもあった。
 なるべく血を飲まないように自分を戒めていたリリィだったが、やはりヴァンパイアの本能には抗えない。大きな発作の予兆を感じると、彼女は戦場に赴いた。人間同士の戦争は時代を問わず世界各地で起きていたから、適当な戦場を探すのは難しくはなかった。
 彼女がそこへ行くのは人を襲うためではなかった。戦場では彼女が手を出さずとも、勝手に死体が積み上がっていく。死んだ人間からの吸血では真に心を満たすことはできなかったが、それでも渇きの大半を癒すことはできた。
 新鮮な死体を物色していると時折、死の一歩手前だがまだ息のある人間と出会うことがあった。
 「生きたいですか?」
 彼らに出会うとリリィは決まってそう声を掛けた。反応は様々だった。力なく頷く者、声にならない声を上げる者、虚空を見詰める者……。
 「私はヴァンパイアです。私が貴方の血を飲み、貴方が私の血を飲めば、貴方は助かるかもしれませんわ」
 しかし、彼女がそうして自らの正体を明かすと、その誘いに乗る者は誰一人としていなかった。化物になってまで生き延びるより人間として死んだ方が幸福であるという考え方は、既に多くの人間たちの間に浸透していた。リリィはその考え方を否定するつもりはなかったし、事実その通りかもしれないとさえ思っていた。だからリリィは、彼らを一人たりとも転化させることはなかった。一応救いの手を差し伸べたのだという、罪悪感を紛らわすための言い訳のような儀式が必要なだけだったのだ。

 ある時リリィは小さな村を訪れた。夏のよく晴れた午後だった。戦争で親を失い一人で逃げてきた少女を装い、助けを求めた。久しぶりに血を飲んだせいで感情が高ぶり、空腹が増していた。リリィにとっての食餌は血を飲むことではなく生物の思考や感情を喰うことだったから、エネルギーを得るためにはこうして人がたくさん集まるところへ入り込む必要があった。
 リリィは人間の間でしばらく生活しなければならない時、いつ人格が交代しても怪しまれぬように、見た目相応の少女を演じることにしていた。それに、良心のある人間ならば、気の毒な幼い少女を邪険に扱うことはあまりない。彼女が長い年月の中で身に付けた処世術だった。
 リリィの思惑通り、心優しい夫妻が彼女を迎え入れてくれた。若い夫妻には息子が一人いるということだったが、彼は学生のためまだ帰宅していないようだった。
 「ちょうど使っていない部屋があるんだ」
 夫妻から向けられる視線になんとなく違和感を覚えつつも、リリィは案内された部屋に足を踏み入れた。そこは子供部屋だった。本棚には絵本と児童書が、机には色鉛筆と画用紙が、ベッドにはたくさんのぬいぐるみが置かれていた。カーテンは空色で、絨毯は淡いピンクだった。どうやらそこは女の子の部屋らしかった。
 「ここは娘の部屋だったんだが……二年前に病気で亡くなってしまってね。片付ける気にもなれなくて、そのままにしてあったんだ。ちょうど君と同じくらいの歳だった……。君に使ってもらえれば、娘も喜ぶだろう」
 夫妻が出て行った後、リリィは改めて部屋の中を見回してみた。ヴァンパイアになってから驚くほど鋭くなった嗅覚が、部屋に染み付いた甘い匂いと、微かな思念の残滓を嗅ぎとった。部屋の主の残り香に包まれながら、机の上に残された描きかけの絵や、床に伏せられた読みかけの本を見ていると、今にも彼女が扉を開けて帰ってくるのではないかという錯覚に捕らわれるのだった。
 その時、ぼんやりと眺めていた扉が唐突に開いた。リリィは本当に部屋の主が帰ってきたのかと驚き、反射的に飛び退いて壁に背中をぶつけてしまった。しかし扉の向こうに立っていたのは少女ではなく、金髪の青年だった。手足がすらりと長く、端正な顔立ちをしている。かなり背が高い。まるで驚いたかのように見開かれた瞳は灰色だった。
 「マリー……?」
 否、事実、彼は驚いていた。身寄りのない子供を自分の家が引き取ったと聞いて急いで帰ってみれば、その子を妹の部屋に通したという。彼の家は裕福だった。子供の一人や二人引き取ったところでどうということはないだろうし、彼も特に反対するつもりはなかった。しかし、亡くなった妹の部屋を使わせることだけは許せなかった。妹の記憶を濁らせる耐え難い行為のように思えたのだ。
 だが、勢い込んで妹の部屋の扉を開けた彼は、中に佇んでいる少女の姿を見て言葉を失った。彼女は彼の妹にそっくりだった。背丈、表情、儚げな雰囲気……。髪の色だけは明確に違ったが、それが気にならないほどに両者は似過ぎていた。彼はまるで悪い夢から目覚めて二年前に戻ったかのような錯覚に陥っていた。
 「マート、彼女がリリィだ」
 マートと呼ばれた青年の後ろから、夫妻が顔を出した。
 「彼女の故郷の情勢が落ち着くまで、当面の間は家で預かることにした。お前に何の相談もせずにすまないと思っているが……」
 マートの父は歯切れ悪く言いながら、意味ありげにリリィとマートの顔を交互に見た。
 「いや……いいよ」
 マートはそう返すので精一杯だった。帰宅して早々に、突然子供を預かることにしたと聞かされた時は両親に対して若干の不信感を抱いたものの、こうして実際にリリィの姿を目にしてみると、その行動の理由が痛いほどよく理解できた。死んだ筈の娘と同じ顔をした少女が助けを求めていたら……あの時救えなかった命を今度は救えるとしたら……。自分が両親と同じ立場だったなら、きっと同じ行動を取っただろうとマートは思った。もしも魂というものがあるならば、妹の魂がこの少女の体を借りて、再び家族のもとへと帰ってきたに違いない、と思った。そして自分たちは、あの時の後悔を今こそ清算しなければならないのだ。
 リリィはマートとその両親に手厚くもてなされた。リリィは必要以上の歓迎に当惑したが、居間に飾られている写真を見て合点がいった。写真には、マートと両親に守られるようにして、金髪の少女が笑っていた。この少女はきっと自分に似ているのだろうとリリィは思った。自分の顔などもう何百年も見ていないから確信は持てなかったが……。
 リリィはこの村に十日ほど滞在したら姿を消すつもりでいた。
 リリィが喰う精神エネルギーは、皮膚の構造に似ている。表面の薄皮を剥がしてもほとんど痛みを感じないが、少しの違和感が残る。短期間に何度も同じ場所の皮を剥がせばヒリヒリと痛むだろうし、力加減を間違えれば怪我をさせてしまうこともあるだろう。
 リリィは人を傷つけたくなかった。だから同じ場所に長く留まることができなかった。人間が受けるダメージを最小限にするために、広く浅くエネルギーを得る必要があった。
 しかし、気付けばリリィの滞在期間は当初の予定を大幅に超えていた。あと一日だけ、あと一週間……といった具合にズルズルと予定を引き延ばしてしまったのは、当のリリィ本人にとっても意外なことだった。
 マートとその両親は、リリィを本当の家族として愛してくれた。リリィは自分が二年前に亡くなったマリーという少女の身代わりなのだと分かっていても、向けられる愛情に手を伸ばさずにはいられなかった。それは、かつてリリィが何よりも渇望したものだったからだ。
 リリィはマートの家族と一緒に過ごすうちに、演技と本心との区別がつかなくなることがしばしばあった。もしかしたら自分は本当にただの人間で、これまでのことは妄想に過ぎないのではないだろうか……?
 だがそんな考えも、ふとした拍子に鏡を覗き込んだ時や、日に三度振る舞われる食事のたびに、単なる勘違いなのだと思い知らされるのだった。
 リリィは滞在予定期間を過ぎた頃から、この村での食餌を絶っていた。彼女はヴァンパイアになってまだ日が浅い頃に一つの集落に住む人間全員を昏睡させてしまったことがあり、その苦い記憶が尾を引いているのだった。
 しかしエネルギーを摂らなければ、肉体が強制的に仮死状態の眠りに入ってしまう。そこでリリィは、別の場所で食餌を摂ることにした。幸いなことにマートの通う学校は村からバスで数十分の街にあったから、彼を送り迎えするという口実で街に出ては少しずつエネルギーを確保していた。結果的にリリィはマートと話す機会が増え、二人はより親しくなっていった。

 「ねえマート、肩車して?」
 リリィがマートに対して頻繁に肩車をせがむようになったのは、些細なきっかけからだった。風の強いある日。木の枝に引っ掛かった帽子をぼんやりと眺めていたリリィを、マートが肩車してくれたのだ。
 本当は、リリィの力なら跳躍一つで帽子を取ることもできたし、簡単に木に登ることもできた。しかし、自分にそんな力があるということを一瞬でも忘れてしまうほどに、リリィの心は仮人格の人間の少女に近付いていた。
 だから、突然マートに肩車をされて視点が一気に高くなった時、胸の奥から湧き上がって来た感情が一体何なのか、初めは見当もつかなかった。
 普段見ることの無い遠くの景色、世界が広がったような感覚。今となっては永遠に至ることの無い、かつて人間だった頃には当たり前に来る筈だった未来について想いを馳せているのだと気付いたのは、帽子を手にして地上に下ろされた後だった。