ripsh


携帯らっと
11-7



 その日は朝から生ぬるい風が吹いていた。昼前には黒い雲が現れ、ぽつぽつと雨が降り始めた。
 マートを学校に送ってから街で食餌をしていたリリィは、屋根のあるバス停に駆け込んで外を眺めていた。通りを歩いていた人々は雨から逃げるように姿を消し、視界には灰色の街並みだけが広がっていた。
 目の前を数台のトラックが走り抜けた。幌を張った荷台の後ろにはたくさんの人間が乗っていた。彼らは一様に、泥と血で汚れた服に身を包んでいた。彼らの顔には疲労が色濃く表れていたが、その表情はどこか安堵しているかのように見えた。
 戦争が終わったのだ。
 リリィは胸の内に湧き上がる焦燥感を抑えながら、雨の中に飛び出した。
 ここにいられる理由だった戦争が終わり、いよいよあの愛すべき家族の元を去る時が来たのかとリリィは思った。再び一人で孤独と向き合わなければならないのは、身を裂かれるほどに耐えがたい。が、そもそも永遠にあの場所で暮らせる筈もなかったのだ。ヴァンパイアがどれだけ人間と心を通わせようとも、必ず別れがやってくる。ならばせめて美しい思い出を傷つけないように去るべきなのだと……ヴァンパイアとしてのリリィはそう判断していた。
 しかし、人間としてのリリィはそう簡単には割り切れずにいた。そしてそれは人間の家族も同じだったらしい。
 「リリィ、僕たち、本当の家族にならないか?」
 今後リリィをどうするかという家族会議の中で、マートはリリィの目をまっすぐに見て言った。夫妻も同意の眼差しで二人を見詰めていた。
 嬉しかった。必死に涙をこらえなければならないほどに。思わず頷いてしまいそうになるほどに。しかし、その申し出を受けるには、リリィの秘密は大き過ぎた。成長しない体、定期的に必要となる血、そして食餌。ヴァンパイアであることが発覚すれば、これまでと同じように過ごすことなど不可能になる。
 「少し考えさせて……」
 人間の心とヴァンパイアの体に挟まれながら、リリィは結論を先送りにすることしかできなかった。そしてこの判断の遅れが、その後数百年の間、彼女の心を苛み続けることになる。

 結論を出せぬまま三日が過ぎた。その日は休日で、家族全員が家にいた。夕方、呼び鈴に応じて玄関の扉を開けたのは、マートの父だった。
 「こちらにリリィさんはいらっしゃいますか」
 白いスーツに身を包んだ短髪の女が言った。女の斜め後ろには松葉杖をついた男が立っており、更に後方に灰色の作業服を着た男たちが五人ほど控えていた。
 「……何の御用ですか?」
 その異様な雰囲気に、マートの父は警戒しながら言った。
 「こちらで先の戦争から遠くこの村まで逃れてきた孤児を保護していると聞きまして。我々は彼女が住んでいた国の戦後処理を担当している者です。戦争は終わりました。リリィさんを故郷に帰す手続きをするためにやって来たのです。彼女に会わせて頂けませんか」
 淡々と語る女の目は冷たく、後ろにいる男たちの雰囲気はとても戦争孤児を救うための職員とは思えなかったが、しかし、話の筋は一応通っているように思えた。ここでリリィを出せないと言う理由は見つからなかった。
 マートとマートの母に連れられて玄関先に出てきたリリィは、目の前の集団を見てサッと血の気が引くのを感じた。同時に、松葉杖の男がリリィを指さして叫んだ。
 「こいつだ、間違いない!」
 白スーツの女は懐から手のひらほどの大きさの黒っぽい何かを取り出そうとしていた。リリィは逃げるべきか戦うべきかを考え、今はまだ動かない方がいいと判断した。
 リリィは彼らのことを嫌というほど知っていた。異端狩りの精鋭部隊。人外の存在を許さず、徹底的に殺し尽くすための破壊者たち。
 「やっぱり俺が見たのは幻なんかじゃあなかった! こいつは仲間の死体を喰い漁ってやがったんだ! ようやく帰ってきた街でこいつを見かけた時は、とうとう頭がどうにかなっちまったかと思ったが……悪魔め!」
 「……なるほど」
 白スーツの女が懐から取り出したのは、鏡だった。わめき散らす松葉杖の男を無視して鏡にリリィの姿を写しながら、彼女は満足そうに呟いた。
 「どうやら本物のようだ」
 鏡には、マートとその両親に囲まれた女の子の服と、そこからはみ出すようにして蠢く黒い靄が写っていた。
 ヴァンパイアの姿は鏡に写らない。故にリリィは人間たちの中に紛れ込む時、鏡に写った姿を見られないよう細心の注意を払っていたのだ。
 「何なんですか……あなたたちは一体何を言っているんですか」
 マートの父はリリィたちを後ろに下がらせて庇うようにしながら、女に言った。
 「ああ……失礼。先ほど私が言ったことは全てお忘れ下さい。私たちは教会の者です。……ヴァンパイアを引き取りに来たのですよ」
 女は少しも表情を変えずに言った。
 「どうぞ、あなたもその子を鏡に写してみて下さい。ご存知でしょう、人ならざる者が鏡の中でどのような姿をとるのかを」
 マートの父は訝りながらも女から受け取った鏡にリリィの姿を写して、絶句した。
 「ご理解頂けましたか。それでは彼女をこちらへ」
 「いや……しかし……」
 彼は顔中に汗の玉を浮かべながら呻いた。
 「拒否される……となると、あなた方にも危険が及ぶ可能性がありますが……」
 女の目は冷ややかだった。彼女の言う「危険」は、額面通り受け取るならばヴァンパイアの少女を指すものだったのだろうが、そこに込められた意味は必ずしもそうではないようだった。
 「ちょ、ちょっと待ってくれ、突然言われても気持ちの整理がつかない。あの子とは今日まで普通に暮らしていたんだ。……少しだけでいい、彼女と話をさせてくれないだろうか」
 「……いいでしょう」
 女はたっぷりと威圧的な間を空けてから答えた。
 「我々はここで待ちます。五分後にリリィさんを連れて来て下さい。少しでも遅れたら非常事態と見なします」
 マートの父は、何が起きているのか分からずに困惑している家族を家の中に押し込み、扉を閉めた。
 「父さん、あいつら何なんだ? 悪魔とか何とか……」
 マートは不安を抑えるためにわざと強い口調で言った。しかしマートの父はそれには答えず、リリィの方に向き直った。
 「リリィ……その、君は……」
 「おじさま、おばさま、マート……今まで騙していて申し訳ありません。私は、ヴァンパイアなのです」
 リリィの口調は年相応の少女のものではなくなっていた。
 「まさか、そんなこと」
 言いかけたマートを手で制して、リリィは廊下の奥にある鏡の前まで歩いていった。やはり鏡には、少女の服と黒い靄が写るだけだった。その場の誰もが言葉を失った。
 「……本当に、ごめんなさい。私はあの人たちと一緒に行きます。短い時間だったけど、お世話になりました」
 そう言うとリリィは、一人で玄関へと歩き出した。
 「……今までのリリィは全部、嘘だったのか?」
 マートはリリィの小さな背中に向かって、絞り出すように言った。
 「はい。全部、嘘だったんです。ごめんなさい」
 リリィは振り返らずに言いながら扉を開けた。

 「あと二十秒出て来るのが遅かったら踏み込んでいたところだ」
 白スーツの女はリリィを見下ろしながら言った。
 「気が短いんですのね、お嬢さん」
 「あいにく我々に与えられた時間は有限なのでね」
 「それならもっと有意義なことに使ってはいかが?」
 「有意義だとも。我々の祖先は未来のために大地を拓き木を植えたのだ。私もまた未来のために害虫を駆除せねばならん」
 「あら、その祖先になら会ったことがあるかもしれませんわね。なんというお名前ですの?」
 「戯言はこのくらいにしよう。大人しく連行されるならよし、抵抗するようならやむを得ない」
 「抵抗するくらいならさっさと逃げてますわよ」
 「どうかな。お前たちの中には自分が無敵の超人だと思い込んでいる者が未だにいるようだからな」
 リリィは鼻で笑った。それはあなた自身のことじゃないのか、という嘲りを大いに含んだ笑いだった。
 「……連れて行け」
 白スーツの女が鋭く言い放つと、後ろに控えていた男たちの中から二人が歩み出てリリィの両脇に立った。鏡合わせのように男たちの手が左右から伸びて来ても、リリィは身じろぎ一つしなかった。
 しかし、男たちの手が今まさにリリィの腕を掴もうとした瞬間、リリィの体が後方に飛んだ。
 「逃げるぞ!」
 リリィの体はマートの腕の中にすっぽりと収まっていた。家から飛び出て来たマートがリリィの肩を後ろから引っ張ったのだ。マートはリリィを抱えたまま一息で家の中に戻り、扉に鍵をかけた。
 「マート!」
 「何をしているんだ!」
 「父さん、母さん、まだ分からないのか!? リリィを死なせちゃ駄目だ! どうしてリリィがこんなにも……マリーと同じなのか、まだ分からないのかよ!」
 裏口へ向かって走りながらマートは叫んだ。
 「リリィは俺たちの……!」
 その時、玄関から強烈な光と共に爆音が響いた。続いて巨大な虫の羽音のような空気を貫く音が断続的に聞こえたかと思うと、途端に静寂が訪れた。
 「既に洗脳されていたか……残念ながらここはもう手遅れだ。目標の処理を最優先、残り一人も発見次第速やかに解放してやれ」
 白スーツの女の声が冷徹に響いた。
 「父さん……母さん……?」
 マートの呟きに呼応したかのように、再びあの羽音が辺りを飛び交った。それは、例えるならばイナゴの群れ。視界を覆い尽くすそれら全てが、魔力を伴う真空の弾丸だった。マートとリリィの体はまとめて弾丸の嵐に撃ち抜かれ、紙屑のように崩れ落ちた。
 「住人の残り一人を解放しました。未確認ですが、目標も同時に被弾したものと思われます。しかしこの様子ではもう……」
 「私が行くまで動くな。奴らを侮ってはならない」
 そう言って歩き出そうとした白スーツの女は、しかし、突如強烈な目眩に襲われてたたらを踏んだ。
 何事かと辺りを見回してみると、部下たちが次々に倒れていくところが見えた。慌てて口元を押さえるが、ガスの類いではない。彼女は一瞬の判断で外へと飛び出した。
 ふっと目眩が治まり、圧迫感が消える。彼女は、あのヴァンパイアが精神に作用する魔術を使ったのだと判断し、耐魔術の魔法陣を即席で組み上げてその中に膝をついた。ふと顔を上げると、先ほど彼女が爆破して大穴を開けた家の中から、小さな人影が向かって来るのが見えた。彼女は即席に銀のワイヤーとナイフを構えようとしたが、その腕が持ち上がることはなかった。顔を上げているのが精一杯なほどの異常な倦怠感が全身を襲ったのだ。
 「死にはしませんわ。意識を失うだけ。……二度と目覚めることは無いでしょうけど」
 リリィの最後の言葉を聞くより先に白スーツの女は倒れた。リリィは踵を返し、マートの元へと戻った。
 マートはリリィを庇うように体を丸めたまま無数の魔弾に貫かれて即死していた。体中に風穴が開き、飛び出た肉片や内臓が辺りに飛び散っている。美しい金色の髪はすっかり血の色に染まってしまっていた。
 リリィはマートの亡骸に寄り添うようにして膝を突き、彼の頬を流れる血にそっと舌を這わせた。消え行く体温と共に、彼の意識や感情が全身に流れ込んで来た。
 「マリー……」
 リリィは穴だらけのマートの胸に手を乗せて呟いた。
 「貴方は最後まで妹のことを想っていたんですのね……。それならどうして私を助けようとしたの? 私は人間じゃないのに。私は貴方の妹にはなれないのに……」
 リリィの頬を赤い涙が流れた。
 「ねえ、貴方はまだ生きたかった? それとも望んでこうなったの? 私は……貴方のこと何も分からなかった……」
 リリィは自分の腕に噛み付いて血を吸った。口内で自分とマートの味が混じり合う。腕から口を離し、首を伸ばして、マートの唇に自分の唇を重ね合わせた。

 マートの転化は、結果的には問題なく完了した。損傷した肉体を修復するのに一ヶ月。その間彼は眠り続けていた。ヴァンパイアになったばかりの者としては驚異の再生力と言えた。
 そして彼が目覚めた時、彼は記憶の大半を失っていた。転化の際に記憶の一部が欠落するのは珍しいことではないが、彼の場合は自分の名前すら覚えていなかった。
 しかしリリィはマートに全てを教えることはしなかった。彼はリリィを助けようとしたせいで両親を死なせてしまったのだ。それを知った時彼がどう思うかは想像に難くなかったし、リリィ自身にも人間のふりをして彼を騙していたという負い目があった。忘れてしまったのなら忘れたままの方が良いのではないかと思った。
 「貴方の名前は……ゴルド。ゴルド卿・ベニアミ=サハトゥスという、かつて英名を馳せたヴァンパイアがいたのですわ」