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携帯らっと
12



 静かな校舎には四つの足音だけが響いていた。他には話し声の一つもない。板張りの床に赤い光が射し、黒い影を切り取る。そこはまるで、大きな躯の中のようだった。
 旧校舎。一部は物置として使用されているが、教室は全て施錠され、時間が止まっている。
 足音は二階へと上がっていった。二階には、過去に取り残された旧校舎の中で唯一、今でも学生に向けて開放されている図書館がある。
 とはいえこの図書館を訪れる学生はほとんどいない。調べものなら携帯端末を使えばいいし、自主学習や密かな会談をしたければ新校舎に便利な施設がある。わざわざ遠くの旧校舎にまで足を伸ばす必要は無いのだ。
 しかし、それでも尚この図書館に来る者がいたとしたら、その目的は別にある筈だった。

 「桃子さんに会って、どうするんですか?」
 小さな白い足がちょこちょことせわしなく動いている。ぴよらっとである。
 「心配しなくても取って食べたりしませんわ。それに私ならもしかしたら彼女のこと、何か分かるかも知れませんし」
 先頭を歩いていた黒髪の女の子が言った。未発達な体つきと幼い顔立ちに反して、その年齢は他の三人の合計よりも大きい。彼女はヴァンパイアだった。
 (その通りだ)
 ぴよらっとの隣を歩いている少女――ミカは思った。
 (ヴァンパイア・エルダーであるリリィは、ある意味で物江桃子に最も近い存在だ。感知できないということはまず無いだろう)
 彼女はふと、この建物の中に人間が自分一人しかいないことに気付いて密かに苦笑した。
 (この学校の学生は大半が人間だというのに……)
 しかし、彼女もまた普通の人間ではなかった。彼女は死を越える。
 「でも本当は食べてみたいと思っているんだろう? そんな不可思議な子が何を考えているのかをさ」
 長身の青年が女の子に言った。彼の名はゴルド。彼もまたヴァンパイアである。炎のように逆立てた特徴的な髪型は、伝説のヴァンパイアであるヴラド卿を真似たものだという。あまり似合ってはいない。
 「まあ、そんな気持ちも半分くらいはありますわね」
 リリィは本音とも冗談ともつかぬ口調で言った。
 やがて四人は図書館の入口に到着した。扉に手を伸ばしたリリィが僅かに顔をしかめる。
 「嫌な感じがしますわね」
 「そうなんだよ」
 ゴルドが頷いた。
 「僕もこの扉にはあまり触れたくない。何故だろう、聖水でもふりかけてあるのかな」
 「聖水や十字架で火傷するような血統ではありませんわよ、私たち。ともかく危険なものではなさそうですわね」
 扉が開いた。

 学校にある図書スペースならば図書室とでも呼ぶのが妥当なのかもしれないが、そこは違った。まさに図書館を他所から持ってきて校舎に横付けしたかのよう。旧校舎の廊下とは壁や床の材質からして違う。
 館内は窓からの赤い光で満たされていた。乾き切った紙の匂いが濃密に立ちこめている。
 「誰もいませんわね」
 ぐるりと辺りを見回してからリリィが言った。受付に桃子の姿は無かった。
 「本の整理をしているのかもしれません」
 本棚の間を覗きながらぴよらっとが言った。
 「探しましょう」
 四人はめいめいに歩き回った。
 いくら広いとはいえ、こちらには感覚の鋭いヴァンパイアが二人もいる。ほんの数分で、館内には他に誰もいないことが分かった。四人は受付の前に再び集合した。
 「おかしいな」
 ゴルドが頭を掻きながら言った。
 「授業に出席しているんじゃないですか。一応まだ授業時間中ですし」
 ミカの口ぶりは、私には関係ないですけど、といった風だった。ぴよらっとはたまたま授業が休みで、ゴルドとミカはサボりである。リリィはそもそも学生ですらない。
 「これまで授業中に来た時はいつもいたんだけどなあ」
 ゴルドの言葉に、ミカはほんの少しだけ眉をひそめた。
 「彼女はいつ来てもこの受付に座っていたんだよ。まるで彼女自身が図書館の一部みたいだった」
 四人の視線が受付に集まった。
 「あら、これは……」
 リリィが平べったい長方形の機械を取り上げた。黒い革のカバーがかけられていて、一見すると手帳のようにも見える。
 「携帯端末だな。ずいぶん古いタイプみたいだけど」
 ゴルドがリリィの手元を覗き込んで言った。
 「彼女のものかしら?」
 「たぶん」
 リリィは携帯端末をそっと受付の机に戻した。
 「あっ、そういえば」
 突然ぴよらっとが声を上げた。
 「まだ見ていない場所がありました」
 ぴよらっとは、以前に桃子とお茶をした司書室のことを思い出したのだった。ぴよらっとが先頭に立ち、図書館の隅へと向かう。しかし司書室の扉を開けてみると、一目で誰もいないことが分かった。
 「流しも乾いてますね……」
 ぴよらっとに続いて他の三人も好き勝手に部屋の中を物色し始めた。
 「さっきこの部屋の前を通った時は気配がしなかったから、中までは確認しなかったんですの」
 「そうだったんですか、すみません、無駄足を踏ませてしまいました」
 「いいえ。こうして中に入ってみなければ、もうひとつ部屋があることまでは分かりませんでしたわ」
 リリィは部屋の隅にある丈夫そうな扉を指さした。
 「でもそこは鍵がかかっていると聞きましたが……」
 「開いてますわよ?」
 リリィは既に重そうな横開きの扉をガラガラとスライドさせていた。四人は肩を寄せ合って扉の向こうを覗き見た。
 薄暗い部屋だった。非常灯のような緑色の光が所々にぼんやりと浮かんでいるが、奥がどうなっているのかまでは窺い知れない。目に見える部分のほとんどは、古びた本をぎっしりと詰め込んだ無骨な金属の棚で埋められていた。
 「書庫みたいですね」
 「にしたって広過ぎないか。それに空気の響き方が妙だ」
 「この感じは魔書の類いですわね。ここにある棚全部がそうだとしたら大変ですわよ」
 「……」
 四人は顔を見合せた。
 「やめておこう」
 「行きましょう」
 ゴルドとぴよらっとは同時に言った。
 「……ぴよらっと、魔書ってのは君が思っているよりも厄介なものだぞ。君だって全身がホヤみたいになるのは嫌だろう?」
 ゴルドはぴよらっとの耳をわしわししながら言った。
 「でも、そんな危険な場所の鍵が開けっ放しになっていて、いつも図書館にいるはずの桃子さんが見当たらないんですよ。それならここを放っておく訳にはいかないでしょう」
 ぴよらっとは断固として譲らない構えだ。
 「私もぴよらっとさんの意見に賛成ですわ。彼女が中で危険な目に遭っていないとは言い切れませんもの」
 更にリリィが後押しする。
 (ほやってなんだろう)
 ミカは自分の携帯端末でホヤについて調べていた。
 「わかった、わかったよ。僕だって彼女の身の安全を考えなかった訳じゃあない。ただ……」
 「ぴよらっとさんとミカさんを危ない場所に行かせたくなかったんですのよね」
 リリィは優しく笑った。
 「まあ……そんなところ」
 「それなら問題ありませんわ。皆、私が守りますもの」

 書庫の中はひんやりとした空気で満たされていた。広い道が一本通っており、その両脇に無数の本棚がひしめいている。目を凝らしても、ぼんやりと暗くて奥まで見通すことができない。
 「少し待ってくださいね」
 リリィの暗い赤色をした瞳孔がぐっと広がった。赤色は一気に鮮やかな血の色となり、紛うことなきヴァンパイアの目が薄暗がりに鋭く光った。
 ギシギシと伸びようとする爪と牙を抑えながら、辺りを漂う魔力の線を探る。蜘蛛の巣のように四方八方に広がる線は、一冊の本へと集約されていた。
 書庫に低い破裂音が響いた。途端に、書庫全体を覆っていた薄い闇が晴れた。
 「それほど厳重なセキュリティではないみたいですわね」
 簡単に言うなあ、と、既に元通りになったリリィの瞳を見ながらゴルドは思った。この空間に幻術がかけられていることは分かったが、それがどんなものかは全く分からなかった。自分も少しは成長したと思っていたが、まだまだ及ばない。

 幻術の闇が晴れてしまえば、そこはただ広いだけの空間だった。リリィが危惧した通り、膨大な書物は全て魔書のようだったが、幸い起動しているものは先の一冊だけだった。
 とはいえ、これほどの魔書を納めた書庫は相当危険なものであり、普通なら旧校舎ごと封印されていてもおかしくない代物である。何故この学校にこんな場所が存在するのか。いつ、誰が、何のために……考え始めればキリがないが、今はそれよりも優先すべきことのために、四人は黙々と進んだ。
 そして彼らはそこに辿り着いた。
 奇妙な光景だった。
 ベッドがあり、テーブルがあり、冷蔵庫がある。カーペットが敷かれ、動物の顔を模した可愛いスリッパが行儀よく揃えられている。
 それはごく普通の部屋のようだった。ただし、そこには壁も扉もなかった。書庫の突き当たり、本棚の群れが途切れた場所に、突如として部屋の中身だけが現れたのだ。
 赤い木で作られた頑丈そうなベッドの上に彼女はいた。柔らかく膨らんだ羽布団に包まれて、穏やかな寝息を立てている。顔は見えず、黒髪が純白のシーツに散らばっていた。
 四人はしばらく絶句していた。
 「戻りましょう」
 ミカが小声で言った。

 四人はまたもや図書館の受付前に集まっていた。
 「なんというか……色々言いたいことはあるけど、ひとまずここはリリィ、あなたの意見を聞いてみたい」
 ゴルドの言葉を、ミカとぴよらっとは無言で肯定した。
 「そうですわね……一つ確認したいのですけれど、あの眠っていた子が物江桃子さんで間違ありませんの?」
 「そうですが……」
 ぴよらっとが答えると、リリィはうーんと小さく唸った。
 「私が見たところだと、彼女を構成する要素はメチャクチャですわ。歩き回ったり、会話したりすることなどとてもできない筈ですの」
 「それは……どういうことですか?」
 「彼女は半分だけ人間なのですわ。そしてもう半分は……この辺りの言葉だと……神様、みたいなものかしら」