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携帯らっと
14-1



 ヴァンパイアの赤い瞳に射抜かれながらも、ミカは身じろぎ一つしなかった。つられてゴルドとぴよらっともミカに視線を送る。数秒間の沈黙。
「また心を読んだのですか」
 抑揚の無い声でミカは呟いた。
「誤解しないで頂きたいのですけれど、私は心を読むことはできませんのよ。思考や感情の味が分かるだけ。そしてその味がどんな心に紐付いているのか、長年の経験から予測して言っているだけですわ」
「同じことです」
「でも、おかげで貴女のことが少し分かりましたわ」
「……」
「ふふ、ごめんなさいね。ちょっと試させてもらいましたの。さっき、物江さんの半分は神様だと言った時、貴女だけが無反応だった。見た目を取り繕うことは出来ても、石を投げられた水面に起こる波紋のように、無意識に起きてしまう心の反応は隠せないものですわ。でも、貴女の心は全く動かなかった。まるで最初からそれを知っていたかのように……」
「……」
 ふう、と、観念したようにミカはため息をついた。
「わかりました。少し長くなりますが……」
 そうして彼女は話し始めた。

 ミカにとって死とは、扉をくぐるようなものだった。一つ死を越える度に新しい世界へと放り出される。死を越えた先の世界には常に争いがあり、周到に武器が用意されていた。迷いはなかった。どんな状況に置かれようと成すべきことはただ一つしかなかった。己の信じる正義のために戦う。ただその一点のためだけに自分は存在していると思った。そうして一体何度目の死を迎えただろうか。
 ある時、ミカは赤い光の満ちた世界に落とされた。そこは自然に囲まれた学校だった。午後五時のようにがらんとした教室で意識を取り戻した彼女は、すぐに違和感に気付いた。今までどんな世界にいても常に付きまとっていた緊張感がここには無いのだ。ミカは途方に暮れた。ここには参加すべき戦いがない。倒すべき敵が存在しない。こんなことは初めてだった。何か情報はないかと服をまさぐってみたが、携帯端末ひとつ出てこなかった。ふと、そこで初めて気付いたかのように、ミカは自分が身に付けているスカートをまじまじと見つめた。
(制服だ)
 懐かしいな、とミカは思った。一番最初は、こうして毎日のように制服を着ていた気がする。静かな世界で、当たり前のように学校に通って……。
 もしかして、これで終わりなのだろうか。前の戦いに負けた私は本当に死んでしまって、永遠にこの放課後の世界をさ迷い続ける存在になってしまったのだろうか。ギリッと歯が鳴る。まだだ。まだ何一つ成し遂げていない。
 ミカは窓際に駆け寄ると、身を乗り出すようにして外を見た。三階くらいの高さだろうか。これでは駄目だ。屋上への階段を探そう。そこまで考えてから、ふとミカは足を止めた。……もしも本当にこの世界が最後だとしたら、ここで死んだ者はどうなるのだろう? ミカの胸の奥に、長い間忘れていた恐怖がじわりと滲み出た。……安易に自殺するべきではないかもしれない。
 ひとまず現状を把握するため、ミカは図書館に向かった。受付に係の人間が座っているが、他に学生は一人も見当たらない。そこは先ほどの空き教室以上に深い静寂に包まれているようだった。ミカは閲覧席の一角に座り、ゆっくりと本のページをめくった。それはこの学校の歴史についての本だった。
 気付くと、窓の外は暗闇に落ちていた。いつの間にそんなに時間が経ったのだろう。
(この世界にも夜が来るんだな)
 そろそろ帰ろう、何気なくそう思った瞬間、ミカは強烈な不快感を覚えて顔を歪めた。帰る? そうだ、自分にはこの世界にも帰る場所があるらしい。古びた城のような外観の学生寮。帰り道から室内の調度品まで鮮明に思い浮かべることができる。そういえば意識しなかったが、迷わず図書館まで辿り着くことができたのも、最初からどこに図書館があるかを知っていたからだ。そう、自分は知っていた。否、知らされていたのだ。まるで初めからこの世界に存在していたかのように居場所まで与えられて。
 それは、これまでどんな世界に行った時もそうだった。言語、服、武器、家、肩書き……。必要なものは状況に沿う限り全て揃っていて、目の前の戦い以外に意識を割く必要がないように配慮されていた。しかしある時ミカは気付いてしまった。こうしたお膳立ては一体誰がしているのか? ご丁寧に頭の中にまで情報を詰め込んで、それに疑問を持たないような暗示までかけてくれているお節介焼きは一体誰なのか? それを意識した途端、ミカの心には猛烈な怒りと嫌悪が噴き出していた。
 いるのだ。命を、私という存在そのものを駒にして遊んでいる奴が。許せない。何も知らない命を自分の好き勝手に弄ぶ邪悪な行為を、私は許さない。一体誰だ? こんなことをする奴は一体……
「誰だ……」
 どさり、物音がした。ミカが慌てて振り返ると、背後に人が立っていた。ストレートの黒髪に整った顔立ち。受付に座っていた少女に違いなかった。眼鏡の奥にある虚ろな瞳がほんの少し見開かれている。
「……ああ」
 少女の足元に落ちた数冊の本を見てミカは事態を把握した。自分でも意識せずに声が出ていて、彼女を驚かせてしまったのだろう。
「すみません、ちょっと考えごとをしていて……独り言です。あなたのことを言ったわけじゃなくて」
「誰のことを考えていたの?」
 少女は突然親しげに話しかけてきた。ミカはどきりとした。一瞬前までは確かに少女のようだった顔が、言葉を発した途端グッと大人びて見えたのだ。
「……気にしないで下さい。遅い時間まですみませんでした」
 立ち去ろうとするミカの手首を不意に少女の手が掴んだ。
「……っ」
 反射的にその手を振り払う。
「なんですか?」
「その本」
「本?」
「どこにあったの?」
「どこって……」
 答えようとしてミカは、自分が手の中の本をどこから持って来たのか全く覚えていないことに気付いた。……まただ。この世界について知ろうとしたら、いつの間にか学校の歴史を記した本を持っていた。またしても与えられたのだ。本を持つ手に力がこもる。
「やっぱり」
 微かに震える黒い表紙の上に、白い指がすっと伸びてきていた。指は表紙の隅に小さく刻印された文字をなぞる。そこには『歴史編纂部』と書かれていた。
「寄贈されてすぐになくしてしまったの。よかった……」
 暖かいため息に似た安堵の声を聞いて、ミカの心は冷静さを取り戻した。
「ではすみませんが、この本をお願いできますか。どこから持って来たのか忘れてしまって」
 ミカは少女の返事を待たずに本を渡すと、出口に向かって早足で歩き出した。
「……諦めないで」
 背中に無感動な声が投げ掛けられる。ミカは振り返ることなく図書館を出た。

 外に出ると、ひんやり湿った空気が肺に流れ込んできた。頭上はすっかり日が沈んだ後の空だった。黒い空に浮かぶ赤い月はまるで傷口のよう。傷口からは薄赤い血のような光がモヤモヤと流れ出ているのだった。
 坂道を下る。舗装された道の左右を森に囲まれているため、草木の放つ独特の芳香が夜の闇に充満している。
「諦めないで」
 ミカは無意識に深呼吸しながら、ついさっき図書館で出会った少女のことを思い返していた。あの少女はどこか変だ。頭のネジが外れているような、関わらない方がいいタイプの人間……だと思った。最初は。でも、本質は違うのかも知れない。彼女の瞳には驚くほど精気がなかった。まるで死んでいるかのようだった。それなのに、その瞳はどこか遠くまで見透しているかのようでもあった。もう一度会わなければならないとミカは思った。何故なら彼女はこの世界に来て最初に会った人間だからだ。そして今日はついに彼女以外の人間とは出会わなかった。もしもこの世界がいつも通りなのだとしたら、彼女と戦うことになる。

 次の日、ミカは再び図書館に来ていた。
「昨日はどうも」
 昨日見た時と寸分違わぬ姿勢で受付に納まっている少女に声をかける。しかし彼女は曖昧にミカの方を向いて軽く頷き、すぐに手元へと視線を戻した。ぱらりと紙の擦れる音。
「昨日の」
 ミカは構わず話しかけた。
「諦めないで、というのはどういう意味だったんですか?」
「ここでは私語は禁止されています」
 少女は機械のように言った。おや、とミカは思った。
 突如として天啓に近いひらめきが頭の中に浮かんだ。ミカは少女の細い顎に指先で触れて、クイッとこちらを向かせた。同時に自分も顔を近付ける。吐息が触れ合いそうな距離。必然的に目が合う。少女に表情らしきものが浮かび始めるのを見て、ミカは体を引いた。
「ああ……昨日の。本を見つけてくれてありがとう」
 やはり、とミカは思った。先ほどの機械のような様子は彼女なりの防衛本能なのだ。見知らぬ者がいくら話しかけても、まともな返答は返ってこないだろう。どういう訳か私は多少心を許されているようだが……。
「こちらこそ。あの時は急いでいたので、結果的に無視したような形になってしまってすみません」
 嘘だった。別に急いでなどいなかったし、全く言葉通りに無視したのだった。しかしこの程度の嘘ならばミカの正義には抵触しない。
「あなたと会うのはこれで何度目?」
 不意に少女は言った。
「二度目ですけど」
「そう」
 少女は少し寂しそうな顔をした。凝視していなければ分からないほど微細な変化だったが。
「ふしぎ」
 少女は手元の本をぱたりと閉じた。
「あなたになら何を話してもいい気がする」
「私もあなたと話をしたいと思っていました。ええと……」
「物江桃子です。あなたはミカ、でしたっけ」
「ミカ? ああ、まあそう呼んでもらっても構いませんが……物江さん、あなたは私のことを知っているんですか?」
「たくさんの世界で戦い続けているんでしょう」
 ミカは思わず身構えそうになった。本当に、何者なんだ。どうして知っている? それを知覚できる者は自分以外に存在しない筈なのに。
「……そう、やっぱり当たってるんだ」
 桃子は少し目を伏せた。
「私はね、壊れちゃってるんだ。あの日から。少しでも気を抜くと、夢を見ているのか、現実なのか、分からなくなる。知らない景色や、会ったことのない人のことを知っている。私のいる場所だけがズレているみたいで、私の言葉はちゃんと通じているのかなって……」
 ミカは桃子の言葉を冷静に分析していた。未来視、あるいは他人の意識が勝手に流れ込んで来てしまうのか……ともかく、彼女は特殊な力を獲得した代償として、安定した自我を失ったのだろう。暫定、という注意付きでミカはそう結論付けると、改めて目の前の少女と向かい合った。
「大丈夫、ちゃんと通じています」
「そう」
 結果的にはミカの推測は間違っていたのだが、その本質はそれほど外れてはいなかった。そのため、ミカは桃子とそれほど苦労せずに意思を通わせることができたのだった。
「物江さんは私のこと、どのくらい分かるんですか? 例えば、私の後ろにいる誰かが見えたり……」
 ミカはふと、桃子の力ならば自分をこんな目に遭わせているモノの正体が分かるのではないかと思った。
「……」
 桃子は軽く首を傾げた。質問が漠然とし過ぎていたかとミカが改めて説明しようとすると、先に桃子が口を開いた。
「見たいものが見られる訳じゃないの。気付いたら私はそれを知っていて……だから私は私の知っていることしか答えられない」
「そうですか」
 不思議とミカの心に落胆はなかった。それどころか、今までに味わったことのない高揚感すら覚えていた。ただ誰かと言葉を交わすということ。これまでずっと一人きりで戦ってきたミカにとっては、そんな些細なことでさえ十二分に胸を熱くさせる貴重な体験だったのだ。
 それからミカは、これまで誰にも話す機会のなかった戦いの話をした。死んでは生まれ、勝ち目があるのかも定かでない戦いに身を投じ続けてきた記憶の話だ。
「私はこれまで、自分の正義のために戦ってきました。でもそれはもしかしたら自分の意思なんかじゃなくて、誰かに与えられたものなのかも知れないと、そう思うんです」
 知らず知らずのうちに心の奥底に溜まっていたものを吐き出すようにミカは話した。それはいつしか懺悔のような形になっていた。
「いいえ」
 それまでミカの話にじっと耳を傾けていた桃子は、静かな口調で言った。
「ミカをあちこちへ飛ばしている連中に、ミカという存在をゼロから作り出す力はない」
 ハッとしてミカは桃子の顔を見た。桃子の視線はミカを通り抜けて、遥か彼方を見ているようだった。
「あなたは……」
 ミカは何か言いかけたが、しかしその後に続く言葉は出て来なかった。蝋燭の火が揺らめくように、一瞬で桃子の雰囲気は元に戻っていた。
「……それが本当なら、まだ救いがあります」
「本当。だから諦めないでと、そう言ったの」
 桃子の目には私やこの世界はどう見えているのだろう、とミカは思った。彼女の意識は荒波を漂う木屑のようなものだ。どれだけ大きな力を手に入れても、かつて彼女が見ていた現実は粉々に砕けて二度と戻らない。それなのに、不意に全ての苦悩やしがらみを超越した存在のように彼女を感じてしまうのは何故だろう。ミカは漠然とそんなことを考えていた。

 それから約一ヶ月。ミカの周辺には何も起こらなかった。戦いの予兆はなく、穏やかな時間が流れる。
 ミカは毎日図書館へと通った。学生証兼用の携帯端末を持っていなかったので、新校舎に入ることは出来なかった。学生ではないのに何故学生寮に住み制服を着ているのかという疑問も少しはあったが、世界を飛び歩くような経験をしてきたミカにとっては些末なことだった。
 図書館に通うのは桃子と会うためであり、桃子と会うのは気を紛らわすためであった。いつまで経っても戦いが起きる気配はせず、何をすればいいのか分からないまま時間だけが過ぎていく。戦うことが日常だったミカにとって、そんな状態が長く続くことはかなりのストレスになっていた。桃子と話している時だけは不安を忘れられたし、桃子もミカの来訪を拒まなかった。
「物江さんは毎日ここにいるけど、授業に出なくていいんですか?」
「ここから出ない方がいい気がして」
「まさか家にも帰っていないんですか」
「家……」
「……昨晩はどこで寝ました?」
「ここ」
「図書館?」
「そう」
「ずいぶん寝心地が良さそうですね」
「この奥にベッドがあるの」
「仮眠室ですか」
「いいえ」
「違うんですか?」
「仮じゃないの。永遠に眠る場所」
「はあ」

 ある日、ミカがいつものように図書館を訪れると、桃子の姿がなかった。次の日も、その次の日も桃子は図書館に現れなかった。何かあったのだろうかとミカは受付のテーブルや司書室の中を調べてみたが、特に手がかりは見つからなかった。
(そういえば……)
 ベッドがあると桃子は言っていた。確かに司書室の隅には奥へと続く扉がある。ミカは一瞬迷ったが、すぐに扉に手をかけた。鍵はかかっていなかった。最初だけ僅かに吸い付くような抵抗感があり、ゴロゴロと重い音を立てて扉がスライドする。
 中は薄暗く、驚くほど広かった。まるで地下駐車場に本棚で迷路を作ったかのようだった。進めども進めども先は見えない。しかしミカは辛抱強く歩き続けた。体感時間は軽く六時間を超えていた。ふと何の前触れもなく周囲の空気が変わった。振り返ると、入口から本棚五つぶんほど進んだ場所に立っていた。
 まあ、こんなものだろうとミカは思った。幻術と分かっていても、それを破る手段がないのだから正攻法で抜けるしかない。誰が何のためにこんなものを仕込んだのかは考えないことにした。
 そしてミカは書庫の果てに辿り着いた。そこに広がるのは、一人暮らしの部屋の中身だけをばら撒いたような異様な光景だった。毛足の長いカーペットの上に点々と並ぶ家具。そのうちの一つ、大きなベッドの上に彼女はいた。
「物江さん?」
 ミカは遠慮がちに尋ねた。布団で顔が隠れて見えなかったのだ。返事はなかった。眠っているのだろうか。一歩ずつベッドに近付く。カーペットの上で靴を脱ぐべきか少し迷い、近くに桃子の靴が揃えて置かれているのを見つけてそれに倣うことにした。ふかふかとした感触を味わいながらベッドの脇まで歩み寄る。布団に手を伸ばしかけた時、吐息混じりの呻き声と共にもぞもぞと桃子が顔を出した。
「ミカ……」
 眼鏡をかけていない桃子の顔はまるで幼子のようだった。無防備に目を合わせてくる。
「おはようございます。ええと……勝手に入ってしまってすみません」
 ミカは目を逸らして言った。それは不意打ちのように桃子に目を合わせられて戸惑ったからというだけではない。桃子の顔には深い疲労が色濃く浮かんでおり、見るに耐えなかったのだ。
「どうかしたの?」
「いえ……しばらく物江さんを見かけなかったので」
「私、どのくらいいなかった?」
「四日です」
「……ああ」
 桃子は上半身だけ起き上がり、天井を見上げた。白く細い首筋を流れる髪に、ミカは一瞬意識を奪われた。
「ミカ」
 桃子は天井を見上げたまま目を見開き、ぽつりと言った。
 ミカは答えなかった。答えられなかった。何故なら、ミカが何か言おうと息を吸うよりも早く、その喉には薄い金属片が突き刺さっていたから。
 鍛え上げられた硬質の刃はミカの発声器官と骨組織を抵抗なく通り過ぎ、うなじの部分から飛び出していた。痙攣するように唇と指先を僅かに震わせて、ミカは事切れた。