ripsh


携帯らっと
14-2



 じめじめとした湿気を感じてミカは目を覚ました。そこは密林だった。
 ミカは混乱していた。最後に見た光景、あれは何だったのか?
 無数の白い羽根が宙を舞い、幻想的な美しさを演出している。その正体は切り裂かれた布団から飛び出した羽毛である。布団の裂け目からは桃子の腕が伸び、その手にはこれまでの戦いでよく見慣れた武器が握られている。刃はまっすぐミカの首を貫いているのに、桃子は天井を見上げたままで――
 不意にミカは胃の中身を柔らかい地面の上に吐き出した。
「えぅ……」
 僅かな水分と苦い体液、それ以外には何も出なかった。もうこれ以上出ないというのに胃は痙攣し続け、涙がぽたぽたと眼鏡の内側を濡らした。だらしなく開いた口の端から唾液が流れ出ては土に吸い込まれていく。荒い息づかいがやけに耳に障った。
「負けたのか……」
 吐き気が収まる頃には混乱した頭も落ち着き、事実を認めざるを得なくなっていた。結局あの赤い世界も、これまで渡ってきた世界と同じだったのだ。最初からそう低くない可能性として挙げていた筈じゃなかったか。桃子は敵で、倒すべき相手だと。
 それでも……とミカは思った。物江桃子と会話した時間は、彼女の語った言葉は、本当にただ私を殺すためだけのものだったのだろうか……。
 遠くで爆発音が聞こえた。鳥の羽ばたきと鳴き声が頭上を通り過ぎる。微かに怒号が聞こえてくる。この世界には戦いの緊張感がみなぎっていた。ああ、いつも通りだ。どこか安堵した心持ちでミカは立ち上がった。

 その後、ミカは草むらの中で最初に出会った相手と相討ちになり死んだ。

 次にミカが目を覚ますと、そこは赤い世界だった。見慣れた校舎に赤い森。ミカは自分の正気を疑った。一度訪れた世界に再び来ることなどあり得ないと思っていたからだ。それを許してしまったら、その世界で勝つまで何度でも挑戦することができてしまう……
 ……勝たなければならない、ということなのだろうか? ミカの脳裏に桃子の姿がよぎった。
 今更ながら信じられなかった。できることなら戦いたくない。既にミカにとって桃子は特別な存在になっていた。彼女に対して理由なく剣を向けることはミカの正義に強く反するのだった。
(もしも……もしもずっと戦いが起きなかったらどうなる?)
 ふと胸の奥に閃いたその考えを、ミカはとても魅力的なものだと感じた。そもそも相手と出会わなければ、戦いは始まらない筈。
 その思い付きを吟味するより先に体は動いていた。学校の敷地を出て坂道を下り、学生寮へと急ぐ。
(この世界では私と物江さんは出会わない。出会わなければ殺し合う必要もない――)
 ミカは、自分が何か致命的な見落としをしているような予感を無意識のうちに押し殺しながら足を早めた。
 息を切らしながら自分の部屋に飛び込んだミカはふと冷静になって、別に急ぐ必要などなかったことに気付いた。何に対してこんなにも焦っているのか……深くは考えないことにした。
 壁に背を押し当ててずるずると座り込む。フローリングの床に何か硬いものが当たる音がした。スカートのポケットを探ると、携帯端末が出てきた。
(そういえば本棚の迷路を歩いている時、携帯端末があれば時間が分かるのに、って思ったんだっけ……)
 ミカは虚無めいた笑顔を浮かべて手の中の機械を操作した。今はおせっかいな誰かに対して怒る気力もなかった。
(私、あの学校の学生なんだ)
 携帯端末の中にはミカの学生証が登録されていた。これがなければ新校舎に入ることができない。
(ああ、あの図書館は旧校舎だったのか)
 ミカの頭の中に、前回は分からなかった学校の全体図がはっきりと浮かんでいた。
(時間が巻き戻っている。今は私が物江さんと出会う前だ)
 常人には知り得る筈のない情報が次々に浮かび上がって来る。いつもなら不快感しか覚えなかっただろうが、今はほんの少しだけ感謝していた。
(この世界では私と物江さんは出会わない。出会わないまま約一ヶ月……私が死んだ日を越えたら何かが起きるのだろうか)

 数日後、ミカは学校のとある教室で授業を受けていた。いくら普通の人とかけ離れた体験をしているとはいえ、基本的にはミカはただの人間である。彼女は何もせず部屋でじっとして過ごすということを極度に嫌っていた。前回は図書館で桃子と話したり本を読んだりしていたので良かったのだが、寮の中では携帯端末を学内のネットワークに繋げることが出来ず、従って何もすることが無いのだった。
(これはこれで悪くない)
 さっぱり内容の分からない授業を聞きながらも、ミカはまんざらでもなかった。この学校の授業は完全選択制のため、適当な教室に潜り込んでも怪しまれる心配はない。ミカはこの『学生ごっこ』を透かして、失った遠い日の現実を夢見ているのかもしれなかった。
 そうして半月ほど経った頃、ミカは学校の中で妙な噂を聞くようになった。
 曰く、ヴァンパイアの学生が図書館の亡霊の血を狙っているのだという。意味はよく分からなかったが、図書館という単語にミカは胸騒ぎを覚えた。新校舎には図書館がない。この学校で図書館と言えば、桃子のいる旧校舎の図書館を指すのが普通だ。学内ネットワーク上では噂に関する様々な話題が飛び交っていた。中でも信憑性の高いものはテンプレートとしてまとめられており、調べればすぐに情報が集まってきた。
 図書館の亡霊とはやはり、現図書委員長の物江桃子のことだった。彼女は約八年前からこの学校に在籍しており、一年生のある日を境に別人のようになったのだという。精神状態が不安定になり学校生活に支障をきたしていたにもかかわらず、学校側からの強い支援により三年まで進級。その後も何故か卒業せずに図書委員長として学校に残り続けている。校則とは別枠の図書館規則や、それに反する者への特別権限など、明らかに学生の限度を超えた権力を与えられており、そのせいで図書館に近付く者はほとんどいなくなっている。
 ミカは釣り堀の魚になったような気分だった。こうもあからさまに怪しい情報が出てくると、騙されているのではないかという気になってしまう。
 次に噂の渦中のもう一人について目を通した。ヴァンパイアの学生とは、比喩でも何でもない。今年の一年生にヴァンパイアを自称している学生が一人いるのだという。あくまで自称だが、この学校では本物だろうが偽物だろうがあまり違いはない。ミカはこの自称ヴァンパイアに対してよく分からない苛立ちを覚えた。なぜ静かに過ごしている桃子に余計な手出しをするのか。同時に、自分もこうして調べるまで桃子のことをほとんど知らなかったくせに、どうしてそんなことを思ってしまうのかと戸惑ってもいた。それが嫉妬という感情であることをミカは知らなかった。とにかくこの自称ヴァンパイアに何か言ってやらなければ気が済まないという思いだけがあった。

「あなたがゴルドさんですか」
 人気のない校舎裏、ミカは一人の男を呼び止めた。
「いかにも。でも僕のことはゴルド卿と呼んで貰いたいな」
 長身の男……ゴルドはミカに不敵な微笑みを返す。授業中の校舎裏はひっそりと静まりかえっていた。
「では……ゴルド卿。あなたは」
「おっと、その前にそちらの名前を教えて貰ってもいいですか。貴女のような美しい人の名前を知らないまま話をするのは失礼というもの」
 出だしからゴルドに割り込まれて、ミカは押し黙った。ペースを乱されている。主導権を取られそうになっている。だがそれ以上に、名前を掌握されることに対してミカの心は警鐘を鳴らしていた。相手に名前を名乗らせて呪いをかけるというのはよくある手口である。しかし、考え過ぎかも知れない。今のところ敵になる可能性が一番高いのは桃子の筈……。
 ミカは少し考えてから口を開いた。
「ミカ、と呼ばれています」
「いい名前だ。では親しみを込めてミカと呼ばせて貰っても?」
「どうぞお好きに……。それでゴルド卿。あなたには例の噂について聞きたいことがあります」
「噂って?」
「あなたが図書委員長に近付いているという……学内ネットを見ていないんですか?」
「あいにく僕はそういうのにあまり興味がなくてね」
「周りの人たちは大いに興味を持っているようですが。こうして直接聞かれるのも、これが初めてという訳じゃないでしょう?」
「さてどうかな……。ただ、僕が図書委員長に近付いているというのは本当だ」
「私はその理由を聞きたいんです」
「理由? 理由など皆それぞれ勝手に想像すればいい。その方が楽しいだろうしね」
「……物江さんの意識は現在と未来が混濁しています」
 ミカはきっぱりと言った。その言葉に、ゴルドの顔から飄々とした微笑が消えた。
「たぶん、ですけど。彼女が他者とうまくコミュニケーションを取れないのは、意識の中にある時間軸が現実と噛み合っていないからだと思います。彼女は無意識のうちに未来を見ている」
 これはハッタリだった。確かに桃子が未来を見ている可能性は高かったが、それではミカのこれまで数多の世界で戦ってきた過去を言い当てたことについて説明がつかない。しかし、そんなことは些細な問題だった。今は目の前にいる人物に、自分は噂を遠巻きに見て楽しんでいる傍観者ではなく当事者なのだということを分からせる必要があった。
「ほう……」
 そしてそれはどうやら成功したようだった。つい先ほどまで景色でも見るような目でミカを見ていたゴルドは、今この瞬間にようやくミカに対してピントを合わせたようだった。
「もう一度聞きます。あなたは何故、物江桃子さんに近付くのですか?」
 ゴルドはニヤリと笑った。
「僕は彼女を救いたいと思っている」
「何故ですか」
「彼女が望んで今の状態になったとは思えないからだ」
「理由になっていません」
「つらそうにしている女の子がいる。助ける理由なんてそれで十分だろう」
「どこまで本気か分かりませんね」
「君も彼女を救いたいのかい?」
「……え?」
「違う? そこまで詳しく彼女について知っていて、その上で僕に声をかけてきた。コイツが単なる興味本位や危害を加えるつもりで彼女に近付いているのならこの場でどうにかしてやろう、って顔だったぜ」
「私は……」
 ミカはそこで初めて、自分でも気付かなかった自分の本心を悟った。桃子の姿を思い浮かべると、一度殺された相手なのに、不思議と恐怖や憎しみは湧いて来ない。それどころか、無性に切ない気持ちと親愛の情が込み上げて来るのだ。
「そう、ですね。私もできれば彼女を助けたい」
「それなら」
 ゴルドはスッと右手を差し出した。
「協力しよう。僕らの目的は同じだ」
 ミカはゴルドの手をまじまじと見つめた。それから少しだけゴルドの顔を上目遣いで見て、遠慮がちにその手を握った。
「どうかした?」
 落ち着かない様子のミカを見てゴルドが微笑みかける。
「……別に」
 ミカは目をそらし、慌てたように手を離した。
「慣れてないだけです」
 知識として知ってはいたが、実際にこうして他人と握手をするのは、初めてだったのだ。