ripsh


携帯らっと
14-4



 かつて、世界は一つだった。それは今では考えられないほどに広大なものだった。空の果てに輝く無数の星々の更にその先まで、人間はまだ見ぬ世界の果てを目指して広がり続けていた。
 しかしある時、大戦が起きた。それが一体、何と何の戦いだったのか、今では知る術もない。ただその規模はあまりにも大き過ぎた。大戦の最後に放たれた力によって、世界はあらゆる空間ごとズタズタに引き裂かれた。亀裂は正体不明の混沌で満たされ、それぞれの世界は混沌の海に浮かぶ島のように孤立した。
 混沌に流れる力の影響か、各世界に住む人間たちは急速に独自の進化を遂げていった。ある世界では魔術が科学技術にとって代わり、また逆に科学技術のみに特化した世界では人間の大半が仮想現実に生きていた。かつて空想された伝説上の怪物のように変容した者たちが歩き回る世界や、人間が全て猫になった世界もあった。混沌を行き来する方法が科学あるいは魔術によって開発されるまで、各世界はバラエティに富んだ進化を続けた。
 しかし、全ての世界が順風満帆だった訳ではない。環境の変化に耐え切れずに滅んだ世界や、大戦前に作られた兵器の暴発で消滅した世界も多くあった。
 そんな中、滅びの間際に進化の分岐点を迎えた世界があった。彼らは肉体の消滅後も意識と記憶を残留させ、一つに集まった。彼らは肉体を持たぬ一個の知性体として生まれ変わり、分裂と統合を繰り返すことで大きく広がることのできる性質を得た。やがて、肉体という枷のない彼らはごく自然に混沌の中へと進出した。他の世界でゲートや艦による混沌航行法が開発されるより遥か以前のことである。
 混沌は彼らによく馴染んだ。滅んだ世界の残留思念や大戦に巻き込まれた死者の記憶がそこにあったからだ。彼らはそれらを取り込み、思考し、分裂し、再び一つになり、やがて混沌の隅々にまで広がるようになった。彼らは混沌に散らばる地上世界を俯瞰し、その歴史や文化を記憶していった。やがて進化を続けた彼らは、その意識の中から時間と空間の区別を取り払うことに成功した。移動する、という概念がなくなった。ただ意識を向けるだけで彼らはそこにいた。
 彼らは個であり全体であった。彼らが分裂と統合を繰り返すのは、多様性を保ちながら更なる進化の可能性を模索するためだった。分裂した個体が思考結合を解き自殺することもあったし、自分の意思に同調する個体を集めて反乱を企てることもあった。彼らはそれら全てのイレギュラーを是とした。分裂した個体がどのように考え行動しようと、やがて一つになればどんな経験も糧となる。疑問も、悪意も、死も、みな等しく情報としての価値があった。
 やがて彼らの中から、地上世界に自らを顕現させようと試みる者が現れた。最初は、その世界に住む人間の中に入り込み、生きた視点から世界を見ようという考えだった。しかしこの方法では二つの意識が混濁してしまい、うまくいかなかった。次に死体に入り込むのはどうかと考えた。これも失敗だった。肉体に染み込んだ記憶がノイズとなって使い物にならなかったのだ。結局、まっさらな体を一から作るしかないと結論した。魔術や科学技術を扱える人間に干渉して人工の肉体を作らせ、そこに自分のコピーを宿らせることで当初の目的は達成された。ある程度地上で活動した後に肉体を分解すれば、コピーの記憶がオリジナルの個体に上書きされるという仕組みだ。
 これまで俯瞰していた世界を地上から観察してみても特に目新しい発見はなかったが、しかしそこには言葉では言い表せない不思議な感動があった。肉体を捨てることが進化の重要なステップだという認識を見直す必要さえあると思われた。この地上世界での経験は、後に統合された無数の記憶の中でもひときわ輝いていた。そして再び分裂期を迎えた彼らは、こぞって先駆者を追いかけたのだった。

 そうして彼女は、この赤い世界に降り立った。

「私が彼女を作ったんだ」
 物江イズミは静かな声で言った。
「ある日突然、人と同じ組成の人形を作らなければならないという衝動で頭がいっぱいになった。神というものがいるならば、これはそのお告げなのだと思った。まあ実際似たようなものだったわけだが……。私の家系は魔術を扱う一族だったんだが、頭の中に、今まで見たこともない術式が流れ込んできた。それを使えば、これまで不可能とされていた人体の生成が可能になると直感した。私は導かれるように人形を作ったんだ」
「そしてその人形に、意識が宿った?」
 ミカはこの話がどのように決着するか、大体の想像がついていた。
「その通りだ。彼女は私を使って自分の肉体を作らせたんだ」
「その人が、桃子さんのお母様なんですね」
 空気は冷たく沈んでいた。この部屋には空調がないらしい。
「……そうだ」
 物江イズミはうなだれるように小さく頷いた。
「彼女の肉体を作った時、確かに私は操られていた。しかし、彼女を愛していたのは本当だった。紛れもない私の本心だった。だがそのせいで桃子は……あの子は苦しむために生まれてきたようなものだ……」
「今は奥様は?」
「消えてしまったよ。そもそも魔術で作り出した肉体は仮初めの器だ。彼女はもっと早くに消える筈だった。しかし彼女は桃子を身籠ったために、無理な延命を重ねたんだ。せめて桃子が大人になるまではと……。だが私の心には、彼女に生きていて欲しいという気持ちと、これ以上その延命措置を行って欲しくないという気持ちが同時に渦巻いていたんだ」
「何故ですか? 愛している人には長く生きていて欲しいと思うものではないんですか?」
 ミカは当然の疑問を口に出した。彼女は愛というものが何なのかよく分からなかったが、それが人にどのような行動を取らせるかは知識として知っていた。
「延命の方法に問題があったんだ。肉体の制限時間を超えて活動を維持させるためには、同じ型の生け贄が必要だった。彼女は、人間の命を喰らってこの世界に姿を留めていたんだ」
 部屋の中に嫌な静寂が訪れた。ミカは唇に人差し指を這わせながら、何事かを思案していた。ゴルドは最初からこの場をミカに任せるつもりだったらしく、ゆったりと足を組んで、一歩引いた所から二人を交互に眺めている。
「大体分かりました」
 ややあって、ミカは口を開いた。
「桃子さんが言っていた『あの日』というのは、奥様が消えた日のことだったんですね? その日を境に、桃子さんは別人のようになった」
「そうだ。彼女の肉体を維持していた術が解け、彼女の痕跡は遡るようにして消えていった。その影響は娘の桃子にも及んだが、あの子は半分だけ生き残った。もう半分は、妻の本当の姿と同じもの……数多の世界を俯瞰することのできる、いわゆる神様のようなものになった」
 ミカはようやく合点がいった。桃子は未来を見ていたのではなく、無数に枝分かれする可能性の世界を眺めていただけなのだ。あったかもしれない過去、起こり得るかもしれない未来、ここであってここでない場所。
 桃子はミカと出会った瞬間に、ミカがこれまで辿ってきた歴史とこれから起こるであろう出来事を無意識のうちに斜め読みしたのだ。しかし恐らく本人には、目の前にある現実と今しがた見た可能性世界の区別がついていなかったのだろう。ミカが初めて桃子と会った時、桃子は既にミカと知り合いのつもりだったのだ。
 記憶と現実が噛み合わないというのはどんな気持ちなのだろうか、とミカは思った。見た目は普通なのに、どこかが致命的にズレている世界。多分、そう長くない時間で発狂してしまうだろう。奇妙に変型した不気味な景色の中にたった一人で佇む桃子の姿を想像して、ミカは僅かに身震いした。
「どうして桃子さんを一人にしたんですか。あんな場所に閉じ込めるみたいに……彼女が頼れるのはあなたしかいなかった筈なのに」
「私では駄目だったんだ」
 物江イズミは足元を見つめたまま言った。
「あの日から、私が近付くだけであの子はひどく苦しむようになった。恐らく、不安定になっている体には、その起源である私の存在が強く影響してしまうのだろう。私にはどうすることも出来なかった。それに……」
「それに?」
「あの子はいずれ人を喰う。妻が生け贄を必要としたのと同じように、あの子も人の命を必要とする時が来る。本当なら半分死んでいる時点で普通の人間のように振舞うことなど不可能な筈なのに、今あの子が普通に動けているのは、まだ人間の部分に術の残滓が引っかかっているからだ。だからあの子を隔離するような真似をした。他人から遠ざけようと考えた。だが完全に孤立した場所に閉じ込めることは出来なかった。どうやらあの子の半身は、人の感情から生じるエネルギーを取り込んでいるらしいことが分かったからだ。命を喰うことが食事ならば、感情エネルギーを取り込むことは呼吸のようなものらしい。人との適度な接触はむしろ猶予期間を延ばすことになるかもしれないと思ったんだ」
 ミカは何か言い返そうとして、やめた。自分と話していた時、桃子はどんな様子だっただろうかと考えた。笑顔は一度も見れなかったけど、のんびりと静かにくつろいでいるような表情がそこにはあった筈だ。
「……何も知らずに、責めるようなことを言ってすみませんでした」
「いや、いいんだ」
 慌てたように物江イズミは言った。
「君が謝ることは何もない。娘のことをそこまで想ってくれる友達を咎めることなど私にはできない。だが……さっき言った通り、娘はいずれ人を襲うようになるだろう。だから君自身の安全のためにも、あまり深く踏み込まない方がいいとは思う」
「それは……」
 実は既に一度手遅れになったことがあるとは言えず、ミカは黙った。
「私も相反する気持ちを抱いているんだ。娘にはもっと普通の女の子のようにたくさん友達を作ってもらいたいとも思うが、そうすることでいずれ多くの人々を危険な目に遭わせるかもしれない。私にできるのは、その時期を遅らせることだけだ。あの子が今いる場所には大量の魔書が貯蔵されている。その魔力を変換してあの子に注ぐシステムを私と友人――あの学校の学長とで作り上げた。……だがあれも、そう長くは持たないだろう」
 ミカは、桃子が眠っていた書庫を思い浮かべた。あの奇妙な空間も、全て桃子が人として生きるためのものだったのかと思うと、不思議と暖かさのようなものを感じた。
 だが同時に、首の中を通り抜けていった冷たい刃の感触も蘇る。あの時、彼女はもう限界だったのだ。人が水を飲まなければ生きられないように、彼女も人の命を浴びずにはいられなかったのだろう。
 ミカは、胸の中に湧き出るやりきれない思いに戸惑っていた。これまでに感じたことのない気持ちだった。自分が殺された日まであと半月あまり。その間に桃子を救うことなど出来るのだろうか?
「私たちは桃子さんを救いたいと思っています。今日ここに来たのも、その方法を探すためです。あなたなら何か知っているのではないですか? 桃子さんを元に戻す方法を、何か……」
 いつの間にか気持ちは言葉になっていた。しかし、それを聞いた物江イズミの表情は固かった。
「私は……友人に全てを託したあの日から、毎日のように娘を救う方法を探してきた。だが……もう八年か。八年経ってもそれは未だに見つかっていないんだ。申し訳ないが、私から君たちに教えられることは、もうこれ以上何もないんだよ」
 ミカにとってそれは半ば予想通りの答えだった。もしもそんな方法が見つかっているなら、この人はとっくに自分で行動しているだろう。分かってはいたが……それでもミカは、剣を使い尽くしても倒れない相手を前にした時によく感じたことのある、目の前に暗幕を下ろされたかのような気持ちを味わっていた。物江イズミの話を聞くまでは、まだなんとかなるのではないかと思っていた。しかし、話を聞くうちに、相手の大きさを見誤っていたことに気付いた。自分一人の手に余る、どころではない。これは手がいくつあっても足りないような問題だったのだ。
「失礼。一つ、つまらない質問をしても良いですか?」
 ミカが何も話さなくなったのを見て、ゴルドが間を持たせるように言った。
「どうぞ」
「もしも桃子さんがたくさんの命を必要とする事態に陥ったら、物江さんはどうされますか?」
 悪趣味な質問だった。娘が人を殺すようになったらお前は娘を殺すのか、と聞いているのだ。しかし、最悪の事態を考えるなら確認しておくべきことでもあった。
「……そうだな。それも八年間、考えなかった日はない。未だに葛藤は絶えないが……それでもその時が来たら、私はあの子を止めるだろうな。親として果たさなければならない責任でもある。しかしそれまでは、ギリギリまで可能性を模索し続けたい。事が起きてからでは遅いと言われるかもしれないが……」
 物江イズミの言葉を聞いて、ミカは自分の心の中に何かが疼くのを感じた。それは彼女がこれまでずっと信奉してきた、正義の心だった。
(正義はどこにある?)
 ミカは自問した。ミカの心の中に、血に染まる刃を手にした桃子の姿が浮かんだ。
(物江さんは人を殺したがっているのか?)
 答えは否だ。噂が広まって図書館に多くの人が訪れるようになっても、桃子は彼らをことごとく拒絶しているとゴルドは言っていた。彼女は誰も殺したくないのだ。殺さないために他人を遠ざけているのだ。しかし……いずれ彼女は間違いなく人を殺す。それは自分自身の体で実証済みだった。
(ならばどうする?)
 ならば……答えは一つしかなかった。