ripsh


携帯らっと
14-5



「今日はもう遅い。帰りのバスもないだろうから、泊まっていくといい。この家にあるものは全て好きに使ってくれて構わない」
 そう言い残すと、物江イズミは二階の自室に籠ってしまった。
 ミカは少し躊躇したが、結局物江イズミの言葉に甘えることにした。ゴルドは既に隣の部屋の冷蔵庫を物色し始めていた。
 殺風景な応接間の隣は、カウンター付きのダイニングキッチンになっていた。柔らかそうな背もたれのある椅子と、厚い木でできたテーブルがあり、その上に遠慮という言葉を忘れてしまったかのように料理や飲み物が並べられた。
「そういえば、聞いてませんでしたけど」
 ミカはグラスに注がれた赤い液体を煽った。
「ゴルド卿、そもそもあなたはどうして物江さんのことを知ったのです?」
「話してなかったっけ」
 ゴルドは手づかみにしていた白いチーズを皿に置いて言った。
「放課後に校内を探索していたら、突然部活動に勧誘されてね。暇だったんで入ることにしたんだ」
「部活?」
「歴史編纂部とかいったかな。活動内容を説明するとかで、そのまま図書館に連れていかれた。そこで桃子ちゃんを見掛けてね、なんだか変な子だったんで一方的に話しかけてたら、部長にひどく怒られた。何か様子が妙だなと思って詳しく聞いたら、桃子ちゃんが普通の状態じゃないってことを教えてくれたんだよ」
「歴史編纂部……」
 ミカはその名前に聞き覚えがあった。確か初めてこの世界に来た時、図書館で桃子が話し掛けてきたきっかけが、その歴史編纂部とやらの本ではなかったか……。この件に直接関係はなさそうだが、妙な符丁だなとミカは思った。
「……ところでゴルド卿、やっぱりあなたは明日もこの街に留まるべきだと思います」
 行きのバスの中や物江イズミを待っている間に何度となく聞かされた言葉にゴルドは苦笑した。
「君は心配性だなあ」
「そうです」
 タンッと空のグラスをテーブルに叩き付けてミカは言った。
「私はあなたのことを心配しているんですよ」
 言いながら、ゴルドの顔とテーブルの反対側にあるヴィンテージもののボトルをチラチラ見比べる。ゴルドは軽く肩をすくめてからボトルの中身をミカのグラスに注いだ。
「自分のことは自分でなんとかするさ」
「ダメです。ちょっとばかしの腕力でどうにかなるような問題じゃないんです。あなた、学校に目をつけられてるんですよ? これ以上目立って退学させられたらどうするんですか? 私はイヤですよ、そんなの」
 そう言って、ミカは水を飲むようにごくごくと赤い液体を喉に流し込んだ。
「どうしてそこまで僕のことにこだわるんだい? 今は桃子ちゃんのことを第一に考えるべきじゃないか?」
「私はね……」
 ミカはテーブルに肘を突き、そこら辺に転がっていたナッツを指先で弄びながら言った。
「自分の手の届く範囲でしか、正義を行えないんですよ……。こうして手を伸ばした、テーブルの向こうのあなたにも届かないくらいの、ほんのささやかな、ただの半円ですよ……」
 ゴルドは目の前に伸ばされてきたミカの手からナッツを取り上げて、自分の口に放り込んだ。
「飲み過ぎじゃあないの?」
「だからこそ私は……」
 ミカはゴルドの声が聞こえていないようだった。
「私の正義はね……大切な人やものを守ることで……でもそんなもの全然見つからなくて……それに見つけてもこんな狭い、ちっぽけな半円の中でしか守れないから……だからせめて……私と深く関わった人たちを取りこぼしたりなんかしたくないんですよ……絶対に……」
 ゴルドは、テーブルの上でぐんにゃりとしているミカに何か気の利いた冗談でも言ってやろうかと思ったが、その顔を見て何も言えなくなった。髪の毛で隠れてよく見えなかったが、ミカの頬に何か光るものが流れたような気がしたのだ。
 ゴルドは目の前のテーブルに投げ出された華奢な手を見た。この子は、この細い手で一体どれほどの絶望をかき分けてきたのだろうか。ミカが普通の人間ではないことはゴルドも気付いていた。彼女の心の中にあるのは、正義という小さな光の点と、後は真っ暗な絶望の海だけだ。
 さっき、どうしてこの手を掴んでやらなかったのかとゴルドは思った。例えその手が届かなくても、こちらから手を伸ばせば届くこともあるのだと、教えてやればよかった。
「……僕も少し飲み過ぎたな」
 ゴルドは静かな寝息を立てているミカを担ぎ、客用の寝室のベッドに寝かせてやった。壊れてはいけないと思い眼鏡を外した時、まるで子供のように無邪気な寝顔が目に飛び込んできた。
「こりゃあ……見なきゃよかったな……」
 ゴルドはダイニングキッチンに戻ると、自分のグラスにボトルの残りを注いでから、少しの間天井を見上げていた。

「物江イズミさんが見当たらないんですが」
 翌朝。まるで昨夜のことなどすっかり忘れたような顔でミカは言った。起き抜けにシャワーを浴びた火照りがまだ少し残っている。普段後ろで一つにまとめている髪は解かれており、採光窓からの朝日に照らされてキラキラと輝いていた。
「夜明け前に出て行ったみたいだけど。やけに急いでいたな」
 ゴルドは固そうなパンをちぎりながら答えた。
「急いで……? どこに?」
「さあ。声をかける間もなかったな」
 ミカは何か嫌な予感を感じ取った。
「私……学校に戻ります。ゴルド卿はここにいて貰えませんか」
「いいよ」
「えっ」
 驚くほどあっさりと承諾されてミカは逆に戸惑った。昨日からいくらゴルドに身を隠すように言っても、彼は適当にはぐらかすだけだったのだ。
「昨夜の君の言葉に心動かされたんだよ」
 朗らかな笑顔でゴルドは言った。
「昨夜……私、何か言いました?」
「まあ、今回は君の顔を立てるってことで。早く行きなよ。ここは携帯端末のエリア外だから、この家の固定端末IDを移しておくのを忘れないように。何かあったら早めに連絡してくれよ」
 そう言うとゴルドはパンに乳白色のクリームを塗って頬張った。
「ありがとう」
 ミカは手早く髪を結ぶと、家を飛び出した。

 あの時ああしていれば……などというのは、後になって全ての流れが見えたからこそ言えることだ。
 未来から来た自分がここはこうしなさいと言ったとしても、実際に現在を生きる自分がそれまでの流れを曲げた選択をするには、想像以上に大きなエネルギーを要する。
 しかし、それでも。
 それでも彼女は、昨日の夜、物江イズミの誘いを断るべきだったのだ。例えバスがなくても、彼女の身体能力なら夜通し走り続ければ明け方には学校に着けた筈だ。
 ……無茶なことを言っているのは分かっている。あの場面で、そんな選択をするのは不自然に過ぎる。だがそれでも。それでも彼女はそうしておくべきだった。そうすれば、何もかも手遅れにならずに済んだのに。
 ミカは、そう思った。

 ミカが学校に着いたのは昼頃だった。構内は静まり返っていた。今は授業時間中だからそれは当然の筈なのだが、それにしてはやけに静か過ぎるような気がした。
 ミカは胸騒ぎを覚えて旧校舎に向かった。鳥や虫の声すら聞こえない。耳が痛いほどの静寂が続いていた。
 図書館の扉を開けると、いつもと同じように赤い光が目を射抜いた。誰もいなかった。生きている者は、誰も。
 ムッと濃い空気が鼻をついた。館内に充満するのは死のにおい。戦場では何度となく嗅ぎ慣れたものだ。床には、今朝まで誰かの体内を廻っていたであろう血液と、透明な油にまみれた鉄屑の残骸が散らばっていた。だが、血痕の上にあって然るべき肉片やそれに類するものは見当たらなかった。どこかへ運んだのだろうか。
 ミカはショックを受けたり狼狽えたりするより先に、かつて日常だった戦場での思考に切り替わっていた。床に散らばっている金属片は、恐らく学校側が差し向けた兵器だろう。桃子が殺人衝動を発現させることを見越して用意されていたと考えるのが妥当か。物江イズミが友人である学長に頼んで設置してあったのかもしれない。この様子では大して役には立たなかったようだが。
 しばらく耳をすませていても物音は聞こえてこなかった。館内に桃子がいる可能性は低そうだったが、ミカは念のため書庫を見ておくことにした。
 司書室に入り、奥にある扉をゆっくりとスライドさせる。そこはもう、以前訪れた時の本棚が整然と並ぶ書庫ではなかった。
 まるで小型の竜巻が発生したかのような、巨人が鉄球を振り回したかのような、惨状。鉄のラックは飴細工のようにひしゃげ、正体不明のガラクタが散乱し、本は本としての原型を留めず雪のように辺り一面に降り積もっていた。
 奥へ進むと、紙片が赤く染まっている場所があった。そこには紙とは違う材質の白い欠片が覗いていた。見覚えのある白衣だった。
(止められなかったんですね……)
 ミカはその白衣の切れ端にそっと触れてから、図書館を後にした。
 新校舎の中は不気味なほどに静かだった。授業中に教室を抜け出した時のあの静寂とは似て非なるもの。所々に赤いペイントがぶちまけられてさえいなければ、うっかり休日に登校してしまったのではないかと思いそうになる。
(いつの間にか私もこの世界に馴染んでいたんだな)
 それはミカにとっては嬉しいような悲しいような複雑な気分だった。
 試しに手近な教室の扉を開けてみる。そこには床一面に赤が広がるだけで誰もいなかった。所々に破壊の跡があるのは、腕に覚えのある者が戦いを挑んだからだろう。
 校舎の一階を隅まで歩いてから、二階に上がる。様子は大して変わらなかった。時に大きく校舎が破壊されている部分もあったが、そこには例外なく血痕が残っていた。同じように三階、四階と進んだが、どこにも生物の気配はなかった。四階は主に倉庫や臨時教室として使われているためか、血痕すらない。
 この新校舎は屋上には上れなかった筈――そう思っていたミカの目の前に、学生には決して開放されることがないであろう階段室への入口がぽっかりと口を開けて現れた。鋼鉄の扉は折り紙のように引き千切られ無造作に転がっている。ミカはゆっくりと薄暗い階段室に足を踏み入れた。

 屋上。鱗雲がぐんぐんと風に流れ、ピンク色の空を生き物のように演出している。灰色の無骨な合成石でできた足下には、数時間前まで空調設備として機能していたと思しき物体が散乱していた。
 そしてその中心に、桃子はいた。赤く染まった全身。手足は二回りほど大きく、人間のものとは異なる形状をしている。しかし一目で分かる変化はそのくらいで、黒髪や美しい顔、華奢な体はそのままだった。
(あの時ああしていれば、なんて……)
 ミカの体は思考と切り離され、右手に一本の刀を生成する。斬撃剣。わざわざ形を与える必要もないのだが、ミカにはこのフォルムが最も扱い易いのだった。
(そういえばこの形状……)
 改めて見るとその刀の形は、前に訪れたこの世界で桃子に喉を貫かれた刀と同じものだった。
(そうか……ここでこれを見て……覚えていてくれたんだね)
 ミカは桃子の痛々しい姿に儚げな笑顔を投げ、そして、跳んだ。
 加速する。加熱する。身体中の全てが戦いのために動く。盾は不要。護りも不要。必要なのはただ一つの揺るがない心のみ。
 一瞬の邂逅。閃く刃が桃子の化物じみた右腕を切り離した。突進の勢いをそのままに、虚を突くために逆側へと回り込む。降り下ろす連撃。だが、浅い。しかしこの間合いならば次で確実に首を取る。そう思ったその時――
「ごめんね」
 ミカの耳には確かに桃子の声が聞こえた。同時に、全身をスパイクのついた岩石で叩きつけられたような痛みが襲い、脳髄を痺れさせた。致命傷だ。しかし、今回は戦闘体勢を整えてある。一度くらいの死は回避できる……そう思った瞬間、ミカの視界は暗転した。体感時間にして一秒程度の浮遊感。

 目を開けるとそこは砂浜だった。

 ここは無人島で、これから漂流者たちによる戦いが始まるらしい。ミカの手にはあの刀ではなく木刀のようなものが握らされていたが、今はそんなことはどうでもよかった。
「また……負けたのか」
 しかし、ミカの胸中に絶望はなかった。次こそ、今度こそ決着をつけなければならない。

 ミカは海を見渡せる岬に靴を捨てて、遥か遠い世界へと飛び降りた。