携帯らっと
15 「そうして私は三度この世界に足を踏み入れたのです」 ミカはそう言って話を締めくくった。 「なるほど、それで君は僕のことを知っていたんだな」 納得したようにゴルドが頷く。 「それではさっき眠っていた桃子さんは……まさかもう……」 ぴよらっとが司書室の方に顔を向けると、他の三人も釣られるようにそちらを見た。 「いえ、まだ大丈夫な筈です」 ミカは冷静に言った。 確かにそうでなければ四人で書庫に入ろうとした時点でミカは皆を止めていただろうし、仮に手遅れだったとしたら、こうして何事もなく書庫を出ることなど出来なかっただろう。 「そうですか……。でも、近いうちに必ずタイムリミットが来てしまうんですよね……」 一瞬だけ訪れた安堵したような空気も、すぐに逃れようのない現実によって冷却されてしまう。ぴよらっとたちは今、ミカが物江イズミに真実を明かされた時と同じ衝撃を感じているのだ。 「今まで通りなら、あと一ヶ月くらいは大丈夫な筈です。何もなければ……」 そこでふとミカは口を閉ざした。少しだけ表情が険しくなる。 「……ああ、噂か」 言葉を途中で詰まらせたミカの様子を見て、ゴルドはその理由をいち早く察したらしい。 「何も起こらなければ一ヶ月は持つ筈だったのに、君が前にいた世界では僕のせいで噂が流れて、恐らくそれが原因で桃子ちゃんのタイムリミットが早まってしまったんだね」 「……」 ミカは答えなかったが、その沈黙は肯定と同じだった。 「でもそうと分かれば、僕も桃子ちゃんに近付くのはやめるよ。それで噂の心配はなくなるんじゃないかい?」 ゴルドの言葉に、ミカは静かに首を振った。 「恐らくもう手遅れだと思います。前回の、噂が意思を持ってネットワーク上を駆け巡っているような……あの盛り上がり方は不自然でした。学校側だって何も対策をしなかったとは思えません。憶測ですが……物江さんの半身が捕食のために学生たちの無意識を操っていたのではないかと思うんです。」 「まいったな……」 ゴルドは苦い顔で頭を掻いた。よかれと思ってやっていたことが完全に裏目に出ていたのだ。 あなたを斬ると言って目の前に立ちはだかったミカの姿をゴルドは思い出していた。その滑稽とも思える様を見て思わず一笑に伏したが、本当は笑い事ではなかったのだ。ミカはこれ以上ないくらいに真剣で、切実だった。その気持ちを思うと、ゴルドの心は鈍く痛んだ。 「なんと言うか、すまなかった」 「いえ。どちらにしろ手遅れだったのです」 そんなゴルドの心を見透かしたようにミカは言った。 「あの場で私がゴルド卿を斬り、新たな噂を作って学生たちの意識を引き込もうとしても、恐らく失敗していたでしょう。もっと早くに手を打つべきだったのです。全て私の不手際です」 そうは言ったが、実際のところミカは先手を打つべく動いていた。前回の世界でゴルドが勧誘されたという歴史編纂部に先回りして入り込み、桃子への接点となる部長を見張っていた。結局ゴルドは姿を見せず、代わりにぴよらっとが現れたのだが……ミカは前回と同じく必ずゴルドと部長が接触すると踏んでいたために、対応が後手に回ってしまったのだった。 「あら、噂なら心配する必要はありませんわ」 淀んだ空気を一掃するかのような、涼やかな声が響いた。ヴァンパイアの少女、リリィである。 「ここの学生たちから、図書館と物江さんに対する興味や好奇心を根こそぎ喰い尽くして差し上げますわ。それで問題ないでしょう?」 ゴルドは救いの光に照らされたような表情を浮かべ、ミカはただ唖然としていた。いくらリリィが精神エネルギーを喰うといっても、そんな微妙な調節が可能なのだろうかと訝ったのだ。 「できますわ。ただし……」 リリィはもったいぶるように言葉を区切って、悪戯を仕掛けた子供のような顔をした。 「一度喰えばそれで終わりという訳ではありませんのよ。好奇心の芽は死ぬまで萌え続けるものですし、観測者に操作されているとしたらなおさら、毎日こまめに摘んで上げなければなりませんわ」 にっこりと笑うリリィ。 「あー……なるほど。ギブアンドテイクだね」 ゴルドは呆れたような声を出した。リリィは手間なく大量の食餌にありつけるし、ついでに噂の発生を抑えることもできるという訳だ。 「よかったです。これで一ヶ月くらいは大丈夫なんですね。リリィさん、よろしくお願いします」 ぴよらっとがペコリと頭を下げた。長い耳が弾力ありげに揺れる。 ぴよらっとが頭を戻すと同時にリリィがその耳を掴んだ。 「ぴよらっとさんにお願いされたら断る訳にはいきませんわね……ただ」 リリィは両手にそれぞれ耳を掴み、耳の先端を自分の頬やくちびるに当てながら言った。 「んー……ミカさんに確かめておきたいことがありますわ」 リリィはパッとぴよらっとの耳から手を離し、ミカに向き直った。 「なんですか」 「ミカさん、あなたはタイムリミットまでの約一ヶ月をどうするつもりですの?」 「……物江さんを治す方法を探します」 「でしょうね。ではそれが間に合わなかったら?」 「間に合わなかったら……より被害が少なくなるように動きます」 「具体的には?」 「……物江さんを斬ります」 ぴよらっとの耳がぴくりと動いた。 「あなた一人で?」 「もちろんそのつもりです」 「そう……」 リリィはスッと視線を足下に向けた。 一瞬、図書館の空気がぐにゃりと歪んだ。 「……ミカさん。あなた、少々なめていらっしゃるんじゃありません?」 顔を上げたリリィの瞳は真っ赤に染まっていた。 ミカは無意識のうちに臨戦態勢を取った。リリィから発せられる殺気は触れれば切れてしまいそうなほどに鋭い。しかしミカも数え切れないほどの戦場を経験してきている。このくらいで心を挫かれるほどヤワではない。 「何か気に障りましたか?」 ミカは毅然と胸を張り、リリィを見つめ返した。 「物江さんを救う方法が見つからなかったら彼女を斬ると仰いましたけど。あなた、物江さんに勝てなかったのでしょう。それも二度も」 「それは……最初は虚を突かれただけです。二度目は彼女が十分に力を取り込んでいたから……そうなる前に叩けば勝ちの目はあります」 「そうなる前に? あなたはタイムリミットが近付いたら物江さんが変容するまでじっと彼女の側で待っているおつもり? ではどの時点で彼女を救うことを諦めるんですの?」 「……」 「……あなたはね、ミカさん。心のどこかで既に諦めてしまっているのですわ。自分では物江さんを救うことも殺すこともできないと。それでも、死んで次の世界に行けば、何か奇跡のようなものが起きてどうにかなるかも知れないと思っている」 「……」 「でもね、あなたが死んでも、あなたがいた世界は終わらないんですのよ。あなたが別の可能性世界に行ったとしても、『この』世界は明日も続いていくのですわ。……私たちに次はない。あなたがこれまで通ってきた世界も同じだった筈ですわ」 「……じゃあどうしろって言うんですか。少しでも可能性があるなら、それを追いかけるしか、それしか方法はないじゃないですか」 「それを続ける限り、あなたは何度でも繰り返すことになる。繰り返すたびに心に傷を負って消耗していく。奇跡が起きて彼女が助かるのと、あなたが使い物にならなくなるの、どちらが先でしょうね?」 「私はこの世界に来る前からずっと終わりのない戦いを続けてきました。これから先も心が挫けることは決してないと自負しています」 「もしそうだとしても、そのやり方では彼女は救えないと言っているのですわ。……あらゆる可能性世界を見ることのできる物江さんなら、あなたと出会うたびに、あなたが何度も繰り返してきた世界を垣間見ることでしょう。そこで自分がしてきたことも全部、ね。繰り返すたびに傷ついていくのは、あなただけではないんですのよ」 「っ……」 「真に彼女を救うためにはどうすればいいか、理解できまして? 誰も傷つけないようにと他人を遠ざけてきた物江さんの願い、あなたにできなかったこと、私なら、叶えることができるんですのよ……」 そう言うとリリィは、強烈な殺気をはらんだ視線を司書室へと向けた。 「ミカさんは心の中が複雑になり過ぎてしまったのですわ。私が、シンプルにして差し上げましょう」 「待ってください!」 「やめるんだ!」 リリィの前にミカとぴよらっとが立ちはだかった。ミカは少し驚いたようにぴよらっとを見たが、すぐにリリィに視線を戻した。 「今はまだその時ではない筈です!」 「桃子さんを死なせるわけにはいきません!」 二人は同時に叫んだ。 「……ぴよらっとさんは下がっていて頂けません? 怪我をしてしまいますわよ」 重圧を伴うリリィの言葉が響く。 「下がりません」 しかしぴよらっとは全く動じない。 「ぼくは部長に桃子さんを託されたんです。ぼくは桃子さんを守らなければならない」 「……ふふ」 リリィは薄く笑った。 「冗談ですわよ。さっき噂を止めると言ったばかりじゃありませんか」 リリィから発せられる重圧感が一気に霧散した。ただし瞳は鮮やかな赤のままである。 「でも、ミカさんも今の行動で、ご自身の不明瞭な本心が見えてきたんじゃありませんこと?」 ミカは一瞬ハッとしたような表情を浮かべ、そしてすぐさま感情を押し殺した。 リリィに試されていたことに気付いて心が波打ったのもあったが、結局自分は桃子を殺したくないのだという事実を己の行動をもってはっきりと見せつけられたことに、心の整理がつけられなかったのだ。 「……失礼します」 ミカは無表情のままリリィに背を向け、図書館の扉を開けて出て行った。 「リリィ……言い過ぎだったんじゃないかい?」 ミカが去った後の微妙な空気に耐えかねてゴルドが声をかける。 「ミカが繰り返しこの世界に来ているのは、自分の意思じゃないんだ。それでも彼女は桃子ちゃんを救うために力を尽くそうとしてくれている」 「わかっていますわ」 リリィは少し悲しそうな声で言った。 「あの子は私たちと同じ。終わりのない時を生きている。私はね、かつて自分が死なないと実感した時、ああ私は何度失敗してもやり直せるんだなって、そう思ったことがありますのよ。でもすぐにそれは間違いだと気付いた。確かに私自身はどんな失敗をしても死なないし、いくらでもやり直す時間があったけれど、周りの人たちは違ったんですわ。喧嘩別れをした友人が死んでしまったら、もう二度と謝ることも、仲直りすることもできない。もう二度と以前のようにお話することはできないのですわ」 ゴルドは言葉を見つけられずにいた。思わずリリィの横顔から目をそらす。それは彼女がゴルド自身も知らないほど遠い過去に思いを馳せていると分かったからだった。 「ミカさんの場合は世界ごとリセットされてしまうから、それに気付き難いのですわ。例え何度やり直せるとしても、本当は、失ってしまったものは二度と取り戻せない。それに気付いて欲しかったんですの。……それに、『次がある』なんて気持ちで取り組まれたら、次がない私たちみんな馬鹿みたいじゃありません?」 そう言ってリリィは、幼い見た目に似つかわしくない儚げな笑顔を浮かべた。 日が沈み、赤い世界は束の間の夜の闇を迎えようとしている。 「やっぱり夢じゃなかったんだ……」 誰もいなくなった図書館。少女は司書室からそっと外に出た。受付のテーブルに手を這わせる。ついさっきまで話していた彼らのざわめきが残っているみたいだった。 「私は、人を殺す……」 桃子は受付の椅子に座ると、黒い革のカバーで覆われた携帯端末を手に取った。 |