携帯らっと
16 「ウソが全部本当になったら面白いと思わない?」 ティーカップを揺らしながら桃子は言った。 「恐いですよ、それは」 かじりかけのクッキーを手に、ぴよらっとは答える。 ここは放課後の司書室。飴色に塗り潰された空間。 ミカによって全てが語られた日から数日が経過していた。 あの日からミカは他の三人の前に姿を現していない。もちろん、桃子の前にも。 リリィは学校のどこかに潜り込んで寝泊まりし、毎日噂の芽を摘んで歩いている。こっそりつまみ食いもしているようだが、きちんと結果を出しているので誰も文句を言う者はいない。もっとも、彼女に文句を言える者などゴルドくらいしかいないのだが。 そのゴルドはと言えば、日課になっていた図書館通いができなくなってしまったので、歴史編纂部に仮入部したり森に入ってアケビを採ったりしている。要するに暇をもて余しているのだった。 そしてぴよらっとは、以前と変わらず、図書館にいた。 「そんなことになったら、誰もが口を閉ざしてしまうか、あるいは一瞬で世界が終わるかのどちらかでしょうね。後者の可能性が高いと思いますけど……」 ぴよらっとの話を聞いているのかいないのか、桃子は無言のまま手を伸ばした。細い指先がぴよらっとの口元をくすぐる。 「ついてた」 桃子はクッキーのかけらをつまみ取ると、その指を舌先でぺろりと舐めた。 「すみません、ありがとうございます」 ぴよらっとは少し恥ずかしそうに自分の口元をぱっぱと払った。 本日のお茶請けはぴよらっとの手作りで、粉とバターにこだわった力作である。 桃子はリラックスした表情でティーカップに軽く口をつけた。 「でもね……もしもウソが本当になったら。そしたら、いつか話したトキスデの葉を探しに行けるのにな」 ぴよらっとはハッとして桃子の顔を見た。桃子は何か思いを巡らすように薄く目を閉じて、穏やかな微笑をたたえている。 「あらゆる怪我や病気を治す魔法の薬草、でしたっけ。本当にあったら素晴らしいですね」 桃子は目を閉じたままうんうんと頷いた。 「桃子さんは……どうしてトキスデの葉が欲しいんですか?」 桃子はゆっくりと目を開いた。折り重なっていた睫毛が道を開き、黒曜石のような瞳が外気に触れる。それはまるで別の生き物が初めて呼吸をした瞬間のようで、ひどく神秘的だった。 「……もちろん、自分で使うためだよ」 その言葉を聞いて、ぴよらっとは驚きを隠せなかった。桃子は自分が今どんな状態にあるのかを理解している、ということなのだろうか? 分かった上で、こうして普通に過ごしているというのか? ぴよらっとは、にわかには信じられなかった。 ミカの話によれば、桃子の意識の半分は無数に分岐している可能性世界とこの現実世界とを行き来しているのだという。普通の精神状態ならとても正気ではいられない筈だ。それなのに、桃子は笑っている。これはどういうことなのだろう、とぴよらっとは思った。 「そんな顔をしないで」 桃子は困ったように笑って言った。 「ずっと忘れていたことを思い出したの。どうして私はここにいるのか、今まで何をしてきたのか。そして気付いたの。なぜ今になってそれを思い出したのかを」 桃子はどこか超然としていた。菩薩めいた微笑みはどこまでも穏やかで、現世から切り離されているかのようだった。 「ごめんね。この間あなた達が話しているのを聞いちゃったんだ。私のこと……ちょっとショックだったけど……でも、おかげで頭の中の霧が晴れたみたいになった。止まっていた心が動き出したような気がするの。忘れていたことも思い出したよ」 ひょっとして桃子は元に戻ったのだろうか? ぴよらっとは一瞬、淡い希望を抱きかけたが、すぐにそれを否定した。桃子はトキスデの葉が欲しいと言ったのだ。何も治ってなんかいない。今まで凍っていた心が溶け出して、今自分が置かれている状況を把握したに過ぎない。そう理解したとき、ぴよらっとはぞくりとした。それは、まずいのではないか? 制御できない半身が勝手に可能性世界の記憶を取り込めば、彼女の意識は錯乱状態に陥る筈だ。これまでは心を凍らせて何も感じないようにすることで自我を守っていたのだとしたら、防御が取り払われて無防備になった今、桃子の心は簡単に壊れてしまうのではないだろうか? 「桃子さん、大丈夫なんですか? その……自分が何をしているのか分からなくなったり……」 「大丈夫。あなたがいるから」 「……ぼくですか?」 「あなたはね、ぴよらっと。イレギュラーなんだと思う。この世界以外の、どの可能性世界にも存在しない。って……私の、半分が言ってる。だからあなたがここにいるということは、私がここにいるということ。あなたの存在を私が認識する時、私の意識はこの世界に固着されるの」 それは例えるならイカリだった。意識の荒波に落とされた、たった一つの揺るがない白いポイント。そこに自分を繋いでおけば、どこへ流されても必ず戻って来ることができる。 「あなたを初めて見た時、不思議な気持ちになったんだ。色あせた景色の中で、あなたの白だけが輝いているみたいに見えた」 惜しみなく向けられる桃子の笑顔と言葉にぴよらっとはただただ驚いていた。自分はこの世界以外には存在しない。彼女の笑顔を見ることができるのは、この世界だけなのだ。自分にとっては唯一にして当たり前の世界。しかし彼女たちにとってここは、それこそ奇跡みたいな世界なのかも知れない。この世は自分では観測できない奇跡で溢れているのではないかとぴよらっとは思った。 「桃子さん――」 ――待てよ。ぴよらっとは頭の中にもやもやとした違和感を覚えて言葉を切った。今、自分は何を考えただろう? 『彼女たち』? 彼女というのはもちろん桃子のことだが、では桃子以外の誰を自分は無意識のうちに想像したのか? 深く考えるまでもなかった。それに該当する人物は一人しかいない。 「どうしたの?」 突然黙り込んだぴよらっとに、桃子が不思議そうな眼差しを向ける。 「あ、ええと、最近ミカさんは図書館に来ましたか?」 「ミカさん?」 しまった、とぴよらっとは思った。この間ミカの話を聞いたために二人は親しい間柄なのだというイメージを持ってしまっていたが、あれは文字通り別世界の話だったのだ。 「その人……私の知り合い? 私、また忘れちゃってる?」 桃子は不安げに言った。桃子が思い出したのはあくまでもこの世界での記憶であって、他の世界で起きたことまでは知らないようだった。 「歴史編纂部の部員の一人です。ほら、以前この図書館でぼくが勧誘された時にいた三人組の、眼鏡をかけた……」 「ああ……あの子、ミカさんっていうんだ」 桃子はほっとしたように言った。 「それならあの日から一度も見てないと思うけど……なんで?」 「いえ、最近姿が見えないのでどうしたのかなと思いまして」 「ふーん……」 急にそっけない返事をして、桃子はクッキーを二枚まとめて口の中に放り込んだ。 もぐもぐしている唇は心なしか尖り、眼鏡の奥の目は細められている。 「ぴよらっと、あなたは人間のことを勉強しているんだよね」 「そうです」 突然の話題転換にも慣れたものである。しかし次の桃子の言葉はぴよらっとの予想を超えていた。 「それならいいことを教えてあげる。人間の女の子と二人でいる時はね、自分からは別の女の子の話をしたらダメ」 ぴよらっとは一瞬頭の中が疑問符で埋め尽くされそうになったが、すぐにその意味するところを理解した。つまり桃子は、嫉妬しているのだ。ぴよらっとは桃子が自分にそういった感情を向けてくれることが純粋に嬉しかったが、それ以上に、豊かな感情表現を見せてくれることに強い驚きと喜びを感じずにはいられなかった。 「勉強になりました。気を付けます」 神妙そうにぴよらっとが頷くと、桃子は表情を崩してふふっと笑った。 「ねえ、そのミカさんってもしかして……」 「はい」 「……ん、なんでもない」 「はあ」 「……ミカさんのことが心配?」 「心配というか、言わなければいけないことがあるんです」 「そう……」 桃子はしばらく何かを考えているようだった。ぴよらっとも、頭の片隅で何か大切なことを忘れているような気がしたが、結局それが何なのかは分からなかった。 それから二人は他愛のない話をしながらゆっくりと流れる静かな時間を過ごした。やがて窓の外が藍色に変わり、ささやかなお茶会もお開きの時間となった。 「またね」 図書館の扉を支えながら桃子は小さく手を振った。 「はい。またお邪魔します」 ぴよらっとは本の入った紙袋を片手に、軽くお辞儀をしてから扉をくぐった。 「またね……」 桃子はぴよらっとの姿が廊下の曲がり角に消えるまで、じっとその小さな背中を見送っていた。 |