ripsh


携帯らっと
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「なんとも、好き勝手に言ってくれたね」
 冬見とアリサが去った後のぎこちない沈黙を最初に破ったのは、先ほどまで傍観を決め込んでいたゴルドだった。
「こっちは銃口を向けられたっていうのに、ひどいもんだ。あれで謝っているつもりだとしたら、彼はよほど恵まれた人生を送ってきたに違いないね」
 辛辣な感想だったが、その口調は冗談めいていた。場を和ませるためというのもあるが、ゴルドにだけは、冬見がこの後どのような運命を辿るのか予想がついていたため、皮肉な笑みを禁じえなかったのだ。
 これまでリリィに手を出して無事で済んだ者はいない。彼女は人間に対しては寛容だったが、自分とその周囲の仲間に害をなそうとした者にはどこまでも冷酷だった。そして今回の件は完全にアウトである。リリィは先ほどの冬見の態度もどこかで覗き見ていたに違いない。学長という立場ある者をそう簡単に殺しはしないだろうが、その分、彼は心に深いダメージを負わされるだろう。
 ゴルドはこれまでに見てきた似たような場面を思い返し、心の奥で密かに身震いをした。
「ミカさんは大丈夫でしたか?」
 ぴよらっとは足下に散らばる機械兵の残骸を気にしながらミカに声をかけた。
「大丈夫です」
 見ての通り、と言わんばかりに短く答えると、ミカは明後日の空を見上げた。明らかに他人を遠ざけたいという意思をうかがわせる態度だったが、その場から立ち去ろうとはしなかった。心の中で相反するものが戦っているようだった。
「ミカさんにお伝えしたいことがあります」
 ぴよらっとはその心の隙を狙って、ミカの足をこの場に縫い止めた。
「桃子さんの記憶が戻りました」
 バッと音を立ててミカは振り返った。その瞳には、戸惑いと、喜びと、不安と、更なる疑問とを混ぜ合わせた、混乱の色が映されていた。ぴよらっとはそれらを丁寧にほぐすため、今日図書館で桃子と話した内容を詳しく説明した。
 桃子が思い出したのはこの世界の記憶だけだということ。戻ったのは心だけで、肉体の半分は観測者として半実体化したままだということ……。
 ぴよらっとが話し終える頃には、ミカは普段の落ち着きを取り戻していた。
「そうですか……」
 感想はごく短かった。そしてその表情はどこか憂いを含んでいた。
 喜ばしいことには違いない。少なくとも、絶望的な状況からは大きく進展したように見える。しかし、ミカの心中は複雑だった。
「だから、という訳ではないんですが、今度の休みにみんなで街に出かけることになったんです」
「え?」
「ぼくと、ゴルドさんと、歴史編纂部の部長さんと、部員さんと、リリィさんと、桃子さんと……」
 次々と挙げられる名を聞きながら、ミカの表情は困惑から驚きへと変わっていった。桃子を連れて街に出るなんて、これまで考えたこともなかったのだ。
「……そして、ミカさん。ミカさんも、一緒に行きませんか?」
「私……?」
 ミカは予想外の言葉に思わず無防備になった。そして次の瞬間にはそんな無防備になってしまった自分の心に気付き、反射的に身を固くしてしまった。
「私は……私には構わないでください」
「ミカさんがぼくたちを避けるのは、あの日リリィさんに言われたことを気にしているからでしょうか」
 しかしぴよらっとは一歩も引かなかった。それどころか一歩、前に出た。
 だがミカも譲らなかった。彼女は顔を伏せて何も答えず、固い沈黙が見えない壁のようにそびえ立った。彼女自身、その沈黙が既に肯定を意味していることに気付いてはいたようだが。
「……ミカさんは、奇跡はあると思いますか?」
 不意に脈絡なく変化したぴよらっとの言葉に、ミカは思わず顔を上げた。
「あの日リリィさんはミカさんに言いましたね。あなたは心のどこかで諦めながら奇跡を待っているだけだと。でもぼくは桃子さんと話しているうちに、奇跡はもうここにあるんじゃないかと思ったんです」
 ミカは沈黙を守っていたが、ぴよらっとから目をそらすことはしなかった。
「ミカさんがかつて二度訪れたこの世界に、ぼくはいましたか?」
「……いいえ」
「ぼくという存在は、桃子さんが知る限りの可能性世界を探っても、一人も見つからないんだそうです。ただひとつ、この世界を除いては」
 だからこそ、ぴよらっとの存在が桃子の意識をこの世界につなぎとめている。桃子が自我を取り戻してなお正気でいられるのは、ぴよらっとがいるこの赤い世界を拠り所としているからだ。
「それはぼくにとっては当たり前のことです。仮に他のぼくがいたとしても、ぼくはそれを確認することができないのですから。でも、桃子さんやミカさんのように、たくさんの可能性世界を見ることができる人にとっては、それは奇跡に近いことなのではないかと思ったんです。自分で言うのも変ですが……」
 彼らは知る由もないことだが、混沌の海に浮かぶ様々な世界の中に、ぴよらっとという種族の起源とされる世界は未だ見つかっていない。彼らは独自の方法を使い、個人単位で世界を旅するのだという。大戦以前から存在を確認されていたとか、人間では再現できない高次の魔術を扱うとか色々言われているが、ともかく今日ではあまりお目にかかる機会のない希少な種族なのだ。その意味でも、ここはまさしく奇跡のような場所に違いないのだった。
「ミカさん。ぼくにとっては当たり前のことでも、ミカさんにとっては奇跡のようなことが、これまでの世界にもあったのかも知れません。要はそれに気付くかどうかだと思うんです。そして今ぼくはあなたに気付いて欲しいと思っている。どうかこの世界を見捨てないで欲しいと、そう思っているんです」
 ミカの心に、桃子とふたり図書館で過ごした思い出が鮮やかによみがえってきた。
 決してたくさんの言葉を重ねた訳ではない。彼女と過ごした時間の多くは静寂と共にあった。しかしそれは、それはとてもやわらかで、心安らぐ、大切な時間だった。
 ミカもかつてはそんな時間を当たり前のものとして受け取っていた頃があった。いつしか日々戦いに明け暮れ、何度も死に、擦り切れてしまった過去の記憶。桃子と一緒に過ごした時間は、そんな懐かしい記憶をほんの少しだけ取り戻してくれたのだった。
「……リリィさんの言っていたことがやっと分かりました。頭では分かっていたつもりだったんですが……実感として今、ようやく」
 例え同じ世界をもう一度繰り返したとしても、二度と取り戻せない時間があるということを、ミカは理解した。理解すると同時に、締め付けられるような胸の痛みや息苦しさ、巨大な喪失感に襲われて、ミカの視界は貧血のように揺らいだ。
「私は、あのアリサという機械と同じでした」
 ミカはふらつく体を刀で支えながら、駆け寄ろうとする二人を手で制して言った。
「あなたたちに嫉妬していたんです。私しか知らない筈の物江さんを取られてしまったような気がして……だからあの日、リリィさんに本音を全て見透かされて、自分でも目をそらしていた本当の気持ちを知って、恥ずかしくて、あなたたちに合わせる顔がなくなって……」
 思わずミカは俯いた。頬が紅潮し、目が潤んで充血している。一旦この感情を自覚してしまったら抑え切ることができないかも知れないと、心の奥底にそんな予感めいた思いがあったからこそ、ミカは考えるのをやめて皆の前から姿を消そうとしていたのだった。
「それは恥ずかしいことではありませんよ」
 ぴよらっとは優しく語りかけた。
「そういう感情を抱くということは、心がまだ生きているということです。理性では制御し切れないものが心の中にある。それはとても自然なことですし、大切なことだと思います」
 ぴよらっとの言葉には実感が込もっていた。なぜならそれは、桃子との会話の中で彼自身が感じたことだったからだ。故にその言葉はミカの心に響いた。数え切れないほどの死を越えてなお、その心は生き続けているのだと。まだ人間でいていいのだと。他でもないミカ自身の心と体が、早鐘を打って喜びを知らせたのだった。
「一緒に行きましょう、ミカさん。残された時間は少ないですが、やれることをやりましょう。皆でひとつのことに向かってみると、どこからか不思議な力が湧いてくることがあるんだそうですよ」
 ぴよらっとの呼び掛けに対し、もはやミカの口から出てくる声は明確な言葉を紡ぐことができなかった。ただそれは確かな肯定の意思であり、心が生きていることの証明を意味しているようだった。