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携帯らっと
22



 静寂に沈む図書館である。
 時刻はまだ昼過ぎといったところだが、窓の多い館内は既に枯れ葉を思わせる赤色にひたされて、うっかり足を踏み入れた者を感傷に溺れさせるようだった。
 まもなく昼休みが終わる。しかしぴよらっとは、図書館を染め上げる赤い光の中で、じっと動けずにいた。

 図書館から桃子の姿が消えたことに最も早く気付いたのは、ぴよらっととリリィだった。
 昼休み、ぴよらっとは町に行く計画を桃子に話すために図書館を訪れたが、受付に桃子の姿はなかった。
 うろうろと本棚の間を歩き回っているとリリィが現れた。彼女は食後の散歩をしている時にぴよらっとを見掛け、後から着いてきたのだという。
 二人は手分けして図書館内を探した。リリィの助けを借りて桃子の寝室も調べたが、結局桃子を見つけることはできなかった。
「ぴよらっとさんはここで待っていてくださる? もし入れ違いで桃子さんが戻ってきたらいけませんから」
 そう言ってリリィは敷地外へと桃子を探しに出た。
 ぴよらっとは桃子と関わりのある人たちに連絡を取り、捜索を依頼した。本当はぴよらっと自身、すぐにでも図書館を飛び出して桃子を探しに行きたかったのだが、今から別の誰かに図書館の留守番を頼むのは非効率的だったし、彼らにしかできない探し方があるのも確かだった。
 打てる限りの手を打ち、ぴよらっとは皆の報告を待ち続けた。

 最初に戻ってきたのはゴルドだった。
「ダメだね。学校の中にはいないみたいだ」
 彼にしては珍しく神妙な面持ちである。手近な椅子を引いてきて腰かけると、長年繰り返してきた癖のように優雅に足を組んだ。
「そうですか」
 ぴよらっとは受付の椅子にちょこんと座ったままゴルドに目を向けて、それから再びテーブルの上に視線を戻した。
 次に図書館の扉を開けたのはリリィだった。
「ダメですわね」
 少女はぽつりと呟きながらゴルドの膝の上に飛び乗った。高く組まれた足の上でゆらゆらと揺れる。
「少なくとも学校から半径十セル程度の範囲にはいませんわ」
 リリィはどこか異世界の単位を用いたが、それがかなりの距離であることはぴよらっとにも分かった。ともかく収穫はなかったのだから、それはこの世界の単位に直すとどの程度の距離なのか、などと聞き返すことに意味はなかった。
「わ、遅くなっちゃったかな」
 元気な声と共に入ってきたのは部長だった。
「いろんな子に聞いてみたけどさっぱりだねー。本人にコールしても出ないし……」
 そこまで言ったところで、部長の視線は受付テーブルの上に釘付けになった。
「あっ、それ」
「すみません部長、言うのをすっかり忘れてました」
 テーブルの上、ぴよらっとの目の前にあるのは、黒い手帳のようなカバーをかけた桃子の携帯端末だった。
「なんだー、出ないわけだ」
 そもそも図書館から出歩くことのない桃子にとって、携帯端末を持ち歩くという発想自体がなかったのかも知れない。
 最後に、音もなく扉を開けてミカが入ってきた。
「学長にコンタクトを取ってみたのですが、異常なしとのことでした。桃子さんの監視情報を再度確認するよう依頼済みです。それと、一応学内ネットワーク上も調べましたが、特に桃子さんの情報は出ていません。……まあこれはリリィさんが学生たちの関心を削いでくれているからでしょうけど」
 ミカはほんの少しだけぎこちなく頭を動かしてリリィを見た。窓からの日射しが床に反射し、その頬を赤く照らしている。リリィはまっすぐにミカを見返し、一瞬の間を置いてから破顔一笑した。ミカは慌てたように視線を反らした。
 あの日二人の間に築かれた壁は、どうやら崩れつつあるようだった。
「あのさ、ぴよらっとくん、」
 部長が何か言おうとした時、ミカの手の中で携帯端末が震えた。皆の視線が集まる。
「冬見学長からです」
 ミカはスピーカーモードで回線を繋いだ。冬見の声がチープなエフェクトを纏って図書館内の空気を震わせる。
「おう、お前さんに言われて一応全部のカメラをチェックしたけどよ、やっぱ何も異常はねーぞ。つーか今も桃子ちゃん受付に座ってんだけど。お前さん今どこにいんだよ?」
 その場の全員が顔を見合わせて言葉を失った。
「……私たちは今、図書館の受付にいます。学長、あなたが見ているのは本当にリアルタイムの映像ですか?」
 ミカが言うと、今度は冬見が絶句する番だった。
「……ちょっと待ってろ」
 冬見は低い声でそれだけ言うと、携帯端末をその場に置いて、なにやら慌ただしく動き始めたようだった。ガチャガチャというノイズだけが響く。
 約一分後、焦燥したような声が携帯から漏れ出した。
「くそ、モニターデータが全部一週間前の録画に置き換えられてやがった。HCCPA-2の時間同期もいじられてる。誰かに侵入された形跡があるな」
 誰か、というのが一体誰のことなのか、冬見も含めてその場の全員に共通の心当たりがあった。
 恐らく桃子は学校のシステムを改竄してから姿を眩ましたのだ。図書館には学校のメインシステムへの直通ラインがある。観測者としての半身から望む情報を得ることができれば、それを利用することも不可能ではないだろう。
「侵入されたのはいつですか?」
「昨日の夜……日付が変わる前だ」
「今現在の録画データはどうなっていますか?」
「そこは無事だ。ちゃんと保存されてる」
「では、直近のデータを再度確認してください。物江さんがどこに行ったのか、何か手がかりがありましたらまた連絡をお願いします」
 ミカは言うべきことを言うと一方的に通話を切った。
「昨晩からとなると、徒歩ではそう遠くへは行けないだろう。交通機関を使うにしても朝からだ。どの辺りまで行けるか見当はつく」
 冷静にゴルドが言った。
「さっき探し終えた距離からもう少しだけ半径が広がりそうですわね」
 まるで猫のように、リリィはゴルドの膝から飛び降りた。
「ねえねえ、ちょっと待って」
 早速動き始めようとする行動派のヴァンパイアたちを制して部長が声を上げた。
「ぴよらっとくん、それの中身は確認したの?」
 部長はテーブルの上に置き去りにされている桃子の携帯端末を指差した。
「いえ、見ていませんが……」
「覗き見が学則とマナーに反するのは分かるけどさ、今は緊急事態じゃない。何か手掛かりがあるかも知れないよ」
「それはそうですが……たぶんロックされてますよ」
「大丈夫。この顔ぶれならなんとでもなるわ」
 部長はニッと笑って見せた。それは確かに、これ以上ないほど説得力のある答えだった。
「わかりました」
ぴよらっとは意を決して携帯端末のカバーを開いた。
「あれ……ロックされていませんね」
 端末の画面は驚くほどすんなりとぴよらっとを受け入れた。
 そこは、生活感のない部屋に似ていた。
 最低限の機能に飾り気のないインターフェース。少なくとも頻繁に携帯端末を利用する女性のそれではない。
 そんな中でひとつだけ、利用頻度の高いアプリケーションをぴよらっとは見つけた。それは、日記帳だった。

 ××月××日
 さがさないで

 たった一言、ありふれた文句がぴよらっとの目に飛び込んできた。
 手書きをそのままデータに落とし込んだ文字は紛れもなく桃子のものだった。ぴよらっとはザッとページをめくり、過去の日記から目を通し始めた。

 ××月××日
 今、雨が降っている。『薔薇色の爪の姫』を九〇ページまで読んだ。

 ××月××日
 晴れている。誰も来ない。

 ××月××日
 晴れている。今日は一人来た。借りずにすぐ帰った。

 日記とも呼べないような無機質な文章が一日も欠けることなく並んでいた。自分の手で日付を書くことが義務であるかのように、その内容にはほとんど意味も変化もない。
 しかし、ある日を境に明確な違いが表れ始めた。

 ××月××日
 白いのが来た。かわいい。あれはなんだろう。

 ××月××日
 今日も白いのが来ている。調べてみると、ぴよらっとというらしい。
 かわいいけど、とても賢い、珍しい種族なのだそうだ。
 色々な本を読んでいたけど、借りていかなかった。

 ××月××日
 もうすっかり涼しい。葉っぱが赤い。今日はぴよらっとは来なかった。

 ××月××日
 ぴよらっとが居眠りをしていた。我慢できずに話しかけてしまった。
 変なことを言っていないだろうか。自分ではわからない。
 ぴよらっとは普通に話してくれた。初めて本を借りていった。
 誰かと話したのは久しぶり。不思議な気持ちだ。

 ××月××日
 ぴよらっとがケーキをくれた。嬉しい。
 他にも三人来た。こんなにたくさん来たのは久しぶり。
 ぴよらっとが誰かと話しているのを見ると変な気持ちになる。もやもやして、つい耳を触ってしまった。柔らかかった。
 それから一緒にケーキを食べてお茶を飲んだ。おいしかった。

 それから、桃子の日記には毎日ぴよらっとのことが書かれるようになった。ぴよらっとが図書館に来た日にはたくさんの言葉を重ねて。来なかった日でもぴよらっとについて書かれないことはなかった。
 彼女の中のぴよらっとを携帯の中へと移植していくかのような、神聖な儀式のようなその行為は、彼女にとっての日記を書くことの意味を変えていっているようだった。
 やがて日記は現在へと近付いていく。

 ××月××日
 今にもバラバラになりそうな意識をどうにか保てているのは、やっぱりぴよらっとのおかげだ。
 あらゆる感情が振り切れてしまいそうで怖いけれど、彼のことを考えていると不思議と心が落ち着く。
 今日、ぴよらっととその友達が話していることを聞いてしまった。
 いや、聞いてしまったなんて言い方は嘘だ。
 部屋の端末から図書館の端末を経由してメインに入り込んで、監視カメラの音声を落とした。
 ぴよらっとが誰と何を話しているのか気になってここまでしてしまったんだ。
 私は……どういう存在なんだろう。
 お母さんが消えて、私を構成していた肉体の半分が実体を失ってしまった。
 それでも私は生きている。
 忘れていたことを思い出して、知らなかったことを知って、あの悪夢の意味も分かった。
 ずっと消えないこの渇きを癒すにはどうすればいいのかも。
 怖い。
 いつかきっと私は人を殺す。
 そうなったら、この半身のどこまでも広がっていく意識に呑み込まれて私は消えてしまうだろう。

 ××月××日
 ぴよらっとと一緒にいると落ち着く。あんなに不安でざわついていた心がとても穏やかになる。
 私はどうしたらいいのだろう。
 どうか、どうか彼だけは。

 ××月××日
 ぴよらっとが機械兵に襲われたらしい。メインの記録にあったのだから間違いない。
 私のせいだ。私なんかと一緒にいたからこんなことになってしまった。私を助けてくれようとしていた人たちも一斉に襲われたらしい。
 自分でも何をしてしまうか分からないのに、何もしなくても近くにいる人たちを危険に晒してしまう。
 ずっと分かっていた。だから誰からも近付かれないように、誰にも近付かないようにしていたのに。
 私って一体何なんだ。どうしてまだ生きているんだろう。
 もう嫌だ。悲しいことはもう

 ××月××日
 さがさないで

「ゴルドさん」
 ぴよらっとは携帯から顔を上げて静かに言った。
「なんだい」
「桃子さんが乗り物を使っていた場合の行動範囲から、行きそうな場所を絞り込みましょう。ぼくも一緒に考えます」
「ああ、それは構わないが……」
「それと、リリィさん」
 ぴよらっとの声はあくまで冷静だった。しかしそれは、現状にそぐわない冷静さだった。
「すみませんがリリィさんは現在までに桃子さんが徒歩で行ける範囲の捜索をお願いしたいのですが」
「もちろんそのつもりでしたわ……ただね、ぴよらっとさん」
 リリィの声は滑らかに磨かれた金属のようだった。我が子を試すようにくるくると周りの景色を写す。
「その日記を見る限り、桃子さんが図書館を出ていった理由はあなたの身を案じたから、と考えて間違いなさそうですわ。これ以上あなたを危険な目に遭わせないために。彼女の行為はあなたへの好意ゆえに。ぴよらっとさんは、そんな彼女の意思を無視して我を押し通すつもりですの?」
「もちろんです」
 ぴよらっとは即答した。迷う理由などどこにもなかった。
「彼女がぼくのことを気にかけてくれているように、ぼくも桃子さんのことを大切に思っています。だからこそ、彼女の一方的な厚意を認める訳にはいきません。相手のことを思うならば、まず話し合って、お互いに納得できるラインを模索するべきです」
「……彼女を連れ戻そうとすることは、彼女があなたにしたのと同じ、厚意の押し付けに当たるのではなくて?」
「その通りです。でも連れ戻さなければ、ぼくらはスタートラインにすら立てずに終わってしまうんです。だからぼくは敢えて我を通させてもらいます。相手の気持ちよりも命を優先させようと考えているのはお互い様ということです」
 ぴよらっとの言葉を聞きながら、リリィはなにやら興味深そうな表情をしていた。
 その時、再びミカの携帯端末が震動した。
「冬見学長からです」
 ぴよらっととリリィは話を区切り、ミカの方に意識を向けた。
「物江イズミさんが住んでいる家の近くの観測所で、桃子さんに酷似した人物を確認したとのことです。学長は物江イズミさんに連絡を取ったそうですが、職場にいたため家の近くの詳しい様子までは分からないそうです」
 ミカは意図的に少しの間を空けつつ、一同を見回した。
「……どうしますか? なんて……聞く必要はなさそうですね」