ripsh


携帯らっと
23



 後ろへ、後ろへと、面白いように景色がちぎれて飛んでいく。
 弾丸のような速度で進んでいるのに、空気の壁に押し潰されて息が止まることもない。
 ヴァンパイアは必ずしも呼吸を必要とはしないから、前方に展開されている風を切り裂く魔術は、彼らに抱き抱えられているミカとぴよらっとへのサービスであるようだった。

 桃子に酷似した人物を観測した――冬見の情報を受けて、部長を除く四人が現地へと向かうことになった。
 部長だけが留守番を任されたのにはいくつか理由がある。荒事が起きた際の戦闘力の問題や、桃子の発見情報が不確定であるため一人は残ったほうが良いと思われることなど。しかしそれを主張したのは、他ならぬ部長自身だった。
「私はここまで」
 そう言って手を振る部長の真意は誰にも分からなかった。

「なんだか妙な感じですね。乗り物に乗っている訳ではないのに、こんなに静かで……」
 ミカはゴルドの腕の中で身じろぎをした。
「はは。乗り心地はいかがですか、お嬢様?」
「タクシーでもやれば儲かるんじゃないですか」
 いわゆるお姫様抱っこをされている状態の恥ずかしさを誤魔化すためか、ミカはぶっきらぼうに答えた。
「この世界じゃ需要はないな。そういうのが必要な世界にはもっと効率的な乗り物がある」
「そうなんですか」
「うん。たとえば……」
 雑談をしながら、ミカはなんとなくゴルドの顔を見上げていた。透き通るほど白い肌。まつげが長い。
 少し前に一戦を交えた時には、まさかその相手に抱えられて凄まじい速度で広野を走り抜けることになるなんて、予想もできなかった。
 そして一つ前の世界では、同じ目的地を目指して二人きりでバスに乗っていたのだ。
 不思議な巡り合わせのようなものを感じざるを得ない。運命、という言葉がミカの頭を一瞬よぎる。
 しかし、目の前の彼はそれを覚えていないのだ。否、最初からそんな出来事は起きてさえいない。
 失って二度と戻らないモノの欠片がここにもあった。
「あらあら」
 そんな二人を横目で見ながら、ぴよらっとを胸元に抱えたリリィは少し速度を上げて前に出た。
「なんだか良い雰囲気ですわね。甘くてほろ苦い、コーヒーゼリーみたいなお味」
「や、やめるんだ!」
 にこにこしながらぴよらっとにネックレスをつけたり片手で耳を結んだりして遊ぶリリィに、抗議の声は届かないようだった。

 普通ではたどり着けないような時間で、四人は物江イズミの家に到着した。
 そこは寂しいという表現がしっくりくる場所だった。
 街からは遠く離れており、主に工場や研究施設が建ち並ぶばかりで、人の気配がなくひっそりとしている。
 ささやかな住宅街の中に物江イズミの家はあった。家の前には白衣を着た男性が立っていた。
「やあ……晴一の言っていた子たちだね。娘がお世話になっています」
 物江イズミは疲れ切ったような笑みを浮かべた。冬見からの連絡を受けて急いで仕事を抜け出してきたのだろう。
 ぴよらっとはいそいそと進み出て頭を下げた。
「はじめまして。ぼくたちは……」
「ああ、大体のことは晴一から聞いているよ。すまないね、桃子のためにわざわざ……本当にありがとう」
「いえ……それで、桃子さんは……」
「どうやらこの近くまでは来たらしい。近所で目撃情報があった。だがその後どこに行ったかは分からない」
「間違いなく桃子さんでしょうか?」
「うん。確かにあの子の気配を感じる。まさかここまで一人で来れるとは思わなかったから、私も最初は人違いじゃないかと思ったんだけど」
「どこか、桃子さんが行きそうな場所に心当たりはありませんか?」
「そうだな、一つだけ……」

 住宅街から離れて少し歩くと道路の舗装が途切れてなくなり、赤茶けた土くれの転がる荒野がどこまでも広がっていた。
 ここから先にはどんな生き物も住み着くことはできない。これからも開発されることはないだろう。
 踏みかためられた道に沿って歩いていくと、石や杭が遺跡めいて規則的に配置されている場所に辿り着いた。
 広大な赤い大地のほぼ全てにそれらが並ぶ様は圧巻であった。
「これは……すごいですね」
 ぴよらっとは思わず感嘆の声を漏らした。
「ここは墓地だよ」
 物江イズミは石碑の間を歩きながら言った。
「大戦によって世界が引き裂かれた時、たくさんの人間が死んだらしい。この世界も、安定するまではずいぶん酷い環境だった。多くの人々が混乱と苦しみの中で死んだ。生き残った者は亡くなった人々をこの荒れ地に埋葬した。生者が住めない土地を死者の眠る場所にしたんだな。この世界は、死者を想う心に包まれている」
 丘を上り切ると、未だ手付かずの土地が見えた。墓地は世界の淵に向けて今なお広がり続けているらしい。
 なだらかな勾配の先に、ぽつりと一つだけ墓石が見えた。近付くにつれて、それがかなり大きなものであることが分かった。遠くからでもそこに刻まれた文字を読むことができる。

『物江イズミの妻 奈津世 ここに眠る』

「ここには……何も埋まってはいない。魔術でつくられた肉体はその役目を終えると共に消滅してしまった。墓は、残された生者のためのものだ。こうして区切りをつけなければ、また会えるのではないかと……勘違いをしてしまう」
 墓石にそっと触れる物江イズミを見守りながら、ぴよらっとたちは何も言うことができなかった。
「桃子が来るとしたらここかと思ったんだが……すまない、無駄足を踏ませてしまったようだ」
「いえ、そんなことは」
 ぴよらっとたちも物江イズミに並び、それぞれの方法で墓石に向かって黙祷を捧げた。

 一番端に立っていたミカが目を開けると、ふと、墓石の後ろに石とは違う材質の何かが見えた気がした。
 黒っぽい、革のような何か。それはこの場所には不似合いな異物のように思えた。
 その正体を確かめようとミカはゆっくりと墓石の横に回り込んだ。
 半歩進むごとに、視界を塞ぐ墓石との角度が開き、黒い何かの全容が見え始める。
(……靴、だ)
 それは黒い革靴だった。きちんと両足が揃えられている。
(何故こんなところに靴が?)
 何気なく視線を奥に動かす。
 足のようなものがあった。
 足には違いない。しかし人間のそれとは似ても似つかない。
 だがミカは、その足に見覚えがあった。
 時空を越えて、これが三度目のエンカウント。墓石の裏にうずくまっていた桃子がゆっくりと顔を上げた。
 今なら先制して一撃で首を落とせる。
 だが、ミカは動かなかった。迷いのためではない。ミカの心は既に決まっていた。殺さない。殺させない。
 予備動作なしで桃子の腕がミカの鼻先に迫った。
 剣を生成して防ぐ、が、予想外の威力に体ごと吹き飛ばされた。
 しかし桃子はミカを追撃せず、墓石に手をかけて飛び越えた。狙いは物江イズミ。彼が近くにいると桃子は不快な苦しみに苛まれる。
 心を観測者に染められた今、桃子は躊躇なく父を殺そうとしていた。完全に不意討ちの形で迫る腕。それは鋼のように強靭な体毛と鋭い鉤爪を備えた、未知の獣の腕だった。
 その剛腕が物江イズミの頭を容易く砕こうとする寸前、横から伸びてきたゴルドの手がそっと軌道を逸らした。
 勢い余って桃子の体は空中で半回転する。
 一瞬で事態を把握した物江イズミは空に手を伸ばし、粘度の高い空気を掴むようにして、それを桃子へと叩き付けた。
 強烈な風が巻き起こり、墓石もろとも桃子を吹き飛ばす。墓石は粉々に砕け散った。
 十数メートル先で桃子が立ち上がる。鋭利な刃物で斬られたかのような傷が全身にいくつも刻まれていた。ぽたぽたと血が流れ落ちる。
 物江イズミは弓を射るような形で追撃の構えをとっていた。
(血……)
 ミカの脳裏に不吉な予感が渦巻いた。
 血の弾丸に全身を貫かれた記憶がよみがえる。
(――いけない!)
 ミカが叫ぶより早く、視界に白い影が飛び込んできた。
「やめるんだ」
 二人の間に飛び出したぴよらっとは、桃子と物江イズミの両者に盾を向けて立ちはだかった。
 しかし、血の弾丸と風の矢は既に放たれてしまっていた。
 ぴよらっとを中心に突風と爆風が巻き起こり、乾いた土煙がもうもうと立ち上る。
 ミカはぐっと歯を噛みしめた。
 いくら盾を使っても、あの直撃を受ければまず助からないということを彼女は経験から感じていたのだ。
 そしてそれを察していたのはミカだけではなかった。
 能面のようだった桃子の顔が、ゆっくりと歪んでいく。
「あ……ああぁああぁあああ!」
 悲痛な叫びと共に、桃子の手足が人間のものへと戻っていった。
 ゴルドとリリィは無表情のまま土煙を見詰めている。
「くっ……」
 物江イズミは険しい表情で、土煙を吹き飛ばすための風を放った。

「そんなに泣かないでください」

 流されていく土煙の中から聞こえた声に、桃子はハッと顔を上げた。
 酷く抉れた地面の真ん中に、ぴよらっとは立っていた。驚くべきことに、全くの無傷である。
 周囲に漂っていた黒い光の粒が、ぴよらっとが身に付けている貝の首飾りに吸い込まれて消えた。
「ぴよらっと!」
 ふらつきながらも懸命に桃子が駆け寄り、飛び込むようにぴよらっとを抱きしめた。
(まさか……変質した体が戻るなんて……)
 ミカは驚きと安堵がいっぺんに押し寄せたためか、その場に座り込んでしまっていた。
「よく我慢したねえ」
 ゴルドが微笑しながら隣のリリィに言った。
「信じていましたもの」
 さらりとリリィは言う。
「螺塔が彼を守ってくれることを?」
「あの二人の絆を、ですわ」
 物江イズミはぴよらっとが無傷だったことと桃子が元の姿に戻っていることをどう受け止めればいいか分からず、数秒間ぼんやりと立っていたが、ハッと夢から覚めたように慌てて駆け出した。
「ぴよらっとくん……は、大丈夫、なのか。桃子! 桃子は……その……どうなっているんだ?」
 ぴよらっとを抱きしめたまま、桃子は意識を失っていた。規則正しい息づかいが聞こえる。
「眠っているだけみたいです」
「そうだ、止血を……傷の手当てをしないと!」
「それが……」
 桃子の肌は血にまみれていたものの、傷は一つも見当たらなかった。
「一体どういう……いや、ともかく、私の家に運ぼう。皆さんもぜひ一緒に。今の私では、何をどう考えればいいのか分からない。力を貸して欲しい」
 変質してしまった桃子の姿を見たこと。突然命を狙われたこと。実の娘を殺すために躊躇なく体が動いたこと。ぴよらっとを殺してしまったと思ったら無傷だったこと。不可逆だと思っていた桃子の変質が元に戻ったこと。桃子に大怪我を負わせてしまったと思ったら無傷だったこと……。
 物江イズミの頭を混乱させるには十分過ぎる出来事が立て続けに起きたのだ。それでもなお努めて冷静に振る舞おうとする精神力は驚嘆に価するものだった。