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携帯らっと
25-A



 うっすらと瞼を開けると、白い光が瞳に飛び込んできた。
 まぶしいほどの白。大好きなぴよらっとの姿。
「……おはようございます」
 夢見ていたような視界が徐々に現実感を取り戻すにつれて、自分を取り囲む何人かの気配や、知らない部屋のにおいを感じ始めた。
「おはよう、ぴよらっと……」
「おはようございます桃子さん……覚えていますか?」
 覚えて――いる。
 一人で図書館を抜け出して、お母さんのお墓を探して、そこで私はもう消えてしまおうって思って、気付いたらぴよらっとを抱きしめていて……。
「大丈夫みたいですわよ。ちゃんと記憶もあるし、現状を冷静に把握していますわ」
 小さな女の子の声がした。聞き覚えのある声。厳しくて優しい声。
「桃子さん、ぼくたちは、あなたを助けに来たんです」
「……探さないでって、書いたのに」
「いいえ、そんなことは書いてありませんでしたよ」
 あれ、と思う。また記憶がおかしくなってしまったのだろうか。かすかな不安。
「ぼくには、助けて欲しい、と、そう読めました。あれを見たら誰だってそう読むでしょう」
「ああ、そっか……知らなかったな……」
 ぴよらっとが笑った。私もつられて笑ってしまう。
 それからぴよらっとは、私を元に戻す方法について説明してくれた。
 私は少し悩んでから頷いた。
 心残りがない訳ではないけれど、私はもう決別しなければならいのだろう。
 眠っている間に準備はほとんど済んでいるようだった。
 私はベッドの上で上半身だけを起こし、自分を取り囲む人たちを見回した。
「ぴよらっと」
「はい」
「来てくれて嬉しかった。ありがとう。あなたにはもっとたくさんお礼をしなくちゃいけない。それで、もっとたくさんお話をしたい。だからね、私がヴァンパイアになっても、また一緒にお茶を飲んでくれる?」
「もちろんです。ずっと一緒にいますよ」
 私は笑いながらぴよらっとの小さな手を取った。ふにふにと柔らかい。
 この柔らかな優しさに私は救われてきた。これからは、私が彼にできることを探そう。
「ミカさん」
「……はい」
「その声、やっぱりあなたが……」
 彼女の声には確かな聞き覚えがあった。
 それは、私が彼女たちの会話をこっそりと聞いた日のこと。記憶を取り戻した日のこと。
 その声の主は、私を助けるために何度もこの世界と同じような世界を旅してきたのだという。
「私を救おうとしてくれてありがとう。そして、ごめんなさい。私は何度もあなたを傷つけてしまった」
「私にとって……肉体の傷などは、傷とは言いません。私一人では何もできないということに気付けなかった。その未熟さを悔やむ気持ちこそが、本当の傷として心に残り続けるのみです。どうか、気にしないでください」
「……別の世界で、私とあなたは友達だったんだよね。その時どんな話をしたか、教えてね。きっとまた仲良くなれると思うから」
「はい……必ず」
 ミカが私のためにどれほど苦しんできたのか、今ではよく分かる。だからこそ、それを無駄にしてはいけない。
 次に、黒髪の背の高い男性に視線を移す。
「あなたは……ゴルドさん、でしたっけ」
「やあ、覚えていてくれたのかい」
「すみません……あなたには、ずいぶん素っ気なくあたってしまっていたみたいで……」
「いや、気にしないで。そういう趣向も嫌いじゃない」
 飄々とした人だ。私がどれだけ冷たくあしらっても、彼は私のために尽力してくれた。
「別の世界でも、あなたは私のために行動してくれたと聞きました。改めてお礼を。ありがとう、ゴルドさん」
「大したことはしていないさ。それより、僕のことはゴルド卿と呼んでもらえると、僕が大いに喜ぶ」
「そんな風に呼ぶ必要はありませんわよ」
 ゴルドさんの脇から小さな女の子が顔を出した。
「リリィさん……」
「こうしてお話するのは初めてですわね。これから長いお付き合いになると思いますわ。どうぞよろしく」
 なんだか、とても他人とは思えない親近感を覚える。こんなに小さな女の子なのに、まるでお母さんのような……。
「そうですわ、これを」
 リリィさんから手渡されたのは、手鏡だった。
「自分の顔をよく覚えておきなさい。ヴァンパイアになれば、もう二度と見ることは叶わないのだから」
 私は鏡に写る自分の顔とリリィさんの顔を見比べた。不思議と不安や焦燥感はなかった。
「それじゃ、私が無事ヴァンパイアになったら、お互いに似顔絵を描きませんか」
 リリィさんは一瞬キョトンとして、それから可愛らしく笑った。
「いいですわね。是非、そうしましょう。時間はいくらでもあるのだから、そのうち嫌でも上手くなりますわ」
 私はリリィさんに手鏡を返して、それから最後の一人に顔を向けた。
「お父さん」
 懐かしい、お父さんの顔。
 目を覚ましてから感じていた胸の痛みは、私という存在を修正しようとする世界に抗う痛みなのかも知れない。
「桃子……」
 お互いに言葉が出てこなかった。
 でも、向かい合って、目をあわせて、仕草や表情を見ているだけで、言葉以上に伝わって来るものがある。
 それでも最後に、はっきりと言葉にしておきたかったことが、私にはあった。
「お父さん、私、お母さんの口癖を覚えてる。『万物には等しく意味と価値がある』って。だから私が生まれてきたことにも、きっと何かの意味と価値があると思う。私はこれからそれを探すよ。きっと、お父さんとお母さんに、ありがとうって言うよ」
 苦しみに墜ちた私の人生にも意味があるとしたら、こうしてたくさんの出会いに恵まれたこともその一部なのかも知れない。
 お父さんはただ黙って頷いた。
 今はまだ言葉はいらない。これから少しずつお話をしよう。
 失ったものは必ず取り戻せる筈だから。

 そして私は、最後にゆっくりと目を閉じた。
 さようなら。もう一人の私。

○ ○ ○

 地平線の向こうから、赤い光が上り始める。
 荒れ果てた広野には無数の墓標が立ち並んでいる。
 丘の上に、ひときわ大きな墓石が二つ並んでいた。その前に立つ一人の少女。
 黒のワンピース姿に黒い日傘を持った桃子は黙祷を終えて目を開いた。
 空を見上げる。ピンク色の雲の群れがぐんぐんと流れていく。
「……お父さん、お母さん。また一年が、あっという間に過ぎちゃったよ」
 ぽつりと呟いて、桃子は二つの大きな墓石の脇に目をやった。
 そこには、小さな墓石が寄り添うようにして立っていた。
「この前ね、ミカに会ったんだ。夢だったのかも知れないけど、ヴァンパイアは夢を見ないって言うし……きっと、会いに来てくれたんだと思う。全然変わってなかったよ。全然。あの頃のまま……。そうそう、リリィさんとゴルドさんは、またしばらく来られそうにないって。色々な世界を飛び回って忙しそう。あの二人も全然変わらないから、時々……忘れそうになっちゃう」
 桃子は膝を屈めて、小さな墓石に話しかける。何度も何度も磨かれた白い石はつるりとなめらかな楕円形をしていた。
「今年もまた新しい学生が入ってきたよ。やんちゃだけど素直で、可愛い子たち」
 何かを思い出したのか、桃子の頬が緩む。
「そうだ、新しい機種に入れ替わったんだ。これは置いていくね」
 桃子が墓石の台座に手を触れると、その一部が四角く口を開けた。桃子は手提げ鞄から取り出した黒い携帯端末をその中に納めた。穴の中で折り重なった無数の携帯端末がカシャッと軽い音を立てる。
 それらの中には、ぴよらっとと一緒に過ごした日々の写真や動画、そして膨大な量の日記データが入っている。こうして新しい端末に替える度にデータを移しかえてきたのだ。
 意思を持って管理する者がいる限り、記録は数百年の時を経てなお残り続ける。
「それじゃあ、またね。ぴよらっと」
 桃子は立ち上がると、学校へと向けて軽快に足を踏み鳴らした。

 広く平坦な教室の窓際に赤い日差しが投げ込まれている。
 開いた窓からは微かに虫の声が聞こえてくるのみ。
 カンバスの擦れる音がいくつも響く。集中して手を動かす学生たちの間を、桃子はゆっくりと歩いていく。少しずつ形になっていく絵を眺めながら。
 やがて教室の突き当たりまで来た桃子は、不意に窓から空を見上げた。
 そっと伸ばした手に乗ったのは、小さな白い綿毛。
 それは、何かを思う間もなく風に乗り、飛んでいった。
 桃子はしばらく空を見上げていた。





 おしまい