携帯らっと
25-B 「ぼくにも一つ考えがあります」 ぴよらっとが言うと、その場にいる全員の視線が集まった。 リリィの案は非の打ち所がないように思える。それを聞いた上で、どんな提案をするというのか。 「是非、聞きましょう」 リリィはホワイトボードの前の椅子に腰掛けて、楽しそうにぴよらっとを見た。 「桃子さんを他の世界に連れて行きます」 「……それで?」 「それだけです」 「……」 リリィの顔から表情が消える。 「……説明して頂けますわね?」 ぴよらっとは姿勢を正して頷いた。 「ぼくはずっと疑問に思っていました。どうして桃子さんは体の半分を失っているはずなのに、普通に動けているんだろうと。リリィさんも最初に桃子さんを見た時に指摘していましたね。あの状態で動き回ることなんてできないはずだって」 確かに、とリリィが頷く。 「でも、先ほどの出来事でその理由が分かりました。……イズミさん、魔書を使って桃子さんに魔力を与えるしくみを作ったのは、あなたですよね?」 「あ、ああ。そうだけど……」 唐突な質問に物江イズミは驚いたように答える。 「どうしてそうしたんですか?」 「……どうして、か。いや、実は私も良く分かっていないんだ。桃子がああなってしまってすぐに、なんとかあの子を救えないかと色々な手段を試した。その過程で、魔力を直接補給してやると少し調子が良くなることが分かったんだ。だから、何故そうなるのか理由も分からないまま、現状を維持するためだけにあの仕組みを作ったんだよ」 「やっぱり、そうでしたか」 「どういうことですの?」 リリィが興味深そうに身を乗り出す。自分が分からなかったことをぴよらっとが語るのが楽しくて仕方がないといった様子だ。 「思い出してください。先ほどの戦闘で、桃子さんは全身に傷を負いました。それが今では一つも残っていません」 「それは、観測者の力ではありませんの? あの時の桃子さんは体を支配されて……」 リリィはそこで何かに気付いたようだった。 「そう、桃子さんの傷が消えたのは、肉体の変質が解除された後なんです。観測者に支配されている間は血が流れ続け、傷は開いたままでした」 「なるほど……」 リリィは心から感心したように呟いた。 「これは恐らく桃子さんが生まれついて持っている、固有の常時発動型魔術なのではないでしょうか。常に肉体を修復し続ける、かなり強力なものです。体の機能を半分失っても普通に過ごせていたのは、この力のおかげだと考えれば納得がいきませんか? そして、魔書によって魔力を補充することで体調が良くなるというのも、これを裏付ける証拠の一つだと思います」 「まさかそんな……」 物江イズミは呆然とした様子で言った。 「大きな事故や怪我や……きっかけがなければ普通は分かりません。イズミさんが気付かなかったのも無理のないことだと思います」 「……だとすれば、もっと大量の魔力を注ぎ込めば……いやしかし、あの膨大な数の魔書でも足りなかったとなると……」 「それよりもっと簡単な方法があるんですよ、イズミさん」 「簡単な方法?」 ぴよらっとの言葉に物江イズミは虚を突かれたようだった。 「イズミさんや冬見学長は例外なので忘れがちになってしまうのかも知れませんが、この世界を包む赤い空は魔術を抑制します……」 この世界は、大戦後間もなく赤い空に覆われた。ここではあらゆる魔術が抑制され、その効力は半減される。そのためここに住む者の多くは魔術を扱えない者ばかりで、人口も少なかった。 だがこの特性を逆に利用して世界を活性化させるために、二人の人間が送り込まれた。冬見晴一と物江イズミである。彼らは強力な魔術師であると同時に、赤い世界の魔術抑制効果への耐性を持っていた。 彼らは別の世界から人間を呼び集めた。それは敢えて魔術抑制を必要としている者たち。すなわち、幼くして強い力を得てしまったがためにそれを制御できなくなった者や、魔術の存在自体が稀な世界で高い魔術適正を持ってしまい実生活に支障をきたしている者、魔術による呪いを受けた者、魔術を悪用して世界を追放された者など。 冬見晴一は彼らのために学校を作った。ワケありの者たちが普通の人間のように生活できる場を提供し、統治した。そして物江イズミは、やがて彼らが元の世界に戻る時のためにこの世界の特性を研究していたのだった。 「つまり、桃子さんの自己回復も今は効果が半減した状態だということです。観測者は存在を維持するために肉体を蝕み、それと拮抗するように桃子さんは肉体を再生し続けているのでしょう。それならば、この赤い世界を出れば自ずと桃子さんの肉体は完治し、それと共に半実体と化していた観測者の部分を実体へと統合できるはずです」 「しかし……それなら尚のこと大量の魔力が必要になるんじゃないか? この世界を出たとたんに一気に体を治そうとしたら、魔力が枯渇してしまう」 「大丈夫ですわ」 リリィが言った。 「消費した魔力量が効果に見合わないこの世界があるように、僅かな魔力消費で大きな効果を発揮できる世界もあるんですのよ」 「リリィさんの仰る通りです。移動にはゲートを使えば問題ありません」 ぴよらっとが補足すると、物江イズミはしばらく考え込むように沈黙してから顔を上げた。 「……一応、納得した。とりあえず本当に桃子にパッシブの回復魔術が備わっているのかを確認できれば、後はもう何も言うことはない。桃子が起きてから部分麻酔をして、ほんのちょっぴりだけ指先に傷をつける程度のテストで分かるはずだ。……リリィさんの案も間違いないようには思えるが、しかし私は……」 物江イズミは言葉を濁したが、ぴよらっとの案を推したいという気持ちがにじみ出ていた。やはり、娘をヴァンパイアにすることに対する心情的な抵抗は大きいらしい。 「そうですわね……ただ、私の案には先ほどの説明で不足している部分がありましたわ」 リリィはぴよらっとに向かって言った。 「私は観測者と接続し、連鎖的に広がるワクチンのようなものを注入するつもりですの。観測者は次元を超えて様々な可能性世界と繋がっていますわ。つまり、ここで観測者を殺すことによってあらゆる可能性世界の観測者は連鎖的に消えてゆき、全ての桃子さんが救われるんですのよ。……それでもぴよらっとさん、あなたはこの世界のたった一人の桃子さんだけを救おうと仰るの?」 「観測者としての半身も、間違いなく桃子さんの一部です」 ぴよらっとは胸を張って答えた。 「それに、観測者としての桃子さんは、お母様との深いつながりでもあります。それをなかったことにするという選択は、ぼくにはできません」 ぴよらっとの言葉を聞いたリリィは、優しく笑った。 「……結構。ぴよらっとさんの案を採用しましょう」 その日の夜。空は赤い月すらも見えない漆黒に染まっていた。 魔方陣めいて規則的に並べられた石。その内側は淡く紫色に光り、渦を巻いている。 中心にいるのは、桃子と、桃子に抱かれたぴよらっとだった。 「お気をつけて」 小さくミカが言った。 「たまには遊びに行くよ」 ゴルドがいつも通りの調子で言う。 「娘をよろしくお願いします」 物江イズミが深々と頭を下げる。 最後に、リリィが二人に歩み寄った。 リリィはぴよらっとの耳にそっと顔を寄せて囁いた。桃子が目覚めてからは定位置となっている腕の中で、ぴよらっとが身じろぎする。 「あなたを守ったこの首飾りね、本来ならば、正規の持ち主かそれに由来する者にしか反応しないんですのよ」 「えっ、それは……」 ぴよらっとが聞き返すより早くリリィは離れてしまった。 「またお会いしましょう。きっとお二人でしたら大丈夫ですわ」 「みんな、ありがとう……。必ずまた、帰ってくるね」 桃子が頭を下げると、それが合図だったかのように紫色の光が広がり、二人を包んで高く高く夜空の果てへと伸びていった。 ○ ○ ○ 見上げる空はどこまでも澄んでいる。視界を遮るものは何もなく、青い半円の蓋がすっぽりと頭上を覆っているかのようだ。 「本当に行くの?」 桃子が言う。 「はい。桃子さんと一緒に過ごせた日々はとても楽しかったです」 ぴよらっとの目の前には、いつかのあの赤い世界から飛び立ったのと同じように、ゲートが渦を巻いていた。 桃子が完治してからも二人はこの青い世界に留まり、穏やかな生活を送っていた。 温暖な気候に、豊かな自然。鳥の声で目を覚まし、二人で散歩に出かける。珍しい葉っぱの色や形を見て笑い、持参したお弁当を食べながら川の流れをぼんやりと見つめる。緩やかな風が吹き、どこからともなく花びらが舞う。やがて大きな夕焼けを見送って一日が終わる。 それは桃子にとって夢にまで見た平穏な世界。 二人は幸せだった。 しかしぴよらっとには、ずっと気になっていたことが二つあった。 一つは、あの日リリィの提案を受けていたらどうなっていたのかということ。もう一つは、リリィが別れ際に言った言葉。 どうしてあの首飾りはぴよらっとを守ってくれたのか? 日課のように少しずつそれを調べるうちに、遥かな昔、ぴよらっと族は偉大なる叡智を持つ賢者と称されていたらしいことが分かった。 彼らはその叡智の結晶を自らが選んだ者たちに与え、あるいはどこかへと隠し、そして自分たちも大きな時の流れの中に身を隠した。 ぴよらっとは、啓示のようにある一つの可能性を見出した。 ゲートを用いて世界間を飛ぶように、異なる時空……可能性世界へと跳躍する方法を、ぴよらっと族は持っていたのではないだろうか。 ぴよらっとは、それを確かめるために自分の生まれ育った故郷へと帰ることを決めたのだった。 桃子との幸せな日々を捨ててまでぴよらっとがそれに拘った理由は…… 「もしもあの時リリィさんの提案を受けていたら、きっと全ての可能性世界で桃子さんは救われていたのでしょう。でも、ぼくはそれを選ばなかった。選べなかった。ずっとそれが気になっていたんです。だからぼくは、この可能性を追ってみたい。もしも今からでもあらゆる可能性世界の桃子さんを救えるならば、それにチャレンジしてみたい。そう思ったんです」 「……ねえぴよらっと。笑わないでね」 そう言いながら、桃子は笑っていた。 「私ね。いま、自分自身に嫉妬してる。……変かな?」 ぴよらっとは困ったように眉を下げた。 「ねえ、きっと私を救ってね。あなたのことを待っている私を救ってあげてね。私はもう、大丈夫だから」 桃子は膝をついてぴよらっとの小さな手を握り、そっと自分の頬に押し当てた。 「約束します。きっと」 そしてぴよらっとは、その場所に至った。 歪む時間と空間の狭間に、くるくると回りながら漂う何かがある。 ぴよらっとがそれを手に取ると、一瞬電流のようなものが走り、そしてそれは動き出した。 それは、見慣れた自分の携帯端末だった。 しばらくそれを眺めてから、ぴよらっとはゆっくりと流れに身を任せた。 ふわりと何かが目の前を横切る。 白い鳥の羽に似たそれは、伸ばした手をすり抜けて、消えていった。 『――ぼくへ。長老たちから聞いた通り、この後ぼくは記憶を失い、別の可能性世界で存在を再構築されます。こうしてここに辿り着けたぼくが何度目のぼくなのかは分かりませんが、これから何をすべきなのかは分かっているでしょうし、大切な思い出を失う覚悟もしたのでしょう。でも、心配はいりません。この携帯端末に記憶を封じ込めて下さい。ここに集められた思いは決して色あせることなく、ぼくはいつまでもそれを忘れることはありません。……どうしてぼくが可能性世界に一人しか存在しないと彼女が言ったのかも、ようやく分かりましたね。既に救われた桃子さんには観測者の能力がなかったから……。今度のぼくがどのような選択をしても、きっと桃子さんを救ってくれると信じています。そしていつの日か、全ての彼女を救うことができたなら……帰るべき場所に帰りましょう。その日まで、ぼくと、この携帯は、生き続けなければならない』 おしまい |