ripsh


携帯らっと
3



普通の人なら背伸びをすれば取れるような場所の本も、ぴよらっとが取るとなると一仕事だ。伸縮自在の脚立を持ち運び、脚の長さを調節してから設置して登らなければならない。
とかくこの学校の設備は人間の大きさを基準にしているから、単純に体が小さいというだけで様々な障害が立ち塞がる。
今ぴよらっとが使っている脚立は、物置部屋で埃を被っていたものを彼が管理者に交渉して借り受けたものだ。図書委員も自由に使用して良いという条件で、特別に図書館の片隅に置かせてもらっている。
図書委員長である物江桃子は当然そのことを知っていたはずだが、今の彼女の記憶には存在しない。

脚立の上でぴよらっとは悪戦苦闘していた。
彼にしては珍しく目測を誤ったのか、目当ての本までの高さが微妙に足りなかったのだ。
耳が届きそうで届かない距離。一度脚立から降りて脚の長さを調節し直すのももどかしく思える、そんな絶妙な高さである。
えいと思い切って背伸びをした拍子に、ぴよらっとの体がぐらりと後ろに傾いた。一旦バランスを失った体勢を立て直す余裕もなく、一瞬の浮遊感の後にぴよらっとは重力に任せて落下した。
絨毯や本棚の固い衝撃……それらを覚悟して目を閉じていたぴよらっとは、柔らかく自分を包み込む予想外の感触に軽い混乱を覚えた。
「可愛いお餅が降ってきた」
ぴよらっとを抱き止めたのは、ふわふわした髪の少女だった。先ほどまで机を囲んでいた三人組のうちの一人である。
「本棚からお餅」
「あ……ありがとうございます」
「どういたしまして。あなた、見た目より軽いのね。潰されるかと思っちゃった」
いわゆるお姫様抱っこをしていたぴよらっとを優しく床に下ろすと、ふわふわ髪の少女は朗らかに笑った。
「本当にすみません。ぼくの不注意で危うく怪我をさせてしまうところでした」
耳を床に擦り付けんばかりにぴよらっとが謝ると、
「気にしないで。私、こう見えても結構頑丈だから」
ふわふわ髪の少女は二の腕を曲げる仕草をしておどけて見せた。そして真面目な顔に戻ると、しゃがんで目線をぴよらっとと同じ高さに合わせ、
「ねえ、ところであなた、あの受付の女の子とお知り合い?」
ぐっとぴよらっとに顔を近付けるようにして尋ねた。
「ええと……そうですね、最近少し言葉を交わすようになった程度ですが……」
「さっきも話してたよね?」
「はい。以前ぼくが本を借りた時に、持ちやすいようにと紙袋を貸して頂いたので。さっきはそのお礼をしていたのです」
ぴよらっとが事情を説明すると、ふわふわ髪の少女は口元に拳を当てて、何か考え込むようにうーんと唸り声を上げた。
「あなた、物江さんのこと、どこまでご存知?」
しばらくうんうん唸っていたふわふわ髪の少女は、不意に顔を上げて、ぴよらっとに尋ねた。
「物江さん……」
この時初めてぴよらっとは受付の少女の名前を知った。そんなぴよらっとの様子を見て、ふわふわ髪の少女も事情を察したようだった。
「ごめんなさい、何も知らないみたいね」
申し訳なさそうに言う少女をぴよらっとは問うような瞳でじっと見詰め返した。ふわふわ髪の少女は仕方ないという風に薄く笑ってから口を開いた。
「あの子……物江桃子さんはね、元々はあんな風じゃなかったの。そりゃ運動部みたいに活発って訳でもなかったけど、よく話してよく笑って……小鳥みたいに可愛い子だった。それがある日を境に変わってしまったの。
その日、珍しく遅刻して教室に入ってきた彼女を見たクラスメイト達は皆、見知らぬ誰かが彼女と同じ顔の仮面を付けて入ってきたのかと思ったそうよ。まず明らかに雰囲気がおかしかったし、見た目も、彼女を知っている人が見たらどう考えても変だった。昨日まで水泳の授業で日焼けしていた筈の肌が透き通るような白色になっていたり、生まれつき赤っぽい色をしていた癖毛の髪が真っ黒のストレートになっていたり。でもね、それだけなら突然イメージチェンジをしたって思えば……まあ、強引だけど、一応納得はできたかもしれない。けど、それだけじゃなかった。一言で言うと、彼女は心がどこか壊れてしまったみたいになっていたの。会話の途中でいきなり黙り込んだり、そうかと思えば以前のように普通に話し始めたり、妙に話が噛み合わなくなったりした。そして何より、彼女は全く笑わなくなった。突然饒舌になって冗談を言ったりする時もあったんだけど、その時も顔は笑っていないの。声のトーンも低くて、ずっと無表情で、みんな気味悪がってね……。一体何があったのかって、先生や、彼女の親友だった子たちが何度も聞いたんだけど、結局何も話してくれなかった。さすがにおかしいと思った担任が家庭訪問したんだけど、いつ行っても家に誰もいなくて。仕方なく近所の人に聞いてみたら、いつも洗濯物を干したり買い物に出かけたりしていたお母様の姿を、数日前からぱったり見かけなくなったんだって。お父様も夜遅くまで帰らなくなって、離婚でもしたんじゃないかって噂になっていたそうよ。その担任、夜までねばってお父様の帰りを待ったらしいんだけど、聞けたのは『妻は行ってしまった』って、たった一言。それ以外は何も話してくれなかったんだって。
……今でもね、彼女はあの日、別の誰かと入れ替わったんじゃないかって、そんなこと、わりと本気で信じている人さえいるの。それくらい、彼女の変化は異常だったんだよ」
息をつく暇もなく一気に喋ってから、ふわふわ髪の少女は目を伏せた。
「……実は私も同じクラスだったの。親友って程じゃなかったけど、私は頻繁に図書館を利用していたから、物江さんとはよく話してた。友達……だったと思う」
「今は違うのですか?」
まるで、もう終わってしまったことを語るような少女の口ぶりに、ぴよらっとは引っ掛かりを感じて尋ねた。
「うん。今ではもう知り合いですらない。彼女はね、ところどころだけど以前の記憶がなくなっちゃったり、前後したり、混ざっちゃったりしたみたいなんだ。特に人間関係の記憶はメチャメチャになっていた。彼女の友達だった人たちは、どうにか自分たちのことを思い出してもらおうと頑張ったんだけど、何をしても無駄だった。お互い無意味に傷つくだけだった。そのうち、彼女の周りからはどんどん人が離れていってね、彼女がすっかり一人ぼっちになるのにそれほど時間はかからなかった。みんな諦めちゃったんだ。たぶん、私もね」
明るい表情で、まるで何でもないことのように、ふわふわ髪の少女はさらりと言ってみせた。
「だからね、さっきあなたが物江さんと話しているのを見て、物江さんがあの頃みたいに笑っているのを見て、本当に驚いたんだよ」
そう言うと、ふわふわ髪の少女は、よっと声を出して立ち上がり、花のように笑った。
「ぼくは、何も知りませんでした」
「それでいいんだよ。あなたは何も知らず自由に行動した。そうしたらあの子は笑ったんだ。私はね、奇跡みたいなことには人よりちょっとだけ多く触れてきたつもりだったけど、あの子の笑顔を見た時、ああ、こういうのを本当の奇跡っていうのかなって思ったんだ」
「奇跡……ですか」
「まあ要は、これからも物江さんと仲良くしてねってこと。これまでの友達のことを全部忘れちゃっても、これからまた新しく作ることはできるのかもしれないし」
ぴよらっとが顔を上げると、ふわふわ髪の少女は脚立に足をかけて、本棚の上段を覗き込んでいた。
「本、取ろうとしてたんでしょ? どれ?」
「そんな、そこまでして頂かなくても大丈夫です、自分で取ります」
ぴよらっとが慌てて言うと、
「そんなこと言って、また落ちたらどうするの? いいから任せなさい。ささやかだけどね、今はお礼をしたい気分なの。『水辺の妖怪図鑑』? 『罪と大豆』? それともこっちの『古今東西春画百選』かな?」
楽しそうに本を物色する少女に何を言っても無駄と思ったのか、ぴよらっとは観念したように一つの本を指差した。
「その、緑色の背表紙の本です」
「あ、これね。『剣と杯』……タロットカードの本?」
「いいえ。遥か昔に存在した、とある小さな国の繁栄と滅亡を、物語のように書いたものです」
「へえ……」
パラパラとページをめくっていた少女は、突然何かを思い付いたように顔を上げて、ぐいっとぴよらっとに接近した。
「あなた、部活は何に入っているの?」
「ええと……なにかゲームのようなことをするような部……らしいですが」
唐突な質問に目を白黒させながらも、ぴよらっとが答えると、ふわふわ髪の少女は更に追撃してきた。
「面白そうだね。でも『らしい』っていうのは? あまり部活に出てないのかな?」
「なんというか…… 気が付いたら入れられていたというか、頭数に入っていたというか……」
「そうなんだ。ところでこの本は歴史の物語みたいだけど、もしかしてあなた、歴史に興味がある?」
「歴史ですか。興味はあります」
「だと思った! さて、そんなあなたにオススメの部活があります」
「いえ、ですからぼくは既に他の……」
「そこはかけもちで! 名前だけでもいいからお願い、存続の危機なの!」
ぴよらっとの小さな両手を握りしめて、わざとらしく泣き落とすような仕草で少女が迫る。
「わ、わかりました」
もはやなりふり構わず勧誘してくる少女に圧倒され、どんな部活なのかすら聞くのも忘れて半ば反射的にぴよらっとは頷いた。
「やった! あ、本渡すの忘れてたね。はいどうぞ」
少女は緑色の背表紙の本をぴよらっとに渡すと、喜びを体全体で表すようにくるりと半回転して、そのままぴよらっとに背を向けた。ふわふわの髪が空気を含んで浮かび上がり、赤い光を受けて燃え上がるようだった。
「ありがとうございます……」
「こちらこそありがとう、ぴよらっとさん。さーて、さっそくこの成果を我が部員たちに報告しなければ」
そう言って本棚の向こうへ歩いていこうとする少女の背中に、ぴよらっとはどうしても声をかけずにはいられなかった。
「あの、一つだけ聞いてもいいですか」
「なあに? 手続きとかに関しては明日にでも連絡するよ」
少女は振り返らずに、ひらひらと手を振りながら言った。
「いえ、あなたのことです。あなたは何故、そんな風にずっと無理をしているんですか?」
少女の動きがぴたりと止まった。
「無理、って何のことかな? 特に調子悪いところもないし、元気だよ」
少女は振り返らない。
「そうでしょうか。ぼくの目には、あなたはずっと辛そうな顔をしているように見えます。そしてそれを必死で隠そうと、演技をしているように見えるのですが」
少女は振り返らない。何も答えない。
しばしの沈黙。細く長く息を吐く音。そして、ゆっくりと振り返る衣擦れの音。

その少女の目は、先ほどまでコロコロと表情を変えながら話していた少女のものではなかった。
「……あなたは、人間と違って、とても目が良いのね」
それは紫と金が混じり合ったような色合いの瞳だった。まず間違いなく魔を宿した者のしるしである。
二者の間を通る空気に、緊張が満ち始めていた。怒気か、あるいは殺気か、その判別はつかない。少なくともそれが少女から発せられているのは間違いなかった。
「いつから気付いていたの?」
少女の魔眼がぴよらっとの黒い瞳を射抜く。しかしぴよらっとは、目を反らそうともせずにそれを受け止めた。
「はっきりと分かっていた訳ではありませんが、最初からなんとなく違和感がありました。あなたみたいに綺麗に笑える人間は、ほとんど見たことがありませんでしたから」
「……あなたは目が良いだけじゃなくて、口も上手なのね」
空気がふっと緩んだ。少女が一度目を閉じ、ゆっくりと開けると、そこには少し色素の抜けた穏やかな瞳があるだけだった。
「まいったなあ……」
そう言って少女は、照れ臭そうに笑った。
「何故隠すのですか? この学校なら別に……」
言いかけたぴよらっとの口を、少女の細い指がそっと塞いだ。
「あのね、何か勘違いしてるみたいだけど、私は人間だよ。ほんの少し別の血が混じってるだけで、皮を被って化けている訳じゃないんだから」
「では、どうして……」
「ずっと演技をしているのは、その……ちょっと今大きいのを抱えててね……。でも、それは必ず解決する。そのためにも、私は笑っていなきゃいけないの」
「それは、物江桃子さんのことですか?」
「……いいえ。物江さんには悪いけど、別の人なの。そうでなければ、あなたにあの子の昔話なんてしなかった。あの子はむしろ、あなたに任せたい。あなたに救って欲しいと思ったんだよ」
「そうでしたか……」
ぴよらっとの心中は複雑だった。演技を見破られてからの口振りから考えても、この少女が桃子のことを本気で気にかけているのは間違いない。しかし、少女の抱えている問題は桃子とは別の所にあって、桃子の名前さえ知らなかった自分に桃子のことを託したいという。
ぴよらっとである自分にしかできないことがあるかもしれないと思う一方で、人間にしかできないことも当然あるのではないかという不安があった。
かつて桃子の友人であったこの少女こそ、真に桃子へ手を差し伸べるべき存在なのではないかとも思った。
「でもあなたは勘が鋭いから、私のことまでバレそうになっちゃって。さっきはごめんなさい。私はできるだけ本当の自分のことを隠さないといけないから、あなたにも暗示をかけようとしたの。人間以外にかける方法なんて習ったことなかったから、やっぱり効かなかったけどね」
「ぼくは、ぴよらっとですから」
「そうだね。私の力は対人間にだけ特化している……たった一人の人間のためだけに身に付けたものだからね」
強い意思を窺わせる瞳を細めて静かに呟く少女の言葉に、ぴよらっとは少女の壮絶な決意を見たような思いがした。
この少女は、たった一人の人間のためだけにその身を魔に染め、ついに魔眼を宿すまでに至ったのだ。
彼女にはそれほどまでに救いたい人間がいる。自らの身体も、かつての友も、何もかもを投げ出してまで成さねばならないことがあるのだ。
出会ったばかりで素性も知れないぴよらっとに、大切な友人だった筈の物江桃子を任せたいと言った少女の気持ちが、彼にはほんの少しだけ分かったような気がした。
「わかりました。物江桃子さんのことはぼくに任せてください。何ができるかわかりませんが、なるべく彼女と話すようにしてみます」
ぴよらっとが言うと、少女はほっと安心したような穏やかな顔をした。それこそが少女の本当の笑顔だったのかもしれない。
「部長……誰と話してるんですか……」
唐突に、本棚の陰から別の声が聞こえた。
ぴよらっとが声のした方を見ると、ショートカットの少女が、本棚に半分隠れるようにして立っていた。三人組のうちの一人だった。
「あ……ど、どうも」
ぴよらっとの姿を見つけると、ショートカットの少女は更に身を隠すようにして呟いた。
「こんにちは」
ぴよらっとは丁寧に挨拶を返した。
「ああ、ちょうどよかった。この子はぴよらっとさん。お願いしたら部活に入ってくれるって。かけもちだから、名前だけって感じになるかもだけど」
ふわふわ髪の少女がショートカットの少女に説明する。ショートカットの少女は、たった今までぴよらっとに向けていた硬い雰囲気を嘘のように崩して、夢見るような表情で話を聞いていた。
どうやらショートカットの少女はふわふわ髪の少女に全幅の信頼を置いているようだった。いや、むしろその目の光は、信仰に近かったかもしれない。
「よろしくお願いします」
ぴよらっとが改めて挨拶をすると、
「はい……入部してくれて、ありがとうございます」
ショートカットの少女は夢から醒めたように硬い表情に戻った。
そんな様子を案じてか、ふわふわ髪の少女はさり気なくショートカットの少女と肘が触れるくらいの距離まで近付いて、
「ぴよらっとさん、そろそろ私たちは戻るね。明日からよろしくね……っていっても、実はまだ活動はほとんどしてないんだけど。部員があと一人足りなくてね。このままだと部活動どころか研究会に格下げされちゃうかもしれないの。だからしばらくは勧誘活動がメイン。今日はあの子が入部してくれたから、部活説明に、ね」
そう言ってふわふわ髪の少女が窓の方を指さすと、いつの間にかポニーテールの少女が窓際の本棚に背をもたれて立っていた。
ポニーテールの少女は無言でぴよらっとを一瞥して、本棚の影に消えた。
「ぴよらっとさんもアテがあったら誰か誘ってくれると嬉しいな。それじゃあ、またね」
「はい。……ところでこれ、なんの部活なんですか?」
「歴史編纂部だよ」

そうして三人の少女たちは結局一冊の本も借りぬまま図書館を出ていった。
一人残されたぴよらっとは、昨日までとは少し違った心持ちで受付のカウンターへと向かった。