ripsh


携帯らっと
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「何を話していたんですか?」
貸出の手続きをしながら、桃子はやや咎めるような口調で言った。
手続きといってもプレートのような装置に本を載せるだけで、後はモニター上の貸出ボタンをタッチするくらいしかやることはないのだが。
貸出相手のスキャンと照合に少し時間がかかるため、その間に桃子はノートに手書きで記録をつけていた。万が一電子機器に不具合が生じた場合の保険という名目で、歴代の図書委員長から受け継がれている儀式のようなものである。
ぴょこんと飛び出たぴよらっとの大きな耳には、コリコリとペンの走る音が心なしか硬く聞こえた。
「部活に誘われていたんです。部の最低人数を割ってしまったそうで……」
ぴよらっとが答えると、桃子はノートをぱたんと閉じて立ち上がり、カウンターに隠れてしまっているぴよらっとと顔を合わせた。
「知っているかと思いますけど、ここには校則とは別に図書館規則が定められているんです。館内での不必要な会話は禁止されているんですよ」
ぴよらっとの目をキッと見据えて、若干頬を膨らませながら桃子は言った。どうやら怒っているらしい。しかし表情の変化に乏しい桃子の顔は、眼鏡の奥でちょっと目を細めているくらいにしか見えないのだった。
「確かにそうですが、それは周りで静かに本を読んだり勉強をしたりしている人の迷惑になるからですよね。さっきはぼくたちの他に誰もいませんでしたし……何より、先日からこうして物江さんとぼくがお話をしているのも、規則に照らし合わせたら禁止ということになってしまうと思うのですが……」
口調こそ穏やかではあるが、ぴよらっとにしては少し意地悪な言い方だった。それはぴよらっとが桃子の怒った顔を見たからに他ならない。
部長……ふわふわ髪の少女の話によれば、桃子は何を話す時も無表情だったという。しかし、今はこうして乏しいながらも表情の変化を見せ始めている。ぴよらっとはこれを吉兆と捉えた。怒りのような感情でも、積極的にそれを発露することで、徐々に元のような表情を取り戻していくのではないかと考えたのだ。
「……」
しかし桃子が見せた反応は、ぴよらっとが期待していたものとは違った。桃子はテーブルに両手をついた姿勢のまま俯き、沈黙してしまった。
正論を言われて怒り出したり、逆にあっさり意見を認めたり、あるいは何故自分の名前を知っているのか問い掛けて来たり……そういった様々な反応を予想していたぴよらっとだったが、こうして黙り込まれては手の出しようがなかった。
気まずい間が数秒続き、それから桃子はゆっくりと椅子に腰を下ろして、
「それで、入るの?」
明後日の方向に話し掛けるように小さく言った。先ほどまでとは一転して、気の抜けたような声だった。
「…… そうですね。名前だけでもよければ、ということになりました。実際部活に顔を出す機会はほとんどないと思います」
急な話題の転換に一瞬戸惑いかけたぴよらっとだったが、持ち前の適応能力で危なげなく会話を繋げた。彼がぴよらっとの身でありながら他種族ばかりの学校生活に難なく溶け込めているのも、この能力によるところが大きい。
「そうなんだ」
桃子は素っ気なく答えたが、その声音には僅かに柔らかい響きが滲んでいた。もしもぴよらっとが人間並の大きさで、その視界をテーブルに遮られることがなかったならば、桃子の顔に浮かんだ安堵の表情さえ見て取ることができたかもしれない。
「ところで物江さん、どうしてぼくと部長が話していたことを知っているんですか?」
話題を変えるようにぴよらっとは言った。
この図書館はかなり広い。ぴよらっとが脚立から落ちた場所は、受付からは完全に死角になっているはずだった。
「カメラ」
桃子の言葉にぴよらっとが天井を仰ぐと、随所に黒い突起物のようなものが見て取れた。
「……なるほど」
恐らくあのカメラによって、受付のモニターから館内をくまなく監視できるようになっているのだろう。
考えてみれば利用者が少ないとはいえ、たった一人でこの広い図書館を管理するというのはあまり現実的ではない。監視カメラくらいの設備はあって当然なのかもしれない、とぴよらっとは思った。
あるいはこの設備のおかげで、密やかな逢い引きを楽しみたがっている学生や教師の足が図書館から遠ざかっているのかもしれないが。
「音は入らないの」
桃子はつまらなそうに言った。
「録画されているんですか?」
「一週間分だけ」
「それでは、あと一週間はぼくの恥ずかしい姿が残ってしまうんですね」
「短いよ」
「そうでしょうか」
「もったいない」
「とんでもない」
「見る?」
「見ていいものなんですか?」
「……ダメかも」
「だと思いますよ」
「そうなの?」
「部外者ですから」
「……」
桃子は急に立ち上がるとカウンターの脇を回り、ぴよらっとのすぐ近くにしゃがみ込んだ。
ぴよらっとは少し驚いたが、あえて何も言わずに成り行きを見守ることにした。
桃子は膝の上に腕を組み、その腕に顔を乗せるように小首を傾げてぴよらっとに視線を送った。眼鏡の奥の瞳は、獲物を狙う昆虫じみていて無機質だった。
陶器のように白くなめらかな頬の上を、墨のように黒い髪が一束流れた。不意に組んでいた腕をほどき、桃子の指がぴよらっとの耳に触れた。
ぴよらっとは一瞬ぴくりと耳を震わせたが、じっと押し黙り、されるがままになっていた。
桃子はしばらくぴよらっとの耳や手などをふにふにとこねまわしてから、やがて満足したかのように手を引っ込めて、ほうと熱いため息を一つ吐いた。その表情は変わらず人形のようであったが、僅かに上気しているようでもあった。
桃子は立ち上がると、カウンターの上から何かを取り上げてさっさと何処かへ歩き出してしまった。
「……あの、何だったんでしょうか、今のは」
ぴよらっとが困惑ぎみに問いかけると、桃子は少し振り返って
「こっち」
とだけ言った。
よく見るとその手には、ぴよらっとが渡した紙袋と一緒に、緑色の背表紙の本が握られていた。
ぴよらっとは慌てて桃子の後を追いかけた。