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携帯らっと
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 ぴよらっとは桃子の後に続いて、図書館の隅にある準備室のような部屋に入った。
 その部屋は教室の半分ほどの広さだったが、壁際に背の低い本棚が隙間なく並んでいるため、実際にはもっと狭く感じられた。
 本棚には大判の図鑑のような本が詰め込まれ、天板の上には様々なものが乱雑に積まれていた。古い書類や古新聞、石膏の置物、汚れた工具箱、日焼けした本、クッキーの缶、硬くなった衣類、羽ペン、溶けた消しゴム、オルゴール仕掛けの人形などなど。隅の方には潰れかかったダンボールの箱が大量に積み上げられている。 いずれも埃を被っており、長らく誰にも手を入れられていないことが見て取れた。
 強烈な赤い光が射し込む窓の下にだけは本棚がなく、代わりに飴色の頑丈そうな作業机が置かれていた。机の上にはポットや小さなガラス戸の付いた食器棚が置かれている。
 机の脇には小さな水道と錆びた流し台が備え付けられており、その隣に奥の部屋へと続く扉があった。
 部屋の中央には、壁際の乱雑さとは対照的なシンプルで洒落た黒いテーブルと、揃いの椅子が据えられていた。これは学生食堂のテラス席に置かれているものと同一の品であったが、桃子もぴよらっとも食堂を利用しないため、その存在を訝ることはなかった。
 「座って」
 桃子に促されるままに、ぴよらっとは壁側の椅子に腰掛けた。椅子は思いのほか低く作られており、顔が半分ほどテーブルの下に隠れてしまったが、桃子がどこからともなく持ってきた分厚い綿入りのクッションを椅子に敷くと、ちょうど良い高さになった。
 ぴよらっとは、紅茶を淹れている桃子の後ろ姿を眺めた。
 唐突かつ強引ではあったが、どうやら桃子はぴよらっとが差し入れたパウンドケーキを二人で食べようという意味で誘ってくれたらしい。突然のお茶会に驚きはしたものの、一緒にお茶を飲むような友達を全て失った筈の桃子が自分を誘ってくれたのは、ぴよらっとにとっては光栄なことだった。
 窓からの日射しが宙を舞う埃に反射してキラキラと輝く。金粉をちりばめた赤い蜂蜜のような空気の中で紅茶を注ぐ少女の姿は、決して触れてはならない神秘的な生き物のようだった。
 ぴよらっとがぼんやりしている間に桃子は手際よくパウンドケーキを切り分け、食器を並べ、テーブルの上にすっかりお茶会の準備を整えていた。
 二人分のティーカップをテーブルに置くと、桃子も窓側の椅子に腰掛けた。ぴよらっとの位置からは逆光で桃子の姿が半ば影絵のように見え、その存在の現実感をますます失わせているように思えた。
 「いただきます」
 桃子は囁くような声で言うと、フォークで小さく切ったケーキを口に運んだ。静かに咀嚼する桃子の顔を、ぴよらっとは少しの不安と共に見守った。
 このパウンドケーキはぴよらっとが調理実習で作ったものだ。わざと材料を多目に用意して何個か作製し、最も出来の良いものを選んで持ってきた。実習中に試食した他のケーキと同じ生地を使っているので、味については問題ない筈だったが、それでも他人に、とりわけ桃子に自分の作ったものを口にしてもらうというのは、ぴよらっとにとって多少なりとも緊張を伴うことだった。
 こくり、と桃子が喉を動かす。
 一瞬の空白。
 しかし桃子は一言の感想も述べずに、そのまま二口目に取り掛かった。
 更に三口、四口と、ぴよらっとが見守る中で、桃子はあっという間に一切れのパウンドケーキを食べ終えてしまった。
 ぴよらっとは半ば呆然としながらも、すっかり毒気を抜かれたような心持ちになっていた。ここまで見事に食べ切られてしまっては、もはやこれ以上どんな言葉が必要だというのか。
 ぴよらっとは自分もケーキを食べることにした。一口頬張ると、オレンジピールとクランベリーの爽やかな香りが口いっぱいに広がり、ナッツの歯応えが心地よく響いた。味は同じ筈なのに、調理実習で試食したものよりもずっと美味しく感じられた。
 ふとぴよらっとが視線を感じて顔を上げると、いつの間にか二切れ目のケーキを皿に乗せた桃子がこちらを見ていた。
 「甘くて、おいしいよ」
 笑っているような、泣いているような表情だった。
 逆光で陰になった顔からは人間らしさというものがすっかり欠け落ちて、まるで幽霊のような、とらえどころのない美しさを放っていた。
 「……おいしいですね」
 ぴよらっとは、不意を突かれたような気持ちで言った。なぜか一旦直視した桃子の顔から目が離せなくなっていた。
 桃子はおもむろに紅茶を一口飲んで、急に驚いたような顔になった。湯気で眼鏡が白く曇った。途端に先ほどまで纏っていたこの世のものとは思えない雰囲気が霧散し、ぴよらっとも不可思議な呪縛から解放された。
 「火傷でもしましたか?」
 努めて冷静を装いつつぴよらっとが尋ねると、桃子はちらりと後ろを振り返ってから、
 「……誰かが、紅茶を入れ替えたのかと思った」
 と言った。
 「なんでだろう。いつもより、ずっとおいしい」
 ぴよらっとにはその疑問の答えに心当たりがあったが、何も言わなかった。
 それから二人は黙々とケーキを食べた。まるで何日間も甘いものを食べていない人のように、無言でケーキと紅茶を胃に納めていった。
 それぞれ紅茶のおかわりが三杯目を数えたあたりで、桃子が口を開いた。
 「あなたは、何を勉強しているの?」
 「人間についてです」
 ぴよらっとはカップを置いて答えた。
 「人間のことを知りたいの?」
 「ぼくは、人間の中で生きることを選んだぴよらっとですから」
 桃子は少し考えるように視線を巡らせてから、何か思い付いたように話し始めた。
 「……それじゃあ、『時既に遅し』って言葉の、『トキスデ』って何か知ってる?」
 「えっ、その言葉、そこで区切るんですか」
 「ぶー。勉強が足りないねぴよらっとくん」
 冗談めかした口調とは裏腹に、桃子は無表情のままだった。一貫して低いテンションのまま説明が続く。
 「トキスデは、古代アシュラム王朝時代に発見されたスデ科の植物。その葉はあらゆる怪我や病を治す薬草だった。その効果は人智を超えていて、全身が炭化するほどの火傷ですら跡形もなく治せたとか。更にトキスデの葉は肉体だけでなく精神を病んだ者にも効果を発揮して、医者や悪魔払いを生業とする人たちの立場を危うくしたんだって。
 健康な人がトキスデの葉を飲めば命が百年は延びるとされて、時の権力者たちは競うようにトキスデを集めた。でも、その異常なまでの効果を見ればわかる通り、この植物は人の世のものではなくて、神々の世界からこぼれ落ちた種が奇跡的に発芽して繁殖したものだったから、限られた地域に限られた数しか生えていなかった。
 でもそんなことを知らない当時の人々は、あっという間にトキスデを採り尽くしてしまった。そして不思議なことに、自分たちで種を採って栽培を試みても、決してその種は芽吹くことはなかったんだって。
 トキスデの命だけはトキスデの葉で癒すことができない。そこから『トキスデに遅し』って言葉ができたんだよ」
 桃子は話し終えて一息つくと、どうだ、といった風にメガネを直した。
 「全く知りませんでした。勉強不足です。……ところでそれ、本当ですか?」
 「嘘です」
 「そうですか……」
 ぴよらっとは少し切ない表情をした。
 「人は何の意味もなく嘘をつくの」
 「……もしかしたら意味はあるかもしれませんよ。人が為すことには少なからず」
 「そう……?」
 桃子はぬるくなった紅茶を少しだけ口にしてから、両手でカップを包み込むようにした。
 ぴよらっとも一口紅茶を飲んだ。
 「物江さんは、さっきの三人組の女の子に似ていますね」
 ぴよらっとの言葉に、桃子はちらりと視線を向けた。眼鏡の縁が白く曇っている。
 桃子はカップを置いて眼鏡を外し、かちゃかちゃと音を鳴らした。
 「似てるかな。図書館を掃除するときは髪を結ぶから、そうしたら少しは似てるのかもしれないけど」
 三人組の中で眼鏡をかけたポニーテールの少女のことを言われたと思ったのだろう。
 しかしぴよらっとは、
 「いえ、眼鏡の子ではなく、ショートカットの子です」
 と言った。
 桃子は首を傾げた。ショートカットの少女と桃子とでは、背丈も顔のつくりも全く似ていない。
 「見た目ではなく、雰囲気と言いますか……。似ているんです。目の光。何か大切なものが抜けてしまったような感じが」
 ぴよらっとにとってこれは、ちょっとした賭けだった。
 ある日を境に突然変わってしまった桃子。そのことを彼女自身はどう思っているのか。遠まわしな言い方ではあったが、つまりはそれを確かめるための一歩を、ぴよらっとは踏み込んだのである。
 しかし、
 「……あなたはどこに住んでいるの?」
 しばらく虚空を見詰めていた桃子は、まるで先ほどのぴよらっとの言葉が聞こえなかったかのように言った。
 「坂の下にある学生寮です」
 焦ることはない、とぴよらっとは思った。
 桃子のかつての友人たちも、こうして『その部分』に踏み込もうとする度に見えない壁に阻まれて、焦燥感をつのらせていったのかもしれない。
 「あの古い建物か」
 「校舎裏の森より住み心地は良いですよ。時々虫が出るのは一緒ですけど」
 「そう」
 ぴよらっとなりの冗談は、桃子には効果が薄いようだった。