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携帯らっと
6



 学校から坂を下った先、少し道を外れると、森と町との境に古い洋館がある。外壁は苔むして蔦が絡まり、今にも崩れ落ちそうなほどの貫禄を見せつけているが、内部はきれいにリフォームされており、電気や水道などの最低限のインフラが整備されている。大戦以前に建てられたと噂されるこの洋館は、見た目に反して部屋数が非常に多かったため、学生寮として再利用されているのだった。
 ぴよらっとが開けたのは、その学生寮の一室である。
 「ただいま帰りました」
 「おかえりぴよらっと」
 「ゴルドさん、今日も早いんですね」
 「君が遅いんだよ。それと僕のことはゴルド卿と呼んでくれって何度言えばわかるんだい」
 ゴルドと呼ばれた青年は、部屋の中央に置かれたソファーに深く身を沈めて抗議の唸り声を上げた。
 真っ白な肌に赤い瞳、すらりと長い手足に整った顔立ちは、同性異性を問わず心を惹きつけるだけの魅力を存分に発揮していたが、漆黒の髪を炎のように激しく逆立てた独特の髪型が、全ての調和を台無しにしていた。
 彼は、自称ヴァンパイアであった。
 自分はとある高貴な血を引いているのだと主張し、他者に自分を『ゴルド卿』と呼ばせたくて仕方がないらしいが、彼の友人たちは誰一人としてまともに取り合おうとはしない。
 皆そうするのが『礼儀』であることを心得ているのだ。
 無論、それはぴよらっとも同じである。
 「誰も僕の言うことを真面目に聞いてくれないんだからなあ。ぴよらっと、僕は君よりよほど年上かもしれないんだぞ? 僕がかのヴラド卿から闇の口づけを受けたのは、いつだったかな、あれは確か大戦末期の砂漠の街で……」
 「はいはい、前はジャングルの奥地にある遺跡でしたね。そんなことばかり言っているから皆から相手にされないんですよ」
 「全く君は失敬だなあ。ぴよらっとという種族はこれだから困る。もし君が人間だったらとっくに全身の血を抜かれちまって、今頃いい具合の座布団カバーが出来上がっているところだぞ」
 「またそんな、出来もしないことを言うものじゃありませんよ」
 ゴルドの戯れを適当にかわしつつ、ぴよらっとは今日借りてきた本を自分の机の上に置いた。こうした軽口の応酬は、彼らなりの挨拶のようなものだった。
 「これ、おみやげです」
 二つのソファーに囲まれた共用のテーブルに、ぴよらっとが大量のパウンドケーキをどさどさ置くと、ゴルドは赤い目を輝かせた。
 「おいおい、こんなにたくさんの糖分をどうするんだ? 死ぬ気か? どこからかっぱらってきたんだい?」
 そんなことを言いながらもゴルドは既に包みを一つ開けて、手掴みでケーキを頬張っていた。
 「調理実習で作ったんですよ。分量を間違えたせいでたくさんできてしまって」
 「ふーん。甘いな」
 「パウンドケーキですからね」
 「お茶が欲しいな」
 「はいはい」
 ぴよらっとは棚からカップを取り出し、緑茶のティーバッグを放り込んで電気ポットのお湯を注いだ。
 「む、どうやら甘いのは砂糖のせいだけじゃあないようだ」
 「果糖も甘いですね。ドライフルーツの」
 「野暮だな君は……。愛だよ愛。このケーキからは愛の甘さがにじみ出ている」
 「何言ってるんですか。はい、お茶です」
 ティーバッグが入ったままのカップをぴよらっとが手渡すと、ゴルドはうまそうに啜った。
 「ぴよらっと、君の嘘もまた、甘いな」
 「何ですか嘘って。そんなケーキ片手に格好つけても格好よくないですよ」
 「分量を間違えたというのは嘘だろう。こんな盛大に間違える奴がいるものか。君がやることだ、何か意味があるんだろう。例えば……誰かに作ってあげるための練習、とか」
 そう言って、ゴルドは一息にお茶を飲み干した。
 「ズバリ、女だろう。君も隅に置けないなあ」
 「ぼくはぴよらっとですよ。人間の女の子なんて……」
 「ほう。人間の、とは一言も言ってないんだがな。しかしぴよらっとが人間の女に恋をして何が悪い」
 「話が飛躍しすぎです」
 「でも否定はしないんだな」
 「そんな簡単な話ではないんですよ……」
 「じゃあどんな難しい話なんだい?」
 ぴよらっとは言葉を詰まらせた。
 ゴルドはいつもお調子者の振りをしているが、実際はかなり鋭い男だ。先ほどのように、下手な嘘をついてもすぐに見破られてしまうだろう。しかし桃子のことや、部長と約束したことを、簡単に話してしまってもいいものだろうか……。
 そんなことをぴよらっとが考えていると、
 「もう一杯」
 ゴルドがカップを優雅に揺らしながら言った。
 「お湯入れるだけなんですから、ご自分でどうぞ」
 「見ての通り、手がふさがっている」
 「ケーキを置けばいいでしょうに……はい、最後ですよ」
 「ありがとう。ところで君は最近、図書館で遅くまで勉強しているようだけど」
 「そうですね。今日もこれを借りてきました」
 ぴよらっとは緑の背表紙の本を手に取り言った。
 「ふうん……しかしあれだな、君が何を熱心に勉強しているのかは知らないけど、どうもわからないなあ」
 「何がですか?」
 「図書館だよ。本を読みたければ、端末でいくらでもレンタルできるじゃないか。検索は一瞬で済むし、持ち運びの煩わしさもゼロだ。わざわざ別枠の規則が設けられている図書館なんて面倒な場所に赴く理由は皆無だと思うけどね」
 「それは」
 「それでも君には図書館に行くだけの理由ができたんだな。つまり君の目的は本ではなく女の子……」
 「待ってください。ぼくが最初に図書館に行こうと思ったのは、実際に人間が作った本に触れることでデータからは読み取れない感覚を得られるかもしれないと思ったからです。そんな不純な動悸じゃないですよ」
 「なるほど。つまり今は図書館に行く理由が最初の頃からは変化しつつある、と」
 「どうしてそうなるんですか」
 「そら、それだよ」
 「?」
 「君が僕の戯れ言にこんなにも真面目に付き合ってくれたのは初めてだ」
 「……」
 「分かりやすいなあ、ぴよらっと。君のそんな分かりやすさに僕は親愛の情を感じるんだ」
 ゴルドはカップをテーブルに置くと、満面の笑みでぴよらっとの耳を揉みしだいた。
 「……ゴルドさんには話すしかないみたいですね」
 「ゴルド卿と呼んでくれたまえ」
 ぴよらっとは小さくため息をついた。この自称吸血鬼にかかっては、どんな些細な秘密も甘美な玩具と化してしまうだろう。
 ぴよらっとは、図書館で偶然桃子と出会ったこと、部長から聞かされた桃子の特別な事情などをかいつまんでゴルドに聞かせた。話を聞いている間、ゴルドは一言も口を挟まなかった。
 「……一つ、確認したいんだが」
 およその事情を聞いたゴルドはしばらく沈黙した後、意外にも真面目な口調で切り出した。
 「なんですか」
 盛大に茶化されるのを覚悟していたぴよらっとは、拍子抜けしたような心持ちで答えた。
 「その子……桃子ちゃんは、ある日突然様子が変わったという話だったけど……見た目も変わったって? 比喩ではなく?」
 「はい。そこは部長も具体的に言っていたので、間違いないかと」
 「肌は白く、髪は黒くなり……瞳は?」
 「え?」
 「桃子ちゃんの瞳の色は何色だった?」
 「黒ですが」
 「黒? そうか、黒か……」
 ゴルドは一瞬驚いたような顔をして、それから安心したような、寂しげなような、複雑な表情をした。
 「何か心当たりがあるんですか?」
 ぴよらっとが聞くと、ゴルドはしばらく言い出すのを迷うような素振りを見せ、やがて決心したように口を開いた。

 「彼女は転化した可能性がある」