ripsh


携帯らっと
7



 ぴよらっとは図書館の前に立っていた。
 いつもと同じ時刻。廊下は赤い光に満たされ、板張りの床は血の海のようだ。
 濃い影に体を半分浸したまま、ぴよらっとは目の前の扉を開けることを躊躇っていた。
 ぴよらっとの斜め後ろ、完全な影の中に身を隠した長身が、もぞりと身じろきをした。

 「転化って、どういう意味ですか?」
 ゴルドの言葉に含みを感じたぴよらっとは先を促した。
 「人がヴァンパイアに生まれ変わる現象を指した古い言葉だ」
 三分の二ほどかじったケーキをテーブルの上に置いて、ゴルドは答えた。
 「人はヴァンパイアに転化するとき、いくつかの身体的特徴を得る。いや、失うと言うべきか……すなわち、肌、髪、瞳の色だ。ヴァンパイアには様々な血統があるが、この三つについてはほぼ共通している」
 ぴよらっとはそれとなくゴルドの顔を見た。
 石膏のように白い肌、墨のように黒い髪、瞳はカラーコンタクトレンズを入れたかのようなわざとらしい赤色だ。意外なことに、自称吸血鬼であるはずの彼がこうしてヴァンパイアのことを真面目に話すのは初めてだった。
 「物江さんはヴァンパイアになったということですか?」
 「可能性があるってだけさ。まあ、その可能性も低そうだけどね」
 ゴルドは語調を緩めて言った。
 「一口に転化と言っても色々ある。意識を保ったまま人からヴァンパイアへと移行する者もいれば、一度死を迎えてからヴァンパイアとして蘇る者もいる。後者の場合は、大きく人格が変化したり、記憶障害が出たりすることが多いんだ」
 「人格の変化に、記憶障害……」
 ぴよらっとは、桃子が変わってしまったという運命の日のことを思った。
 ある日を境に桃子は別人のようになったのだという。それは間違いなく、彼女と彼女を取り巻く者たちの運命を変えた日であったのだろう。その全ての原因が、名も知らぬ一人のヴァンパイアによって引き起こされたのだとしたら……。
 そうだとしたら……何だというのだろう?
 不意にぴよらっとは思考の壁にぶち当たった。
 その吸血鬼を探し出して、お願いするか、あるいはもっと恐ろしい手段を用いれば、それで桃子は元に戻るのだろうか? 仮に、それで都合よく元に戻ったとしても、自分にとっては今の桃子が『普通』であって、元に戻った桃子はもう、知らない別の誰かなのだ。別人のようになった彼女は、得体の知れないぴよらっとのことをどう思うだろうか? いや、そもそも、今の桃子が自分をどう思っているのかすら分かっていないのだが……。
 「だが、さっきも言った通り」
 ゴルドの力強い声が、ぴよらっとの泥沼の思考を断ち切った。ぴよらっとはそこで初めて、自分が思考の波に揉まれて溺れかかっていたことに気が付いた。
 ゴルドは何も気付かなかったように続けた。
 「さっきも言った通り、転化によってもたらされる身体的特徴にはほとんど例外がない。桃子ちゃんの瞳の色は、ヴァンパイアの特徴とは一致しないものだ。決めつけるのは早計という訳さ。しかし他の条件が揃い過ぎているのも事実だ。そこで」
 そう言って、ゴルドはぴよらっとに意味ありげな微笑を向けた。それだけでぴよらっとは、ゴルドが何を言いたいのか分かってしまった。
 「物江さんに会わせろと言うんですね」
 きっと何を言っても無駄なのだろうという諦めと、彼ならひょっとして事態を好転させてくれるのではないかという期待と、この男は面白そうなことには何でも首を突っ込むんだなあという呆れが入り交じった声でぴよらっとは言った。
 「グッド。だから僕は、君たちが好きなんだ」
 ゴルドは満面の笑みで残りのケーキを手に取り頬張った。

 ぴよらっとの目の前で、扉が音もなく開いていく。
 ぴよらっとが頭上を見上げると、影の中から突き出た腕がゆっくりと扉を開けているのだった。ぴよらっとが何か言おうとする前に、影は扉の隙間からするりと図書館の中へ入り込んでしまった。ぴよらっとは仕方なく後に続いた。
 「はじめまして図書委員長さん。僕はゴルド。友人たちからはゴルド卿と呼ばれています」
 ぴよらっとが図書館の中に入ると、既にゴルドは受付の桃子に話し掛けていた。初対面にしてはやや気安い調子だが、きちんと礼儀をわきまえていることが言葉の端々からうかがえる。うまいやり口だ。
 しかし桃子は、まるでゴルドがそこにいることに気付かないかのように、黙々とノートに何かを書き付けていた。
 「ええと、物江桃子さん? お仕事の邪魔をして申し訳ない。もしよかったら、それが終わった後にでも少し……」
 ぱたん、と、強くノートを閉じる音がゴルドの言葉を遮った。
 「図書館規則をご存知ありませんか。館内での不要な会話は禁止されています」
 桃子はゴルドに顔を向けず一方的にに言った。
 「それは失礼、なにぶんここに来るのは初めてなもので……。それなら、外でお話をしましょう。もちろんお仕事が終わった後でね。どうです?」
 ゴルドは桃子の冷たい態度を全く意に介さないかのように言った。
 しかし桃子は、千年の時を経た氷のような表情をほんの少しも崩さなかった。
 「……図書委員長には、規則を著しく逸脱した者の評価書に一文を添えられる権限があります。無駄に評価を落としたくなければ、これ以上私に話し掛けないことをお勧めします」
 無表情で淡々と語られる言葉は、その様子とは裏腹に苛烈な意味を含んでいた。
 評価書に自分の意見を書き加えられるということはつまり、やりようによっては、いわゆる青春と呼べる学生生活を消し飛ばすことさえ可能ということなのだ。
 これにはさすがのゴルドもぐっと言葉を飲み込んだ。
 手慣れている、と、離れた場所でそのやり取りを見ていたぴよらっとは思った。実際、こういった手合いの対処は初めてではないのだろう。桃子の容姿を鑑みれば、今までにこうして声を掛けて来た男子生徒は一人や二人ではなかったはずだ。
 桃子は美しい。
 他の女生徒と比べて派手さこそないものの、そのぶん浮世離れした魅力を秘めている。
 なめらかな白い肌は上質なミルクのようだし、整った顔立ちとバランスの取れた体つきは精巧な人形を思わせる。細く艶やかな黒髪は、夜の闇に染められた絹の川のようだ。眼鏡の奥に光る黒曜石のような瞳をじっと見つめていると、感受性の強い者なら一秒ごとに現実から遠ざかるような錯覚を覚えるだろう。
 そんな彼女が、今ではこうしてたった一人、静かな図書館の長として過ごしていられるのも、これまでにこなしてきた『仕事』の成果なのかもしれない。
 彼女は、ただ変質してしまった己に振り回されていただけではなく、自らの意志で強く他者を拒んできたのだ。
 ぴよらっとは、以前部長が言った『奇跡』という言葉の意味を改めて考えていた。
 不意にゴルドがぴよらっとの方を振り返った。顔には悪戯っぽい微笑が浮かんでいる。
 「僕は、友人の――」
 言いながらゴルドは、桃子からぴよらっとの姿が見えるように体をずらした。
 「ぴよらっと君の話を聞いて、あなたの助けになればと思い、会いに来たんです」
 その言葉に、桃子は初めてぴよらっとの存在に気が付いたようだった。ゴルドは、探るような視線で桃子の瞳を盗み見た。ぴよらっとは桃子に小さくお辞儀をした。一瞬、桃子の口元に力が込められたようだったが、すぐに元の無表情に戻った。
 「……図書館に用がないのであれば、お帰り下さい」
 か細い声だった。
 「それでは僕らは、この場所にふさわしい用事を済ませるとしましょう」
 桃子の明らかな変化を数秒観察したゴルドは、あっさりと身を引いた。
 「さあぴよらっと君、君は確か探していた本があっただろう。今日くらいは僕にも手伝わせてくれたまえ」
 芝居がかった調子で言うと、ゴルドはぴよらっとをひょいと片手で持ち上げて小脇に抱え、本棚の密林へと歩いていった。
 背中に確かな視線を感じながら、じたばたとささやかな抵抗をするぴよらっとの耳を空いた方の手で撫で付けながら。

 桃子は、ゴルドと名乗った長身の青年がぴよらっとと一緒に本棚の陰に消えるのを見届けてから、深く息を吸い込み、目を閉じた。
 そしてゆっくりと息を吐き切るまでの僅かな時間に、頭の中を廻る様々な映像や言葉の断片を繋ぎ合わせて、とてもとても短い夢を見た。
 桃子の心の中には、明確なものは何一つなかった。重い泥のような名も知らぬ感情が浮き沈みしているだけで、その意味を考えようとする度に思考が上滑りしていくばかりだった。
 ただ、渇いていた。
 意味を必要としない純粋な欲求が頭の中に渦巻いていた。それは桃子にとって、決して癒えることのない渇きだった。どうすれば満たされるのか、どうすれば忘れられるのかも分からず、ただ息を詰めて耐え続けるしかなかった。
 それはあの日から続く永遠の拷問だった。