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携帯らっと
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 モニターには、本棚の間で話す二人の姿が映っていた。声こそ聞こえてこないものの、気心の知れた親しげな雰囲気が伝わってくるようだ。
 桃子はその様子を眺めながら、重い石を飲み込んだような不可解な感情を持て余していた。
 やがて二人は思い思いの本を手に取り、受付のカウンターへと向かった。

 古城の学生寮。ゴルドとぴよらっとは、二人部屋の中央にある向かい合わせのソファーにそれぞれ身を沈めて、今日借りてきた本を黙々と読み耽っていた。地下の大食堂に夕食の準備が整うまで、今しばらく時間があるのだ。
 「……そろそろ話してくれませんか。結局、何か分かったんですか?」
 『人体のふしぎ〜骨〜』を読んでいたぴよらっとは、本の上からちょっと目を覗かせて言った。しかしゴルドは『山菜図鑑』を食い入るように見詰めたまま微動だにしない。
 「図書館で、『後で話す』って言ったきり、ずっと本読んでるだけじゃないですか」
 「後で話すとは言ったが、いつ話すかまでは指定していない……」
 「ゴルドさん」
 「おい、それよりぴよらっと、アケビって食べたことあるかい? なんとあれ、外側の皮も食べられるんだってさ! 今度採りに行こうぜ!」
 「ゴルドさん」
 「冗談だよぴよらっと。それと僕のことはゴルド卿と」
 「ゴルドさん」
 「……仕方ないな。君はあの子のことを本気で案じているんだな。少し妬けるよ」
 ゴルドは軽く苦笑し、読んでいた本を閉じてテーブルに置いた。
 「結論から言うと、彼女はヴァンパイアではない」
 両膝の上に肘を乗せ、組んだ手を顎の下に据えてゴルドは言った。
 「だが人間でもない」
 ぴよらっとは、昨夜桃子がヴァンパイアかもしれないと告げられた時ほどは驚かなかった。考えてみれば、昨夜もあんなに動揺することはなかったのだ。確かに、学校に通う者の多くは人間だが、『ごく普通の平凡な人間』は両手で数えられるほどしかいない。皆それぞれ何らかの事情を抱えている。何よりぴよらっと自身、人間ではない。学校の広い敷地内を一周すれば、明らかに人間とは異なる姿の学生を何人か見つけることができるだろう。彼らの通う学校はそういう場所なのだ。故に、桃子が人間ではなかったとしても、何ら不思議なことなどない……筈なのだが。
 「なんだ、思っていたより冷静なんだな」
 ゴルドは拍子抜けしたような顔で言った。
 「ぼくも人間ではありませんし。ぼくはぴよらっとです」
 「そりゃそうだな。そして僕は高貴なるヴァンパイアという訳だ。つまらないな、こんなことなら勿体ぶって焦らすんじゃなかったよ」
 もちろん、その言葉が本心ではないことをぴよらっとは承知していた。狼狽するぴよらっとを面白がるために出し惜しみしていたのではなく、真実はその逆なのだということを。
 「しかし、だとするとこれは、我々が口を出すべき問題じゃあないのかもしれない」
 ゴルドは神妙な面持ちで呟いた。ぴよらっともちょうど、同じ考えに至っていた。それは、桃子が元々『そういうもの』だった場合のことだ。
 例えば成長過程のある時期に身体的特徴や精神状態が別人のように変化する種族がいたとしたら。その変化を治そうとするのは正しいことだと言えるのだろうか?
 しかし、とぴよらっとは思った。桃子のことを色々と教えてくれた部長は、あの時何と言っただろう。桃子を救って欲しいと、桃子のことを託したいと、そう言ったのではなかったか。それに対して自分は何と答えたのか?
 ぴよらっとは、胸の奥から熱いものが湧き出てくるのを感じて身震いをした。
 「桃子さんは、笑ったんです。ぼくと話しながら。彼女は全てを拒絶している訳ではないと思うんです。それなら、ぼくは今までと同じように、自分にできることをするだけです。彼女の正体が何だって関係ありません」
 毅然としたぴよらっとの様子を見て、ゴルドは静かに微笑を向けた。
 「……そうか。そうだな。彼女の変化が自然なことであろうとなかろうと、一人ぼっちが寂しいのはきっと同じことだろう」
 何か思うところがあるのだろうか。心なしか、ゴルドの声は憂いを帯びているようだった。
 「しかしぴよらっと、これは君の小さな手には少しばかり余る問題かもしれないぞ。乗り掛かった船という言葉もある。僕にも手伝わせてくれないか」
 憂いの響きは一瞬。すぐにゴルドは、この世界全てを楽しむようないつもの調子に戻って言った。
 「でもゴルドさんは……」
 「なに、心配はいらない。僕は僕なりの方法で彼女について調べてみようと思う。迷惑はかけないさ」
 「……分かりました。よろしくお願いします」
 二人の会話が終わるのを待ちかねていたように、夕食の時間を告げる鐘の音が古城に鳴り響いた。

 数日が経過した。
 ぴよらっとは、毎日放課後の時間を図書館で過ごすようにしていた。桃子と話す日もあれば、話さない日もあった。しかし、一日たりとも桃子が受付に座っていない日はなかった。
 ゴルドは、よく本を借りてくるようになった。主に食べ物の本ばかりだったが。
 「不思議なことが分かったよ。この間、昼間に授業を抜け出して図書館に行ってみたら、いつもと同じように桃子ちゃんがいたんだ。それから色々時間をずらして試してみたんだけど、いつ行っても必ず彼女がいるんだよ。他の委員の姿は一度も見なかった。何人かの先生に聞いてみたんだけど、皆、知らないとかよく分からないとか、はっきりしないんだ」
 数日間の成果をぴよらっとに報告するゴルドの顔は、まるで魚釣りに興じる少年のようだった。

 ある日の午後。
 赤い光に包まれた道をゴルドは歩いていた。道と言っても舗装された道路ではなく、どちらかと言えば獣道に近いものだ。むき出しの地面には背の低い雑草が点々と生えている。黒い細身のスーツに深紅のシャツという派手なゴルドの出で立ちも、この殺風景にはミスマッチだった。
 見渡すと、所々に、赤い葉をつけた桜の木とベンチが配置されている。ちょっとした公園のようでもあるが、遊具も噴水も見当たらない。どこか空虚な、見せかけだけのような風景である。
 辺りは静寂に包まれている。彼の他には誰もいない。今はまだ授業時間中なのだ。
 この学校の敷地は無駄に広く、目指す図書館は本校舎からだいぶ離れた場所にある。もうしばらく歩かなければならない。夕暮れ時よりは薄いものの、それでも隙間なく辺りを染めつくす赤い光に、ゴルドはこっそり顔をしかめた。
 「ゴルド卿とお見受けしますが」
 不意に声が響いた。女の声だ。ゴルドは一瞬で表情を戻し、声が聞こえた方を振り返った。一本の木の影から半身だけを覗かせて、女生徒が立っていた。背は少し高め。汎用的なタイプの制服に紺のカーディガンを羽織っている。髪は後ろでまとめられており、眼鏡をかけている。
 ゴルドは知る由もなかったが、彼女は、ぴよらっとが図書館で会った三人組の少女たちの一人、歴史編纂部の新入部員であった。
 「いかにも、僕がゴルド卿ですが……はて。貴女のような美しい女性のことを忘れる筈はないんだがなあ」
 「私は知っていて、あなたは知らない。ただそれだけのことです」
 少女は木の影から数歩進み出た。全身が赤い光に晒される。ふと見ると、隠れていた方の手には、木刀のようなものが握られていた。

 「……正義のため、斬らせていただきます」