ripsh


携帯らっと
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 ゴルドは、娘の我儘を聞く父親のような表情で肩をすくめた。
 少女が手にしているものは、遠目で見るとただの木刀のようだった。修学旅行土産の定番、子供の喧嘩で使われるおもちゃ……そんなものは、この学校では何の役にも立たない。
 しかし、一歩、また一歩と少女が近付いてくるうちに、ゴルドは、その木刀の表面に細かな装飾が施されていることに気が付いた。更に距離が縮まると、その詳細がはっきりと見て取れるようになった。木刀の表面には、古代文字で書かれた得体の知れない呪文や極小の魔方陣、ルーン文字、漢字の経文や曼陀羅のような模様など、ありとあらゆる魔除けや神秘の類をごった煮にしたようなものが、全て銀で埋め込まれているのだった。一目見ただけでは分からないが、木刀の素材も普通ではなかった。樹齢数千年を超える神木から削り出した刀身に魔術的処理を施して、木の細胞の隅々にまで鋼鉄の芯を張り巡らせてあるのだ。
 そのおぞましくも滑稽な凶器を前に、ゴルドは思わず笑い出してしまった。
 「魔物狩りでも始めるつもりですか、お嬢さん」
 ゴルドは笑いを隠そうともせずに言った。冗談としか思えなかったのだ。
 しかし少女は怒るでもなく真剣な面持ちで、
 「それが必要であれば」
 と答えた。ゴルドは笑うのをやめた。少女に対する認識を改める必要があるかもしれないと思った。
 「よければ、お名前を教えていただけませんか」
 少女は訝るような目でゴルドを見た。
 「僕の名前は……ご存知でしたね。まあ縁というものは、どこでどう繋がっているか分からないものですからね」
 「……ミカ、と呼ばれています」
 少女は、少し考えるような間を置いてから答えた。ゴルドは心の中で、どうやら自分の予想は正しかったようだ、と思った。この少女には、自分で自分に課せたルールのようなものがあるらしい。一度斬ると宣言したのであれば、その後も続けて会話をする必要などない筈なのに、律儀に質問に答えている。いや、そもそも、最初から呼び止めなどせずに、不意討ちをすれば良かったのだ。それをしなかったということは、よほど腕に自信があるか、あるいは呼び止めなければならないルールがあったということか。
 ゴルドは、もう少し会話を引き延ばしてみることにした。
 「では親しみを込めて、ミカと呼ばせてもらっても?」
 「お好きにどうぞ」
 「では……ミカ。単純な疑問が一つあるんだけど、どうして僕を斬ろうということになったんだい?」
 「あなたは吸血鬼なんでしょう」
 「いかにも。でも人間は襲わないよ」
 「実際のところがどうなのかは、問題ではないんです。吸血鬼を自称している者が、最近、一人の少女に頻繁に接触している。その事実が広まることが、私の正義に反するんです」
 「正義」
 「ええ」
 「君は正義の味方?」
 「味方ではありません。あえて言うなら従者、あるいはしもべです」
 なるほど、とゴルドは思った。この少女は、正義を信仰しているのだ。
 「しかしこの学校では異形と人間の恋愛なんて珍しくはないと思うんだけど、ミカ、君はそれを片っ端から壊そうっていうのかい?」
 「あなたの場合は違うでしょう。それに、私もそんなことをするつもりはありません」
 「それにしても、だ。ここには僕より厄介なのがいくらでもいると思うんだけど」
 「あなたが近付こうとしている物江さんは、私の知り合いの知り合いなので」
 「だから優先度が高い?」
 「……そう考えてもらっても構いません」
 「おもしろい正義だ」
 「むしろ一般的だと思いますけど。個人が持てる正義の射程距離はとても短いものです。――例えばこの程度」
 言って、ミカは木刀を両手で持ち、正眼に構えた。
 「私は、この短い距離の中でしか正義を行えません。……誰かを救うことも同じ」
 ゴルドは何も言わなかった。ミカの言葉が、ミカ自身のことではなく、ゴルドのことを言っているような気がしたのだ。
 もしかしたらこの少女は、あえて無駄なお喋りに付き合ってくれたのかもしれない、とゴルドは思った。
 「おとなしく手を引けなどと言うつもりはありません」
 ゴルドが思考に耽っている間に、ミカは木刀を低く構え直していた。
 「まあ僕も手を引くつもりはないが……しかし彼女には絶対に危害を加えないと誓おう。それでも見逃してはくれないかな?」
 「残念ながら。私の正義を遂行するには、こうするしかないんですよ」
 言い終わるが早いか、ミカは前方に大きく踏み出し、片手で木刀を突き出すように飛ばした。
 それは、ゴルドにとっては完全に予想外の攻撃だった。予想外というよりも、ミカによってあらかじめ予想から外されていたと言うべきか。先ほどの会話の中で、ミカは木刀を構えて見せた。まっすぐ伸ばした腕の長さに木刀の長さを足した距離。ゴルドは、それがミカの攻撃範囲なのだと、無意識のうちに思い込まされていたのだ。
 意識の外からの強襲。しかしゴルドは、寸でのところで体を捻り、これを躱した。
 ミカは、初手が外れたと見るや、間髪入れず左手に仕込んでいたものを弾き飛ばした。しかしその挙動をしっかりと見て捉えていたゴルドは、瞬時に身を屈め、頭上を掠めたものの正体を片目で追った。それは、銀でメッキされたベアリングの玉のようなものだった。
 ご丁寧なことだ、とゴルドは思った。銀は、人狼や吸血鬼などに対して強烈な殺傷力をもつ。もっとも、今のが銀であろうとなかろうと、あんな速度で弾丸を撃ち込まれたら、大抵の生物は重症を免れないだろうが。
 ミカは人間離れしたスピードで距離を詰めてきていた。見えない紐を引っ張るように右腕を動かすと、ゴルドの背後に飛んで行った筈の木刀が、ビデオの逆回しのようにミカの手元に戻ってきた。ミカは両手で木刀を掴み取ると、屈んだ体勢のゴルドに向けて打ち下ろした。ゴルドは、縮んだバネが伸びるかのような勢いで後方に跳躍した。両者の間に大きく距離が開いた。
 直後、腹に響くような衝撃が空気を震わせた。空振りしたミカの木刀が地面をえぐり、小さなクレーターを作ったのだ。それは明らかに人間技ではなかった。先ほど銃弾さながらに飛ばしてみせた銀の弾丸といい、十中八九、魔術か何かで肉体を強化しているに違いなかった。
 ゴルドが体勢を立て直すまでの僅かな時間に、ミカは肉食獣じみたスピードで地面を疾走してきていた。木刀を持った右手を体の斜め後ろに控えさせ、左手をゆるく開いて正面に突き出している。今度は銀の弾丸は握り込まれてはいないようだった。ならばこの左手は、目隠しの役割か。視界の一部を遮り、その虚を突く手かも知れない。そう判断したゴルドは、嫌でも目につく左手を意識から追い出し、後ろに見え隠れする木刀の動きに集中しようとした。
 が、その直後。
 ゴルドは無意識に一歩後ずさっていた。
 今まさに意識から外そうと決めた筈の左手から目が離せなくなっていた。
 迫り来るミカの左手は緩く握られていた。その手の中には何も無い。
 しかしその延長線上に、何か不吉なものをゴルドは感じていた。
 ミカはまるで指揮棒を振るうかのように、小さく左手を動かした。ゴルドの上着のボタンが真っ二つになって飛んだ。服の繊維が音もなく切断された。一瞬前まで体があった空間が、不可視の斬撃によって両断される様をゴルドは確かに見てとった。
 ミカは続けざまに右手の木刀を降り下ろしていた。最初はブラフの役割だった右手の木刀が、左手の不可視の斬撃が避けられた途端に本命へと変化する。息をつく暇もない連撃。
 ゴルドはこれらを全て回避するのは不可能と判断し、木刀を左手で受け流した。ジュッという、焼けた鍋に水を落としたような音と共に、煙が立ち上った。
 不可視の斬撃を再度食らわせようと動くミカの左手をゴルドの右手が掴んだ。木刀を持つ右手首は、未だ煙を上げているゴルドの左手によって押さえられた。
 既に人間の域を外れるほどに強化されている筈のミカの腕は、しかし、セメントで固められたかのようにぴくりとも動かなかった。
 「……やはり本物だったんですね」
 煙を上げるゴルドの手を見ながら、ミカは言った。
 「最初からそう言っているんだけどな」
 ゴルドは苦笑した。
 「どうして反撃しないんですか?」
 「する暇がなかっただけさ」
 ミカは拘束されている自分の両手を当て付けるように見てから、ゴルドを睨んだ。
 「あなたは嘘つきです」
 「いいや、ヴァンパイアは嘘をつかないことで有名でね」
 「……それなら、私も覚悟を決めましょう」
 不意にミカの腕から力が抜けた。
 ゴルドは、先ほど不可視の斬撃を受けた時に似た、不吉な雰囲気を感じ取った。恐らくミカは、これから何か取り返しの付かないようなことをするつもりだ。これ以上ミカの相手をするのであれば、自分も全力を出さないと危険かもしれない。しかし、その場合、果たしてミカを傷つけずに終わらせられるだろうか。
 二人の間に、これまでにない緊張が走った。それは急速に高まり、いつ弾けてもおかしくないほどに張り詰めていった。しかし。
 「やめるんだ!」
 これから燃え上がろうとする二人に水をかけるかのような仲裁の声が響いた。
 絶妙のタイミングに、二人の間で張り詰めていた空気が一瞬弛緩した。ゴルドとミカは思わず声が聞こえた方向を見た。
 そこには、ぴよらっとと、彼より少し背が高い程度の小さな女の子が立っていた。