アパートに帰ると、扉の鍵が開いていた。  玄関には茶色のブーツが脱ぎ散らかしてある。  ここは六畳一間の安い部屋だ。扉を開ければ部屋の奥まで見通せる。  その女性はこちらに背を向けて、ちゃぶ台にもたれかかるようにして座っていた。 「お姉さん、来るなら事前に言ってくれれば用意しましたのに」  ぼくが声をかけると、女性はゆっくりとこちらを振り返った。丸いシルエットの茶色いショートヘア。斜めに切り揃えられた前髪がさらりと揺れる。  ちゃぶ台の上にはいくつもの瓶や缶が並んでいた。既にずいぶん飲んでいるらしい。  ぼくは彼女のことを『お姉さん』と呼んでいる。本名は知らない。 「だってあんた電話持ってないじゃん」 「手紙を下さいよ」 「やだよ、面倒くさい」  お姉さんは僕の恩人だ。この街で路頭に迷っていたぼくを拾ってくれた。このアパートもお姉さんが探してくれたものだ。 「仕事帰り? 例のバイト続いてるん?」 「いえ、あれはクビになってしまいました。今はスーパーで働いています」 「そうかー。でもま、元気そうでなによりだよ」 「お姉さんのおかげです。本当に」 「よせやい」  ぼくはヤカンを火にかけて、お姉さんの向かい側に腰を下ろした。 「どこ座ってんの。こっちこっち」 「飲み過ぎじゃないですか? 大丈夫ですか?」 「いいからほれ」  お姉さんは強引にぼくを持ち上げると自分の膝の上に乗せた。  お姉さんがたまにこの家に来ると、ぼくはいつも同じ指定席に座らされる。 「この部屋なーんもないから寒くてさ」  言われてみれば、お姉さんは革のジャケットを羽織ったままだった。ぼくはあまり気にならないけど、確かにこの部屋でじっとしていたらかなり寒いのかも知れない。 「すみません」 「いーってことよ。勝手に来てんだ」  ポン、と新たな瓶が開封される音。グラスは近所で買ったものらしく、しわくちゃになった新聞紙がそこら辺に転がっている。  畳の上を目で追っていると、ピンク色の旅行カバンと黒いケースが部屋の隅に置かれているのを見つけた。 「今日帰って来たんですか?」 「いんや。今日帰るところさ」 「?」 「この街から他所の街へ帰るって話。この街に来たのは昨日だけど、別に大した用事があった訳じゃないんだ」 「ゆっくりしていかないんですか?」 「あまり長くいたくないのよ」 「そうなんですか。でもこの街はあなたの生まれた街でしょう?」 「言ってなかったかね」  お姉さんはポケットから古びた音楽プレイヤーを取り出した。 「年季が入っていますね。傷だらけだ」 「弟のやつなんだ。あいつにゃもったいないから貰ってやった」  いつもお姉さんが身に着けているものや買ってくるものはとても質の高いものばかりだったから、その傷だらけの音楽プレイヤーはあまりにも不似合いだった。  それなのにどうしてお姉さんはそんなものを持ち歩いているのか。ぼくはなんとなく察してしまった。 「やっぱりあんたは鋭いね。弟の遺品さ」  そう言ってお姉さんは片方のイヤホンを自分の耳にいれて、再生ボタンを押した。 「列車の事故でね。まあどうしようもなかった。あいつが見つかった時もこうして片方だけぶら下げててね。ずっと再生されてたんだ。あいつ、死ぬ間際も、死んだ後もこれを聞いてたんだぜ。なぜか妙に感心しちゃったよ。聞くかい?」  お姉さんが差し出してくれたもう片方のイヤホンをぼくは自分の耳に当てた。  なんだか加工されたような女の子の声と、せわしない電子音。聞いたことのない感じの曲だった。 「笑えるだろ。これまるまる全部こんな感じの電波曲が入ってんの。あいつ昔から変なものが好きだったけど、こりゃねーよな。自分の中で整理つけようって厳かな気持ちで再生ボタンを押した時の私の緊張を返せってね」  そんなことを言いながらも、お姉さんは目を閉じてハミングしていた。 「とても公の場じゃ流せないような曲ばっかだけど、サビとか結構いいの多いんだぜ」 「ぼくは音楽はよくわからないけど、これはいい曲だと思います」 「だろー?」  お姉さんは少し寂しそうな目でぼくを見ながら、笑った。 「……移動中とか、何か乗り物に乗ってる時はこれ聞いてないと不安なんだ。置いていかれそうな気がしてさ。私も……」  ヤカンの笛の音が鳴り響いた。  ぼくは慌ててお姉さんの膝の上から抜け出して、火を止めた。 「お茶、淹れますから。水分もちゃんと摂ってくださいね」 「いいね。あったかいお茶割りもアリだ」 「もう……」  それきり、音楽プレイヤーの話は途切れてしまった。  ぼくはちらりと部屋の隅の黒いケースを見た。  いつだったか、商店街の電気屋さんのテレビに、お姉さんが映っていたのを思い出す。  その時のお姉さんはきらびやかなライトに照らされながら大勢の人に囲まれていた。あの黒いケースの中身は確か、楽器だったと思う。 「さて……それじゃそろそろ行くよ」  何をするでもなく時間は流れ、未開封の飲み物がすっかりなくなってからお姉さんは腰を上げた。 「次はいつ戻ってきますか?」 「あんたがいい子にしてたらいつだって戻ってくるよ」 「手紙、くださいね」 「そりゃ無理だ」  ひらひらと手を振りながら、お姉さんは出ていった。 「あ、そうだ」  見送っていたお姉さんの足がピタリと止まる。 「カネ、いつものところにあるからさ。好きなだけ持ってけ」 「……ありがとうございます」 「ったく。なんで一度も手ぇ付けないかね。遠慮すんなよ」 「それは、ぼくが」 「わかってるよ。あんたが、ぴよらっとだからだろ」 「はい。ぼくは、ぴよらっとですから」 「へへ」 「ずっと待ってますから」 「おう。またな」  そうして今度こそ、お姉さんは立ち止まらずに行ってしまった。  空から雪がひとつ落ちてきた。