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村松くんvs美少女




「対象が部屋の扉を開けた時点から試験開始とする。手段は問わないが、場所は学校敷地内に限定する。期限は一週間。それまでに対象を殺害、もしくは再起不可能にすれば合格だ。以上」

 保健室のベッドで青年は目を覚ました。
 半分開いた窓から入る暖かい風が、まとめられたカーテンを少しだけ揺らす。よく晴れた午後。
 とても静かだ。
「あ、起きた」
 青年が起き上がると、隣のベッドに腰かけた眼鏡の少女が嬉しそうに声を上げた。
「もう、村松くん、案内の途中でいなくなるから焦ったよー。転校初日から保健室でサボりとか、どんだけマイペースなんだよう」
 村松と呼ばれた青年は少女に怪訝な表情を向けた。
「村松くん……寝ぼけてる? まさか、私のこと覚えてないーとか……」
 村松は何も答えない。
「嘘でしょー……ちょっと前に自己紹介したばっかなのに……はあ、まあいいや。私は、クツキ ハカリ。転校生に色々教える係に任命されちゃったんだよ」
 言いながら少女は携帯端末を取り出して『九月 秤理』と表示された画面を村松に向けた。
「今日中に全部案内しないといけないんだから、もう急にどこか行ったりしないでよね」
 村松は無言でベッドから下りると、保健室の扉に向けて歩き始めた。
「もー、愛想悪いなあ」
 秤理はパタパタと足音を立てながらその後を追った。

 保健室がある本館の向かいに建つ三号館。伊勢はその空き部屋のひとつに潜んでいた。
(ふーん、あれが村松ね)
 本館との距離は約二百メートル。しかし、わずかに開いた窓から突き出る銃身に乗ったスコープは、その距離を限りなく無意味にしていた。
 拡大された視界の中で、ターゲット……村松が保健室の扉に近付く。
(扉を開けたらスタートねえ。ったく、あいつが起きてからもう二十回は殺してるわ。ヌル過ぎんのよ)
 心の中で悪態をつきながらも、伊勢の体は精密機械のように動いていた。
 村松の手が扉にかかる。その動きとシンクロするように、伊勢の指が引き金に触れる。スコープの照準は村松の体の中心に定められている。
 このライフルに装填された弾丸は、彼女の《特権》により、この世のどんな防弾装備をも無効化するだけの威力を得ていた。仮に命中しなかったとしても、保健室の半分くらいは軽く吹き飛ぶだろう。
(さん……にい……いち……)
 今まさに扉が開こうとした時、突然村松の動きが止まった。
(……チッ、なに……?)
 村松は扉から離れて近くの事務机に向かった。
 養護教諭用の机の上には、小型のモニターと書類などが乗っている。
 村松はその机の上から何かを掴み取った。
(なにあれ……クマ?)
 動物型の文鎮を手に取った村松は、何気ない動作でそれを窓に向けて放り投げた。
(うわっ!)
 伊勢は思わず床に尻餅をついてから、己の間抜けぶりに顔をしかめた。
 まるですぐ近くから自分に向けて物を投げられたかのように感じてしまったのだが、それはスコープ越しに見ていたからだ。実際は二百メートル近くも離れているのだから、届くはずがない。
 直後、シュッという突風めいた音とともにスコープが弾け飛んだ。
 村松が投げた文鎮は――信じられないことに二百メートルもの距離を一瞬で飛び越え、わずかに開いた三号館の窓の隙間をくぐり、直前まで伊勢の頭があった空間を貫いたのだった。
 さらに勢い余った文鎮はそのまま部屋の奥の壁に衝突し、鉄筋を何本かひしゃげさせてようやく止まった。
(な……ちょっ、開始前に攻撃された場合はどうなんのよ!?)
 追撃を避けるために大慌てで部屋から撤退する。
 しかし、伊勢の顔には本人ですら自覚し得ない笑みが浮かんでいた。

「ええええ!? むっ村松くん何やってるの!?」
 いきなり文鎮を窓から放り投げるという村松の奇行を秤理がとがめたのも無理はない。
 しかし村松は小鳥のように騒がしい秤理を無視して保健室から外に出た。
「あっ、待って待って! 私が案内するんだから」
 慌てて後を追う秤理。だが、保健室を出てすぐの場所に村松は立ち止まっていた。秤理は勢いを止められず村松の背中に顔を埋めた。
「わっ、ごめ……もう、廊下の真ん中で……」
 秤理の視界に、村松の前に立ちはだかる少女の姿が飛び込んできた。
 その少女はかなり背が高く、小柄な秤理と比べると大人と子供ほどに差がある。赤みがかったセミロングの髪は先端がごく緩やかな縦ロールになっており、艶やかに輝いている。体型と髪型、そしてどこか高潔さを感じさせるくっきりとした目鼻立ちが、見事な調和を奏でていた。秤理のように、太いフレームの眼鏡でバランスの悪さをごまかしているような平凡な顔とは比べるべくもない。
「あら……」
「あっ」
 美しい褐色の瞳に捉えられた秤理は、まるで肉食獣に睨まれたウサギのように固まり、おどおどと視線を泳がせた。
「あなた、九月さん、だったかしら。こんなところで何してるの?」
「あっ、こ、こんにちは。えっと私、村松くんに……今日転校してきた彼に学校の案内をしているんです」
「ふうん……」
 少女は興味なさげに秤理の顔から視線を外した。そして村松の全身をじろじろと舐め回すように見つめてから、不敵に笑った。
「あなたが村松くんね。私はカザナと申します。よろしくね」
 差し出された右手を村松はちらりと見たが、その手を握り返すことはしなかった。
「まあ……いいわ。ではまたお会いしましょう」
 最後に少しだけ刺のある視線を村松に向けると、少女……カザナは去っていった。
「ねえ……いきなりあの人に話しかけられるなんて、村松くん何かしたの?」
 村松の背中に隠れるようにしていた秤理が、まだ少し緊張の抜けない声で言った。
「……あれは何だ」
 まるで初めてそこに人間がいたことに気付いたかのように、村松は秤理に問いかけた。
「あ、やっぱ分かっちゃう? カザナさんはね、《美少女》なんだよ。あっ、言葉通りの意味でももちろんあるんだけど、それだけじゃないんだ。村松くんも感じたでしょ? 顔を合わせただけでわーっと来る、なんていうか……威圧感みたいな? 《美少女》は綺麗なだけじゃなくて、それぞれが《特権》を持ってるの。《特権》ていうのは、普通じゃ考えられないようなものすごい力のことなんだよ。ただ綺麗なだけの人と《美少女》は全然違うんだ。だから、村松くんも気を付けた方がいいよ」
 秤理はやっと村松が自分に話しかけてくれたことが嬉しくて仕方ない様子で饒舌に説明をしていたが、最後の方は本気で村松を心配しているようだった。
「それはあいつだけか」
「この学校には二人いるんだよ。さっきのカザナさんと、もうひとりは伊勢さんっていう人。伊勢さんは最近ほとんど見かけないけど……」
「そいつはどんな奴だ」
「伊勢さん? 綺麗な人だよー。って、《美少女》だから当たり前なんだけど……そうだなあ、長い黒髪で、背はカザナさんよりは低いけど結構高くて、さっぱりした性格で時々乱暴な言葉づかいになるんだけどそれがまた見た目とのギャップでドキドキしちゃうんだよねー……」
「そんなことはどうでもいい」
 村松は夢見るような惚けた表情の秤理を、まるで部屋の角に溜まった綿埃を見るような目で見ながら言った。
「そいつの《特権》を教えろと言っている」
「え? 知らないよ?」
「……さっきの女の《特権》は」
「知らないよう」
「……」
 村松は秤理を産業廃棄物の汚泥か何かを見るような目で見てからさっさと歩き始めた。
「ちょっと待ってよー。だって一般生徒の私が知るわけないじゃんかさー。《特権》はすごい力なんだよ? それを使うってことは一大事だよ? 死人に口なしなんだよ?」
「……《特権》は何かを攻撃するためのものなのか?」
 村松はぴたりと歩みを止めた。
「うえ? うーん、昔この学校がピンチになった時に《美少女》が救ってくれたっていう伝説が先輩たちから語り継がれてて……そのせいで《特権》と言えば悪を成敗するスゴイ技ー! みたいなイメージがついちゃったのかも知れないけど……そっかー、別に攻撃するだけとは限らないのかなー」
「……」
 再び歩き出そうとする村松の腕を、秤理がガッシと掴んだ。
「だからー、村松くんどこに何があるか知らないでしょー。ひとりでどこ行く気なんだよう」
 その問いに答えるかのように、村松の腹から豪快な音が鳴った。
「あ……そういえば村松くんお昼時間もサボって寝てたんだもんね。よーし、最初の案内は学食だよー!」
 ぐいぐいと腕を引っ張る秤理に任せて、村松は無表情のまま歩き始めた。

 翌日の放課後。
 秤理と村松は二号館とグラウンドの間にある坂道を下っていた。
「村松くん、今日もサボったでしょー。って、もう、どこに行くんだよう」
 何度目の同じ問いになるだろうか。村松はずっと秤理の言葉を無視して歩いていたが、しばらくしてふと思いついたように答えた。
「昨日の女を探している。居場所を知っているか」
「昨日の……って、まさかカザナさん!? や、やめた方がいいよー……」
「知っているんだな」
「えー……」
「教えろ」
「あ、会ってどうするのさ?」
「無理やり喋らせてもいいんだが」
「わ、わかった、言うよ、言うってば! だからそんな怖い目で見ないで!」
「……」
「カザナさんは天文学部だから……たぶん部室か本館の屋上……かなあ」
「部室が近いな」
 必要なことだけ聞き出すと、村松は秤理を置き去りにしてグラウンドの向こうにある部室棟へと足を向けた。
「わ、私も行く! 村松くん係を任されてるんだから!」
 悲壮な決意をしたような顔で、秤理は村松の後を追って走りだした。

 天文学部の部室は文化部棟の一階にあった。ガチャガチャとドアノブを回すが扉は開かない。中に人の気配はないようだった。
「なーんだ、留守みたいだね」
 部室の前、十メートル程の距離に植えられている植栽の陰から顔をのぞかせながら、あからさまにホッとしたような声で秤理は言った。
「そうだ、せっかくだから部活棟の案内もしてあげよっか。村松くんはなに部に入る? 私はねー……」
 秤理が無防備にひょこひょこと歩き始めた刹那、村松が勢いよく振り返ったかと思うと、その背後で部室棟が半壊した。
「え?」
 少し遅れて轟音と衝撃が周囲に拡散し、秤理は突風に煽られたヒヨコの如くころころと地面を転がった。
 村松は至近距離で起きた爆発をものともせず、じっとある一点を見つめていた。それは坂の上、高く遠くに見える二号館の屋上だった。

(うっそでしょ! なんで今のが外れるの!?)
 伊勢はなめらかな動作で次弾を装填しながらスコープの中の村松を凝視した。
 村松の視線は間違いなくこちらに向けられている。まるで息遣いすら掌握されているような錯覚。
 照準に間違いはない。すぐに引き金を引き絞る。
 瞬間、村松の斜め後ろに大きな土煙が上がった。
(まさか……素手で、弾丸の軌道を逸らした……とか……?)
 伊勢の弾丸は基本的にどんな手段を用いても正面から受け止めることはできない。そこに物理的な法則を見出す意味はなく、ただそれは《特権》によって『そういうもの』になっている。殺傷力だけを極限まで高め、具現化した殺意。しかし、当たらなければ――そしてその余波に耐えうることができるならば――単純に弾丸を避けるか、あるいは逸らすだけで、伊勢の攻撃は簡単に無効化される。まさか実際にそんな芸当をやってのける者がいるとは、彼女自身想定していなかったのだが。
 信じられない事態を目の当たりにしながらも、彼女の手は半ば自動的に次弾を装填する。
 伊勢はこれまでターゲットを攻撃する際に、次弾のリロードを必要とすることはなかった。狙えば当たる。当たれば死ぬ。何らかのアクシデントで当たらなかったとしても、その周囲に着弾すれば爆発に巻き込まれて相手は死ぬ。
 それでも伊勢はリロードの訓練を欠かさなかった。それは伊勢にとって、食事に使った食器を洗うのと同じくらい当然のことだったからだ。
 伊勢の《特権》は自らの手で弾丸を装填することで発動するため、ライフルを使う場合は必然的にボルトアクション方式のものを選ばざるを得なかった。伊勢は、せめてこれがオートマチックであったならば二度もチャンスを逃したりはしなかっただろうかと考えかけて、やめた。
 斜め上方、フェンスの上に、村松が立っていた。
「……どーも」
 伊勢は脇にあったショットガンを掴み取ると同時に二発撃った。
 散弾のひとつひとつに伊勢の《特権》が備わり、空に死の網が展開される。
 フェンスの大部分が散弾の煽りを受けて融解した。
(これでやったとは思えないけどっ……)
 伊勢は融け消えたフェンスの隙間から空中へと身を躍らせた。上空に散弾を回避する村松の姿が見える。やはり、それも当たらないのか。
 半ば自嘲的な笑みを浮かべつつ、伊勢は懐からハンドガンを取り出して構えた。村松が建物の壁を蹴りながら、落下する伊勢を追ってくる。窓枠に足をかけ、配管に手をかけ、ぐんぐんと加速し、伊勢の自由落下に喰らいつかんとする。
(やっぱ追いかけて来たか……馬鹿だな、このまま放っておけば私は勝手に落ちて死ぬってのにさ!)
 伊勢の《特権》は《殺意の具現》。純粋に殺すことだけに特化した彼女は、それ以外の部分では普通の人間と何ら変わりはない。つまり彼女は、うっかり転んで頭の打ちどころが悪かっただけで死ぬ、ごく普通の人間なのだ。つまり屋上から飛び降りた時点で、伊勢の死は確定していた。
 伊勢は笑っていた。
 彼女は、ただ人を殺すことだけに喜びを見出した人間だった。そして欲望のおもむくままに殺し続けた結果、いつしかその殺しすらも無機質でつまらないものと感じるようになってしまった。彼女は絶望していた。もうこれで終わりなのか。これ以上この世界には何もないのか。
 そんな折、ある人物から誘われた『試験』に彼女はほんの少しだけ興味を抱いた。
「君でも殺せないかも知れない」
 じゃあ殺したら何をくれる?
 その問いかけに、相手は、「更なる地獄へと挑戦する権利を」と答えた。
 意味が分からない。伊勢が言うと、相手は静かに笑った。
「地獄には鬼がいる。そいつを殺せば、君はもう一生誰も殺さなくてもいいと思えるほどの喜びを得ることができる。そんな相手が山ほどいる。そういった場所だ」
 面白い、と伊勢は思った。嘘でも、喩え話でも、なんでも良かった。ただ興味をひかれた。希望が生まれた。もう、味のしない紙を食うような殺しはしたくなかった。
 そして伊勢は、今まさに自らの命の灯火を風前に晒しながら、笑っていた。
(これで試験だって?)
 久しく忘れていた命をかけたやり取りが、彼女の心をみずみずしく蘇らせ、幸福へと導いていた。
(あーあ、合格したらどれだけ楽しかったんだろうなぁ)
 眼前に村松の手が迫っていた。
(だけど――)
 伊勢は銃の引き金を引いた。至近距離ですら、この男なら弾丸を逸らして見せるだろう。しかし。
 ジャキン、ジャキン、という軽い音と共に、二発の弾丸が躍り出た。そして弾丸は空中で分解し、数百の鉛弾へと姿を変えた。
 ショットシェル。ハンドガンから散弾を撃ち出せるという珍しい弾丸だ。本来は小動物を撃つためのものであるため威力は弱いが、今は当然ながらその散弾ひとつひとつに、伊勢の《特権》が付与されている。
 防御は不可能。至近距離。落下中のため急激な回避運動は不可能。
(まあ、結構楽しかったわ)
 低い衝突音とともに二人は地面に到達した。
 下は花壇であったため、土煙が巻き起こる。
 ゆっくりと、村松は立ち上がった。ぺっと口から土くれを吐き出す。
 村松の全身には細かい銃創が無数に刻まれていたが、その全てが貫通しており、重篤なダメージは負っていなかった。
 数百の死の弾丸が村松を襲おうとした時、彼は鉛の粒が拡散する前にその一塊を後方へと受け流し、更に伊勢の体を自分に密着するほど引き寄せたのだった。
 二発目の散弾を完全に回避することは不可能だった。その小さな粒の一発でも当たれば終わり。だが、もしもその瞬間、《特権》の使用者自身がターゲットと同じ位置にいたとしたら。
 それは大きな賭けだった。そして村松は賭けに勝った。伊勢自身が目標に近すぎたため《特権》は発動せず、散弾は村松の体内に侵入しても爆発しなかったのだ。
 殺意の《特権》で自分自身を撃つとどうなるのか。それを、伊勢はその瞬間まで知らなかった。
(なんだ……簡単に飛び降りたくせに、本当は私、死にたくなかったのかな……)
 伊勢の心の中の問いかけに答えるものはもう、誰もいなかった。

「び、病院。病院に行かないと」
 最初の爆風に目を回しながらも、派手な音が響いていた二号館にどうにか駆けつけた秤理は、そこで血と土にまみれた村松と伊勢の姿を見てぺたりと地面に座り込んでしまった。
「必要ない」
「でも、でも、すごい怪我。お、落ちたの? 事故?」
 秤理は腰を抜かしながらも村松の近くまでずるずると這って来た。
「それ……伊勢さん……? う、動かないよ……? あ、救急車……呼ばないと」
「必要ない」
「だって」
「もう必要ないんだ」
「だって……」
 秤理は村松の手にそっと触れた。
「こんなに怪我してる……どうして……」
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃないよ!」
「よく見ろ」
 村松は面倒くさそうに袖を捲った。
 無数の切り傷や銃創が、目で見て分かるほどの速度で治癒していく。
「うー……うえぇ……」
 次々に目の前で起きる衝撃的な出来事を受け止めるためのキャパシティがついにオーバーしたのか、秤理はぽろぽろと涙をこぼしながら村松の腕にすがりついた。
 村松は秤理を引き剥がそうとしたが、予想以上に強く掴まれていることと、先の戦闘で負ったダメージを回復することを優先するべきだという思考が重なり、しばらくその場に座り込んでいた。
 日が傾き、オレンジ色の光が雲を染め上げていく。反対側の空からは夜が迫ってきていた。

 本館の屋上には、長期間にわたって風雨にさらされ続けているらしい椅子やテーブルがいくつか並んでいた。
 かつて学食のテラス席に使われていたそれらを新しいものへと交換する際のどさくさに紛れて、悪戯者の先輩たちがその一部を屋上に運び込んだのだという。
 村松はそんな歴史ある色あせた椅子のひとつに座り、夜空を見上げていた。
「村松くん……もう帰ろうよ……」
 少し離れた場所から、秤理は弱々しく訴えた。
「私がなに聞いても答えてくれないし……だからもうなにも聞かないから……今日は帰ろう?」
 村松は夜空を見上げたまま答えない。
「カザナさんを待ってるんでしょ……きっと来ないよ……」
 よく晴れた空だった。青黒い空の縁を彩るように、ほんの少しだけ白い雲が見える。
 満天の星々が、視界を埋め尽くすかのようだった。
「……私、帰る」
 そう言って立ち上がった秤理は、村松のすぐそばまで来ると、ハンカチを差し出した。
 村松はただ夜空を見上げていた。
「まだ血、付いてるよ」
 可愛い星柄のハンカチを無理やり村松のポケットにねじ込むと、秤理は屋上から立ち去った。
 後には風の音だけが残る。

 何時間が経っただろうか。
 徐々に風は強くなり、夜空に流れる雲が増えてきていた。
「光栄ね」
 風にのって、幻のような声が屋上に響いた。
「ずっと待っていてもらえるなんて」
 村松が振り返ると、いつの間にかカザナがテーブルのひとつに腰掛けていた。
「馬鹿みたいに探し回るよりマシだと判断しただけだ」
 カザナは小さく笑ったようだった。
「もっと時間をかけようと思っていたのに……こんなお誘いを受けてしまったら、断るに断れないじゃない」
 村松は体の動き具合を確認するようにゆっくりと立ち上がり、カザナを正面に見つめた。
「お前の《特権》は何だ」
「面白い冗談ね」
 もとより村松は答えなど期待していなかった。しかし、決して無意味な問いではない。
 突然手の内を明かせと言われても、カザナの態度は変わらなかった。つまり、ネタを事前に知られても不利になる要素の少ない《特権》であると推測できる。あるいは、《完璧に演技をこなす》といった《特権》か。
 どちらにせよ、精神系や規則系ではないならば、難しいことを考える必要はない。
 村松は予備動作を殺して突進した。同時に手の中に隠し持っていた石を投擲する。ただの石とはいえ、村松の手より放たれたそれはコンクリートの壁程度ならたやすく撃ち抜く。
 カザナはどこからともなく取り出した盾……のようなもので石をはたき落とした。
 続けて村松は手近にあったテーブルを片手で掴み、軽々と放り投げた。直撃すれば軽自動車の衝突事故並の被害は免れない。
 しかしカザナは手にした盾のようなもので……いや、それはもはや疑う余地もなく、クッションだった。黄色い星形の。
 カザナは手にした星形のクッションで飛来するテーブルを難なく弾き飛ばした。
 更に村松は前方に飛ぶように急接近し、強烈に一歩、踏み出した。
 どすんと本館そのものが振動するほどの衝撃。屋上のコンクリートは椀型に陥没し、そこを中心として蜘蛛の巣のようにヒビが入った。
 急速前進と震脚によって蓄えられたエネルギーを直接打撃に流しこむ一撃。どんなに頑丈な盾で防ごうと、衝撃は隅々まで浸透して内部から破壊する。
 だが、カザナが手にした星形のクッションはその打撃を闘牛士のごとくいなしてしまう。逆に、無防備となった村松の体に向けて今度はカザナが強烈に震脚を踏み込んだ。
 村松の体が放物線を描いて飛んだ。フェンスを突き破り、屋上から地面まで一気に落下する。
「あの高さから落ちて無傷なんて、どういう体してるの?」
 頭の上から声が聞こえた。
「……」
 それはあまりにも馬鹿馬鹿しい……滑稽な光景だった。
 カザナは星形のクッションに、文字通り『乗って』いた。飛んでいるのだ。星形のクッションが。
「それを自在に操るのが《特権》か」
「そう思う?」
 カザナはふわふわと宙を漂いながら笑った。
「ところで……ずいぶん砂まみれになってるけれど、大丈夫かしら?」
 途端に、村松はがくりと膝をついた。なぜか体が尋常ではない重さになっている。
「さて、残念ながら私、いたぶる趣味も、種明かしして楽しむ趣味もないの。ごめんなさいね」
 冷たい瞳で村松を見下ろしながら、カザナはポケットから何かを取り出してバラ撒いた。月の光を反射して、それらがキラキラと輝く。
 それらは一瞬だけ滞空した後、凄まじい速度で村松へと殺到した。
 村松はその場から飛び退いてそれを回避した。しかし、全身に重りを付けられたかのような状態では完全には避け切れず、いくつかのそれが村松の皮膚を切り裂いていく。
 まるでカミソリの群れ。しかもそのカミソリは、自在に飛び回り追尾する。
 下らない鬼ごっこだ。村松は逃げ回るのをやめた。両足を踏みしめ、地面に向けて突きを放った。
 吹き飛んだ土石が周囲を無差別に破壊する。追撃するカミソリの群れがことごとく叩き落され、一瞬で体中の重みも消えた。
「そういうことか……」
 地面に落ちたカミソリの正体を拾い上げて、村松はため息をついた。
「笑えない冗談だ」
 それは、子供がおもちゃ屋で買い求めるような、キラキラと輝く、星形をしたシールだった。
 村松は常人ではあり得ないほどの高度まで一息で跳躍した。そして完全に油断していたカザナの、星形のクッションに向けて手刀を放った。
 クッションは五つの頂点のうちの一つを切り取られると途端に浮力を失い、カザナもろとも落下した。
「もう、子供の頃から大切にしていたのに……」
 何事もなかったかのように着地したカザナは、スカートの裾を払いながら言った。
 その手には、星の刺繍が施された手袋が。
 カザナの《特権》は《星を操る》ことだった。カザナが星であると認識したものならば、なんでも操作できる。
 そして自分の精神に近いものほど、より精密に、より現実世界の法則をねじ曲げて動かすことができるのだった。
「あれを落とせば簡単に終わるんじゃないか」
 村松は頭上を指さしてみせた。
 夜空に散らばるのは無数に輝く――星。
「多分できるけどね」
 こともなげにカザナは言う。どうやら本当らしい。
 話しているうちに、いつの間にか村松の足元に白い砂がじわじわとにじり寄っていた。
 村松はそれを蹴散らすついでに、大量の土くれをカザナに向けて蹴り飛ばした。
 一瞬の目眩まし。しかしそれだけあれば、この短い距離を詰めるには十分すぎるほどだった。
 村松の手には、人間の頭蓋骨ほどの大きさの岩。それを躊躇なくカザナの頭に叩きつける。辺りに、気持ちいいほどの破裂音がこだました。
 震脚からの打撃を警戒していたカザナは完全に不意をつかれ、頭部を岩とすげ替えられてその場に崩れ落ちた。
 村松は彼女の周りに群がるようにしていた白い砂を見つめた。それは星砂だった。
 もっと時間を掛けたかったとカザナは言っていた。それはもしかしたら、学校中の砂を星砂に置き換えたり、あらゆる場所に星をモチーフにしたものを仕込んだり……そういったことだったのかもしれない。
 周到に用意されていたら、わけもわからないまま封殺されていた可能性もあった。
 しかしそれはあくまで可能性の話。現実に彼女は村松の誘いを抗いきれずに彼に挑み、死んだ。
 村松には何の感慨もなかった。
 用事は全て済んだ。全て。
 かつてカザナだった亡骸に背を向けて帰ろうとしていた村松は、しかし、妙な違和感を覚えて立ち止まった。
 わずかだが、体が重い……。
 ポケットに手を入れると、ざらりとした感触があった。引き抜くと指先に星砂がまとわりついている。
 村松はバッと振り返った。カザナの死体は――消えていた。
 直後、首筋に冷たい感触を受け、村松は急速に前転して振り返った。そこには、五体満足のカザナが立っていた。
「人は……死んだらどうなるのかしらね……」
 今まさに蘇ったばかりのカザナはそんなことを口にした。手にはサインペンを握っている。
 村松は首筋に当てた手を月光に照らして見た。ほんの少し、赤いインクが付着していた。
「人は生きているうちに、死んだ後のことを色々と考えて……例えば死んだら風になるとか、水の分子になって世界中を巡るのだとか……」
 村松は首筋に当てられたのがあのサインペンであり、そしてそこに描かれたのが星形であることを直感した。
「後はそう……死んだら……『星になる』……とか」
「……概念か」
 高く、カザナは笑った。
 それは村松の首筋から大量の血液が噴き出るのと同時だった。
 死ねば星になる。その概念を信じている限り、カザナは何度死んでも《星を操り》自らを蘇らせることができる。自分に近ければ近いほど現実の法則をねじ曲げることができる――その最たるものだった。
 そして、図形としてただ描かれただけの星すらも操り、村松の首に大穴を開けた。
「終わりね。あなたは私を殺せない。そして私にはあなたを何度でも殺すチャンスがある」
 カザナは血の池の中に倒れた村松に近付き、ポケットからゴム製の手裏剣を取り出した。表面にはドラゴンの絵の下に『わくわく忍者体験ランド』と書かれている。カザナにとってはこれも立派な星形だ。
 ゴム製の手裏剣はカザナの手の中で研ぎ澄まされた鋼のような重量と鋭利さを獲得し、重い石臼が回るかのように力強く回転しながら宙に浮かんだ。
 カザナが手のひらをかざして手裏剣を巨大化させ、村松の首を完全に切断しようとしたその時、
「なっ、なにしてるんですか!」
 その場に、場違いな少女の声が響き渡った。
 そして次の瞬間、村松の指が蛇のようにカザナの首に食い込んでいた。
「なんで……それだけ血が……出て……」
「俺が」
 村松はカザナの首を掴んだまま吊り上げると、勢い良く地面に叩きつけた。
「この俺が、少し血を流したくらいでどうにかなるとでも思ったのか」
 地面に頭から植えられたカザナは二、三度痙攣すると、糸が切れた人形のようにぐったりと動かなくなった。
「村松くん!」
 先ほどの声の主、建物の影から村松に走り寄ってきたのは、秤理だった。
「なんで……どうしてこんな……」
「消えろ」
 涙で顔をぐしゃぐしゃにしている秤理に向けて村松は鋭く言った。
「だって……今の……カザナさん……こ、殺しちゃ……」
「また生き返る」
 その言葉が合図だったかのように、カザナの死体が掻き消え、その気配が村松の背後に集まった。
 村松は秤理を突き飛ばして先制の一撃を背中に叩き込んだ。生身の体では受け切れない破壊的な手刀。
 しかし実体を編み上げたカザナはそれを素手で受け止めてみせた。
 彼女の姿は、先程までとは明らかに違っていた。
 体中に浮かぶのは星のごとき聖痕の数々。それは異様であるとか滑稽であるとかいった段階を飛び越えて、ある種の神聖さを纏っていた。
 しかし相手がどんな風貌になろうとも、村松の精神は動じない。渾身の力を込めた拳を腹にめり込ませる。
 カザナは僅かに体をくの字に曲げたが、そのままこらえた。軸足を後方に置き、更に前に出る。技も何もあったものではない、単純にして重い頭突きが村松の額を割った。
 鮮血が舞い散る。村松はのけぞった勢いを逆に利用し、下から刈り上げるようして膝を入れた。カザナの顎が跳ね上がる。常人であれば背骨ごと頭蓋骨を抜かれているところだ。
 ぐるんとカザナの頭が定位置に戻った。背中から倒れようとしている村松に覆いかぶさるようにして追撃をかける。が、村松は更に手を伸ばしてカザナの頭を掴むと、強引に捻り投げた。星の加護を得たカザナの首は頑強に胴体から離れず、その全身が宙に飛んだ。
 村松は素早くブリッジして跳ね起き、カザナもまた空中で姿勢を制御して優雅に着地した。
 一瞬の間を置いて、再び両者が激突する。それはもはや特殊な能力も駆け引きもない、ただただ純粋な殴り合い。急所を容赦なく叩き、眼球に指を入れ、尖った木の枝を口に突っ込み、岩を拾って叩きつける。
 度重なる仕切り直しを経て、カザナは《美少女》になってから初めての無邪気な笑顔を、顔中に浮かべていた。
 楽しい。全ての力を総動員して、何も考えずに相手に叩き込める喜び。どちらも倒れない。一瞬も気が抜けない。終わって欲しくない。でも今すぐに終わらせたい。
 村松の体に刻まれる傷は急速に治り、カザナは皮膚に痕すらつかない。
 無限に続くかに思われた戦いはしかし、徐々に両者の体力を奪っているようだった。
「負けを……認めなさい……私は全ての力を使い果たしても死なない……けど……あなたはいずれ体力が尽きるでしょう……」
 お前は一体何を言っているんだと言わんばかりの一撃が、カザナの脳を揺らした。村松は容赦なく追撃を加える。
 地面にめり込むほどの強烈なストンピングを顔面に受けながら、カザナは声を出して笑った。
 このままでは、この男を倒すことはできない。彼は、村松は強い。
 村松の足首を両手で掴み、浮いた体を振り回す。地面に叩きつける反動でカザナは立ち上がった。
「村松くん。とても楽しかったです。でも、そろそろ終わりにしましょう」
 カザナは右手の人差し指を夜空に向けて、腕を高く掲げた。
「星よ」
 ふっと、月の光が何かに遮られた。
 それは、空を覆い尽くすほどに巨大な名も無き星。
 赤茶けた星はその表面のクレーターまでもがはっきりと見て取れる。どのような理由からか、星の周りには金と虹色の光の帯が踊り、せめてこの世の終わりを幻想的に彩ろうとする神の気遣いを思わせた。
「――墜ちろ」
 カザナの指が振り下ろされる刹那。
 村松は、ポケットの中に入っていた星模様のハンカチをカザナの目の前に突きつけていた。
 空から、デフォルメされた小さな星がひとつ、村松の頭の上にころりと落ちた。
「ーーーーーッ!」
 何か声を上げるより早く、カザナの首は胴から離れていた。
 肉の塊となったそれはどさりと地面に崩れ落ち、そして、二度と蘇ることはなかった。
 カザナは体中に聖痕を宿した際に、死後の自分を星ではなく、神に重ねてしまっていた。上書きされた概念が戻らぬまま命を絶たれ、そこで無限の蘇生は終わった。
 村松は手にしたハンカチを見つめていた。
 それは、秤理が村松のポケットに無理やり押し込んだものだった。これがなければ、カザナの想い描く地上に降る星の概念を上書きできずに、世界ごと消え去っていたかもしれない。
 村松は何気なく、そのハンカチの持ち主を探して辺りを見回した。
 秤理は村松とカザナの戦いに巻き込まれないように離れた場所から、ずっと彼らを見つめていた。
 その顔はぼんやりとしていて、とても人の生き死にを見た直後とは思えないほどに空虚だった。
 村松は、自分が秤理の方に向かって歩いていることに気付いた。なぜそうしようとしたのか、自分でも分からなかった。
 秤理の目の前に村松が来ても、彼女は呆けたような表情で彼の顔を見上げるだけだった。
 村松は秤理の手にハンカチを握らせた。なぜ自分はこんな無意味なことをしているのかと疑問に思ったが、まるで自動操縦のように体が動いていた。
「……お前のおかげで助かった。ありがとう、秤理」
 何を言っているんだ? それは自分の声とは思えなかった。礼を言ったのだろうか。自分が? このちっぽけな人間の女に?
 村松の声を聞いた途端、秤理は雷に打たれたようにびくっと体を震わせて、それからゆっくりとうつむいた。
「あ……」
 秤理の声はひどくかすれていた。顔をうつむかせて、そのまま小さく折りたたむように膝を曲げる。小さな肩が小刻みに震えていた。
 村松は、持て余す自分の感情に困惑していた。まるで別人が乗り移ったかのようだった。新たな敵の攻撃をさえ疑ったほどに。
 秤理はメガネを外して、ハンカチを握りしめた両手を顔に押し付けた。

「ああ……」

 秤理は、顔を手とハンカチで覆ったままゆっくりと立ち上がると、少しよろけるようにして後ろに下がった。

「私……」

 それは不思議な光景だった。

「やっと……」

 長めだった袖口が。膝下まであったスカートの丈が。

「見つけたよ……」

 短くなっていた。
 そして。

「村松くん」

 ずっと顔を覆っていた手を下ろす。

「はじめまして」

 そこには、月の光を受けて恐ろしいほどに美しく輝く、見知らぬ《美少女》の顔があった。

 村松の思考は一瞬にして冷えた。
 彼は機械のような冷静さで現状を把握する。
 九月秤理は《美少女》だった。
「そして……さようなら」
 秤理はにっこりと微笑んだ。それはさながら聖母のように、慈しみ深い笑みだった。
 村松の視界が揺れた。アルコールが回ったかのように足元が覚束ない。
 ――構うものか。
 村松は手近な木を引き抜くと、目の前の《美少女》に向けて槍投げのように投擲した。
 しかし、なぜか木はあさっての方向へと飛んでいく。
「無駄だよ」
 一体いつの間に近付いたのか。秤理は無防備に顔を覗きこんでくる。村松はその顔面に向けてショートアッパーを放った。
 しかし当たらない。避けられた?
 ならばとその細い首に手を伸ばす。手は、空を切った。
「当たらないよ」
 踏みしめていた石が、ほんの少しずれた。態勢が崩れかけたところを不意に突き飛ばされ、村松は数メートルも後方に倒れた。
「なぜなら、あなたのバランスはもう、崩してしまったから」
 バランスを操る。それが、秤理の《特権》だった。
 しかし、操れるのはほんの些細なバランスだけ。例えば机の上に置かれたペットボトルを倒す。例えばトランプを組み合わせて天井まで届かせる。そんな、ささやかなものだった。
 ただしそれは自らの関心が及ばない部分の話。カザナと同じく、秤理の《特権》もまた、自分に近ければ近いほど無茶苦茶な効果を発揮するものだった。
 今回の『試験』にあたり、秤理はまず自分のバランスを弄った。身長のバランスを変え、顔のバランスを変え、声のバランスを変え、最後には心のバランスを変えて別人になった。
 それはもはや《美少女》ではなかった。《美少女》でない者は《特権》を使うことはできない。秤理が自らに施したバランス調整は、約二十時間で自動的に元に戻るものだった。
 そこまでして秤理が得ようとしたもの、それは。
「あなたの心を動かすのは、苦労したよ」
 それは村松の心だった。
 対象の心が自分に近付くほどに、そのバランスを自由に弄れるようになる。
 人間に対して決して関心を寄せないであろう村松の心をこちらに向けるのは、相当骨が折れるであろうことが容易に想像できた。
 しかし秤理は粘り強く戦いを続け、そしてついに勝ち取ったのだ。
「……下らないな」
 村松は、自分で自分の顔を殴りつけた。
 突然湧き上がった自分のものではないようなあの感傷を追い払うために、何度も何度も殴った。
 不思議と、頭が冴えてくるような感覚が村松を包んだ。足のふらつきが収まった。ぼやけていた視界がマシになった。
「ああ、下らない」
「うそ……自力で調整を? あなた本当に人間なの?」
「さあな」
 村松は今度こそまっすぐに、秤理に向けて突きを繰り出した。聖痕を持ったカザナならともかく、普通の人間では避けることすらできない速度。
「くっ」
 だが、秤理はなんとか迫り来る拳に両手を添えてその軌道を逸らした。薄い皮膚が裂けて血が滲み出る。
 村松の感覚は、まだ完全に元に戻ってはいなかった。視界に問題がないのに遠近感のバランスが微妙にズレている。ゆえに今の一撃を秤理の弱い力で逸らされてしまった。
「そうだね。村松くんは、そういう人だったね」
 秤理は、何かを決心したように呟いた。
 直後、村松の立っている地面だけが数センチ陥没した。そこに生じたほんのわずかなふらつきに合わせて、秤理の横蹴りがタイミングよく村松の鳩尾を捉える。必然的に降りてきた顎先に掌底を合わせ、軸足を払って後頭部を地面にめり込ませた。空いた片手でスカートのポケットから包丁を取り出し、無防備な喉に突き刺した。包丁は秤理が子供の頃から使っている愛用品で、強度と切れ味のバランスをあり得ないほどに偏らせてある。切っ先はあっけなく地面を抉った。
「さよならだよ」
 包丁を抜き取ると、今度は左眼球にそれを突き立てる。
 がしり。包丁を握る手首を掴まれた。誰に? 村松以外の誰がいるだろうか。手首はメキメキと嫌な音を立てている。思わず包丁が手から離れた。
 しかし秤理は、自分の手首を掴む村松の手を、もう片方の手でしっかりと掴んだ。
 肉体の、戦闘力のバランスを変える。村松の手首が音を立てて砕けた。
 しかし、もう片方の手を動かしていたのは秤理だけではなかった。村松は自らの顔に突き立てられた包丁を抜き、秤理の胸の中心に押し込んだ。
 たまらず秤理は村松から距離を取った。血流のバランスを操作し、多量の出血を防ぐ。更に治癒力のバランスを急激に高めて無理やり傷を塞いだ。
 こうした無茶なバランス調整の代償は、他でもない自らの命。寿命という名を持つ有限のリソースだ。
 しかし秤理は、構わず更に攻撃力を偏らせた。体の奥底からエンジンの悲鳴が聞こえてくる。
 飛び込んできた村松の拳に、秤理は自らの拳を全力でぶつけた。互いの骨が砕け、肉が裂け、肩が外れる。膝と膝。肘と肘。頭と頭。次々に壊れていくが、それでも二人は止まらない。カザナの時とは似て非なるぶつかり合いがそこにはあった。
 血を吐き、再生もままならないぐちゃぐちゃの腕で殴り、時に折れ尖った骨すらも武器にして、血みどろの戦いは嵐のように夜を赤く染める。動かない体を動かし、消えかけた命を燃やす。
「ねえ、楽しいね」
 声にならない声で秤理は言う。
「楽しいものか」
 村松は無言で答える。
「あなたも探してたんでしょ、全力をぶつけられる相手をさ」
「お前たちは皆同じようなことを言っていたな。俺にはよく分からない」
「嘘だよ」
「なぜそう思う」
「だってほら、村松くん、笑ってる」

 秤理は、がくりと膝をついた。
 もう体が動かない。もうこれ以上戦えない。
 ああ、いつの間にか、もうすぐ夜が明ける。
 秤理の目に、色を変えゆく空のふちが映り、涙が浮かんだ。
 秤理は大きく息を吐いて、仰向けに倒れた。

「……おつかれさま、村松くん」

 隣に倒れ伏して動かなくなった村松の頭をそっと撫でる。
 戦いの最後、互いに極限状態の中で、村松の心は大きく秤理の元へと動いていた。
 そして秤理は、村松の命のバランスを変えたのだった。
 試験開始から四十一時間と二十分。秤理は試験に合格した。




























































「ダメですね博士、コイツは失敗ですよ。これならかかった費用で燃料でも買ったほうがよほど有意義だった」
 どこからか、男の声が響いた。
 その声は少年のようでもあり、成人男性のようでもある。
 しかしそこに何らかの感情を読み取ることはできなかった。
「大体、あちこちで元になったやつの感情が露出しちゃってるじゃないですか。お粗末な出来ですよ。これじゃ安心して死ぬこともできないな」
「しかし村松くん……あの期間でこれだけの結果が出せれば十分ではないかね……」
「本気で言ってるんですか博士。あの男に僕の思考パターンをインストールするだけで何時間かかったと思ってるんですか。その時間で戦闘機を何機潰せたか」
「村松くん」
「もっと綿密な計画を立てて人体実験を繰り返し行うべきですよ。経験を蓄積させなくちゃ。人間みたいなものは掃いて捨てるほどいるんですからね」
「村松くん?」

「ああ、ところでそこの君」
 声の主が話しかけている相手は、一体誰なのか。
「君だよ君。合格おめでとう。といっても僕はそっちの担当じゃないけどね。スポンサーみたいなものだ」
 すべての力を総動員して目を開ける。でも、夜から朝へと移りゆく空のグラデーションだけしか見えない。頭も、体も、もう動かない。
「さて、もし良ければ、だけど――君には合格のお祝いとして、僕と殺し合う権利をあげてもいい。契約だからね。無論データは取らせてもらうけど」
 頭のなかに響く声は懐かしいようで、恐ろしいようで、心が不安になる。
 でももう、何も考えたくなかった。ゆっくり休みたい。心にぽっかりと穴があいてしまったようだ。しばらく誰も構わないで欲しい。
「あんな劣化コピーなんかに勝っても楽しくないだろ? オリジナルを倒せたらすごいと思わないかい? ――九月秤理さん」
 私にはもう、何も聞こえなかった。