--- あの日、二度目の戦いが全て終わった瞬間、私のいた世界は凍結した。 終焉ですらない。 「はじめからそんな世界はなかった」と、マスターに宣言された。 言葉が発せられたその瞬間に、倒れた私の体は凍りつき、世界は何一つ動かなくなった。 私は私の見ていた夢だった。 戦う意思は凍りついた肉体を抜け出し、目覚めたもう一人の私がいる世界へと流れ込み、ひとつになった。 しかしこの『私』だけはずっと取り残されていた。 それはなくなりつつあった人の心。 まだ何も知らなかった頃の、ありふれた感情たち。 『目覚めたもう一人の私』は、既にこの感情を持ち合わせていた。 だから戦うための意思だけが必要とされ、それだけが分離して昇っていったのだと気付いた。 存在しないものとされた世界でひとり、凍りついた身体の奥底で。 解放された心が徐々に大きくなっていった。 意識は、指一本動かせない肉体を飛び超え、どこまでも肥大化していく。 私は夢を描いた。 幸せな夢。 もしも、誰も殺さなかったら。 もしも、この戦いに参加しなかったら。 もしも、悲しみのない世界へ行けたら。 その夢は、見たこともない鮮やかな色彩で、輝くような時間を映し出していた。 幸せな時間、楽しそうに笑う子供たち。 それは驚くほど精巧に出来た一枚の写真のようだった。 ゆっくりと眺めているうちに、あることに気付く。 それは私が作り出した夢ではなかった。 いつの間にか、同じように誰かが願った夢に、私の意識がリンクしていたのだろうか。 思いがけない出来事に戸惑いながらも、しかし私は溢れ出る喜びを抑え切れずにいた。 孤独が。 色褪せ、冷え切った、まるで千年にも匹敵するほどの孤独が、一気に癒されていくような心持ち。 私はその世界を愛した。 その世界は、限りなく暖かな輝きに包まれたまま、ある特定の瞬間を切り取ったかのように静止していた。 どれほどの時間、それを眺めていただろう。 ふと、ある不自然さに気付いた。 この世界には悲しみがない。 徹底的に悲哀を排除するように作られ、そのために世界は歪に変形している。 故意に時間を停止させているとばかり思っていたが、その実そうではなく、単純に世界が歪んでしまい動けなくなっていたのだ。 それに気付いた瞬間、まるで失っていた記憶を取り戻したかのように、私は自分がここにいる意味を理解した。 私の意識がこの夢の世界とリンクしたのは偶然じゃなかったのだという確信のようなものがあった。 止まった世界を動かすために、私は鍵として呼ばれたのだ。 私は拡散した意識全てをこの世界に集め、凍結した身体から切り離すことを決めた。 世界を外から眺めるのをやめて、その中に自らを生じさせるなら…… こうした俯瞰の意識、記憶は全て消えてしまうだろう。 それでも構わないと思った。 他でもない、特別な者の頼みであることを既に知っていたから。 --- 細い砂利道を抜けると、かつて私が住んでいたという場所に出た。 一面を見渡せてしまう。 そこにはなにもなかった。 建物があった痕跡も、草木の一本も。 そこはただ広く、灰色の砂利が敷き詰められているだけだった。 私は、昔の兄を知る者、当時のクラスメイトとのコンタクトを試みるため、かつて私たちが住んでいた町を訪れていた。 両親から聞いたその場所は、人が少なく自然が多い静かな土地だった。 私はひとり、見知らぬ兄の影を追って歩く。 結論から言うと、彼らの殆どは記憶そのものを書き換えられていた。 彼らの家族にも、兄の名を覚えている者はいない。 改めて両親の力を思い知る。 途方もない気持ちになった。 次に当時の担任を訪ねた。 さすがに教職員の記憶までは自由にできなかったということが、反応ですぐに分かった。 しかしそれは、つまり記憶を書き換えなくても絶対に口外しない保証があるということ。 私はまず自分が木俣有の妹であるということを証明しなければならなかった。 そして今日は両親から特別な許可を得て訪れたということを示し、安全であることを説明、説得した上で、ようやく口を開かせることができた。 休日の誰もいない校舎を実際に歩きながら話を聞き、兄の姿を、声を、表情を思い浮かべた。 同じようにして私は様々な人から兄の情報を得た。 クラスメイトの中でも特別な家庭の人間は記憶の書き換えを免れており、教師には見せない兄の自然体の姿を知ることができた。 こっそりと当時の写真を封印(比喩ではなく)して保管している人もいた。 家庭内の兄の姿と外での兄の姿を照らし合わせ、そのギャップから細かな心の動きを推測し、自分の中で再構築してゆく。 かつて有くんを作り出したのと同じように、兄を作るためには、兄が存在する世界を同時に作る必要があった。 しかし、私にはもう無から有を生み出すほどの想像力はなく、その世界は私が知っている範囲に限られた。 だから私は、既に変わり過ぎてしまっている、かつて私たちが住んでいたというこの町ではなく…… 私が有くんと共に育った街と学校を舞台にしようと思った。 そしてその世界には、私の願いを込めて。 せめて自分の中だけでも、悲しみのない世界を作りたかった。 私は、その世界に私自身を作ろうと決めた。 私だけではない。 両親も、クラスメイトも、覚えている限りみんな。 兄一人を再生しても意味がないのだ。 今度こそ幸せな人生を全うできる、そんな世界を作る必要があった。 『私と兄はどちらも問題なく剣を扱うことができて――』 ……うん、そうだ。 これが、たったこれだけのことが、全ての原因だった。 『――そして私と兄は双子だった』 ……これは私の勝手な望み。 やり過ぎかな? でも、私は有くんと一緒に過ごした時間を忘れることができない。 あの時間は確かに幸せだったのだと思う。 この幸せだった時間だけはどうしても新しい世界に投映させたかった。 『私は嘘の記憶で自分を騙す必要など一切なく、他人と話すことにも抵抗がない』 ……そうだ。 何も悲しいことがなかったのだから、きっと髪の色も変わらなかっただっただろう。 ごく普通の女の子として当たり前の毎日を過ごす。 時々兄とケンカをして、怒って、言いたいことを言い合って、泣いて、仲直りをして、少しずつ成長する。 年を重ねて、やがて兄とふたり、緋森高校に入学する。 そして決して忘れられないあの日が来る。 修学旅行。 誰かが大きなイベントをするという噂は私の耳にも届いていた。 私は参加する気はなかったけれど、どんなイベントなのか気になって、こっそり見に行くことにした。 枕投げから始まり、先生の目を盗んで、あるいは容認させて(一体どんな手を使ったのか)、いろいろな場所でたくさんの人たちが大暴れしていた。 それは……何と爽快で生き生きとした素敵な画だっただろうか。 他人の目を気にする必要などなく、思うがままに、授業や実戦では考えられないような構成の剣を振り回す。 私はそれをずっと遠くから見ていた。 有くんのこともあり、私は少し前向きになれていたけれど、やっぱりあんなに眩しい輪の中に飛び込む勇気はまだなかった。 部屋で、食堂で、浴場で、ゲームセンターで、あらゆる場所で常識外れの大騒ぎ。 私の目にはそれがとても楽しそうに映った。 だから私は、参加できなかった分、じっと遠くから見つめていた。 彼らを羨ましく思い、途中からでも参加すればよかったと、あの日を思い出すたび後悔を覚えたものだった。 この世界の私なら、きっとあのイベントにも何も考えずに飛び込んでいくことができただろう。 そうだ、どうせなら兄も一緒に巻き込んでしまおう。 きっと文句を言いながらも、結局は楽しんでしまうはずだ。 修学旅行から帰った後、二人で語り合う思い出の中に、あの夢のような馬鹿騒ぎのイベントがある。 それはとても幸せなことだと思った。 私の世界は、ほとんど出来上がっていた。 私が実際に経験してきた時間の出来事をそっくりなぞりながらも、中心にいる人物だけが違う世界。 もしも悲しいことが何一つ起こらなかったらという、夢の世界。 でも……それだけだった。 胸に思い描いた場面を蓄積しただけの世界は、動き出すことはなかった。 そうして何年が過ぎただろう。 私が胸に描いた世界はますます鮮明さを増し、細部の輪郭、登場人物の心情までもがくっきりと浮かび上がってくる。 それはもしかしたら、本当に新しい世界を創り出す行為だったのかもしれない。 私は動かない世界を眺めていた。 これでよかったのだろうか? 私の償いは、私の願いは、これで終わったのだろうか? ……世界は動かない。 ふと、意識の隅に調和の乱れを覚えた。 与り知らない場所で何かが動くのを感じた。 異物。 私の世界に、私の知らないものが紛れ込むなんてことがあり得るのだろうか。 ここは私が掌握する世界、一呼吸と置かずに特定することができる。 ……それはもう一人の私だった。 しばしの忘我の後、ざわめきが耳に届く。 それは消灯時間を前にいよいよ色めき立つ、若者たちの声。 世界が動き始めた。 --- 彼女と共に参加したイベントはなかなか楽しかった。 魔法のような剣の数々、本気の殺意を伴わないものの、適度に緊張感のある戦い。 私のいた世界では考えられなかった。 楽しい、か。 気付けば見知らぬ世界で、亡霊のような存在になっていて。 それでも人の心を取り戻した私は、あの頃よりずっと幸福だと思った。 ……彼女は公子と名乗った。 この世界と、私がいた世界がパラレルだとして。 同じ登場人物が違うシナリオを演じているのだとしたら。 かつての私と同じ名前の彼女は、やはり私自身なのだろう。 私が、私を幸せにするために、この世界に呼び寄せたのだろうか。 「なるほど、そういう考え方もできますね」 声が響く。 上から、下から、判別がつかない。 気付いたときには目の前に少女が立っていた。 「私が見えるのか」 「見えます」 「そうか」 「警戒する必要はありません。私の名前は、公子といいます」 「……」 一瞬の混乱。 しかしすぐに気付いた。 私の姿が見える者。 私を呼び寄せた者。 「……きみが、この世界のマスターなのか」 「そういうことになります。……まずは、お礼を。ありがとう、あなたのおかげでこの世界は動き始めました」 「私の……?」 「既に感じていると思いますが、この世界は悲しみを極力排除した歪んだ世界でした。しかしそこに、悲しみの世界からあなたが来た」 「……邪魔をしてしまったんじゃないのか。私みたいな者は、真っ先に排除されるべき存在ということになりそうだが」 「それでは、ダメだったんです。悲しみのない世界というのは、極端に言えば、永遠に誰も死なない、傷つかない世界。そんな世界が正常に回ると思いますか?」 「でもきみはそういう世界を作りたかったんだろう?」 「私は……何も知らず、何も備えられず、抵抗する方法も分からずに足を掬われたその瞬間を、その始まりを変えなければならなかった。それだけだったんです」 私と似ている……いや、当然か。 ここには三人の私が存在している。 過去を悔み、この新しい世界を創り出した公子。 その公子によって作られた、悲しみを知らない公子。 そして、一度は全てを喪失し、孤独の悲しみに焼かれ、消え去ろうとしていた私。 全ては夢なのかもしれない。 それでも私は満足だった。 失ったはずの心を取り戻し、木々の葉の一枚さえ美しいと思える。 夢というならば、まさにその通りだ。 「私も感謝している。この世界は、優しさに満ちているように思う」 「ありがとうございます。是非、ゆっくりしていって下さい。肉体が必要なら用意します」 そうして彼女は消えた。 私はもう少し、この世界をゆっくりと見て回ろうと思った。 いつあの騒がしい少女に呼び出されるとも分からないが…… --- くしゃみをひとつ。 むう、私としたことが湯冷めをしてしまったか。 しかし妙に頭がすっきりしていた。 ここ数日感じていた、頭に靄がかかったような気分もすっかり晴れていた。 これなら三回戦も出ればよかったかな……? いやいや。 お兄ちゃんの裸を見るのも見られるのも気まずいでしょ普通に考えたら。 別にボディに自信がないとかそういう訳ではまったくなくてね。 うーん、いっそ明日のイベントもお兄ちゃんに出てもらおうかな。 私は友達とチームを組んで聖域限定ぬいぐるみをキャッチしまくらなければならないのだ。 後で話してみよう。 そんなことを考えながら、私はいつの間にか眠ってしまっていたらしい。 らしい、というのは、今夢をみていると感じているからだ。 明晰夢だったかな? あー夢のなかにいるなーって感じがする。 声が、さっきから残響していた。 (楽しい?) 楽しいよ。 なんでも楽しむようにしているし、そうすれば大抵のことは楽しいんだって気付けるから。 (不安?) うーん、そりゃまあ進路のこととか考えるとちょっとは不安になるけど…… なんとかなるでしょ、その頃になったら考える。 (お兄さんのこと好き?) すきだよ。 (どのあたりが好き?) 普段は素っ気ない感じなんだけど、風邪ひいたりするとすごい心配してくれたりして、実は結構優しいところ……かな? ……夢とはいえ、何言わせてくれてんのこの人。 恥ずかしいわ。 (どのくらい好き? 重撃剣くらい? ねえねえ) なんでそんなに食いついてきてるんですかアンタ。 (では最後に、お兄さんに愛の一言をどうぞ) インタビューか! 「愛の」ってそこは固定なのかよ! なんだこの夢! がばっと飛び起きる。 時刻はまだ深夜。 気のせいか、夢の中の興味津々な声の主に生温かく見守られているような感覚があった。 もう恥ずかしい質問すんなよ! 虚空に凄みをきかせ、頭から布団を被るのだった。 --- 悲しみを回避した私は、どうやら健やかに成長しているようだった。 安心した。 私はどこにでもいるような普通の女の子として、穏やかな幸福の中を生きることができる。 その確かな可能性は私自身に勇気をくれる気がした。 最後にもう一人、会わなければならない人がいる。 彼のためにこの世界を作った。 私の中に停滞する罪の意識を打ち消すために彼を作った。 ……エゴだ。 会って何を話せばいいのだろう? 『もう許している。きみは過去を気にせず生きるといい』 そんな言葉を貰えたとして、それは結局、私が彼の口を借りてそう言わせただけなのではないか? ……そんな言葉には何の意味もない。 やっぱりやめよう、私はただひたすらに、作り続けるんだ。 永遠に消し去ってしまった彼の人生を作り直し、幸福に続く道を作り続けるだけなんだ。 彼に会って許しの言葉を得る必要なんてない…… 「なんだ、そのゲームやりたいの?」 「……えっ?」 気付くと私は話しかけられていた。 見回すと、そこはゲームセンター。 私はじっと一つの筐体の前に立っていたらしい。 そして私に話しかけたのは、ちょっと乱暴な言葉遣いだけど、相手を思いやる優しい声の…… 「いや、さっきからずっと見てるからさ。やんないの?」 「いえ……えっと……見てただけ。その……見てるのが好きなので……」 「ふーん。じゃあ俺がやろっかな。デモ画面じゃ同じ所ばっか走ってて飽きない?」 返事も聞かずに筐体に乗り込む。 強引なようで、心地良く優しい無関心を装って接してくれているのが分かる。 なるほど、これは確かにあの子が好きになるのも頷ける…… ……いやいや違うのよ有くん、別に浮気とかじゃないからね。 「何組の人? この学校人数多いから未だに顔知らない奴も結構いるんだよなー。名前なんつーの?」 「インタビューか!」 「えっ」 「あっ、や、なんでも」 しまった、つい動揺して愛の一言を伝言してしまった。 彼がレースゲーム中でよかった。 今こっちを見られたら顔真っ赤なのがバレる。 「あー悪い、先に名乗るのが礼儀だったかな。俺は一組の木俣有」 「私はき……き……岐路、といいます。えーと……六組」 「キロ? ふーん……どっかで聞いたような……つーかなんで敬語なの」 「や、つい咄嗟に……」 咄嗟に言ってしまったけど、本当に木炉が緋森高校に通ったら面白いかも……なんて思った。 彼女は学校をすぐに辞めてしまったと言っていたから、他では決して味わうことのできないあの独特な空間を、改めて体験してもらうのもいいかもしれない。 「ここのカーブが難しいなー」 「上手です……じゃなくて……上手、だね。このゲーム得意なの?」 「いーや、似たようなのをやったことがあるだけ。これは初めてだな」 「へぇー……すごいなあ」 「お前もやってみればいいのに。後ろで見てるのとはまた違って見えて面白いぜ」 「うん……じゃあ参考にするからもう少し見てていい?」 「構わんよ」 面と向かっていないおかげか、徐々に緊張が解れてきた。 一見すれば他愛もない会話。 しかし私にとっては……。 兄がゲームセンターによく通っていたというのは、兄の元クラスメイトから聞き出した話だった。 どんなゲームが得意だったか、その時どんな表情をしていたのか、細かく教えてもらっていた。 だから私の言葉は全て虚ろに響く。 本当は全部知っているのに。 (後ろで見てるのとはまた違って見えて面白いぜ) ……でも、確かに、こうして実際に自分で降り立ってみると、まったく違って見えるのも事実だった。 兄の言葉を完全に先読みすることができずに戸惑ってしまったように。 もうこの世界は私の手を離れつつあるのかもしれないと思った。 「おっ、このアイテムを使えばもしや……」 「止まっちゃったよ?」 「ちょっと思いついてな。こうして……壁を……越えるッ!」 「???」 「よっしゃこのまま……あー……くそっ、やっぱ進めねーか」 「……なにをしているの?」 「わざとコースアウトして海まで走ってやろうと思ったけど無理だった」 「ふふ……さすがにそんなところまで行けるようには作っていないと思うけど……」 レースゲームで、レースそっちのけでコースの外に出ようなんて人はそんなにいないだろう。 遠くに海が見えていても、それはただのハリボテ。 描かれただけの背景…… この世界と同じだ。 私が知り得るごく限られた場所までしか彼らは進むことができない。 兄はそれを、つまらなそうに切り捨てる。 「遊び心が足りねーな」 耳が痛い。 全くもってその通りだった。 でも、これ以上世界を広く、しかも細部にわたって作り込むには、圧倒的に時間が足りないのだ。 だから私は願いを込めてこう返す。 「だから想像するんだよ、きっと」 世界の果てを、彼らが想像する。 私の手を離れ、自由に動き始めた彼らが、自分たちの手でこの世界を広げて行く。 今はそれしか方法がなく……それこそが一番良い方法に思えた。 「……あのさ」 もう、私は彼らの心を自由にできない。 「なに?」 もう、私は次にどんな言葉が来るか先回りして知ることができない。 「俺、お前に言わなきゃいけないことがある」 もう……二度と…… 「ずっと謝りたかった。幼いお前の心と体に深い傷を負わせたこと、ずっと悔やんでいた。すまなかった。そして、再び生まれ変わらせてくれて、ありがとう」 ……二度と会うことはできないと思っていた。 「お兄ちゃんっ……!」 止めどなく流れる涙が、兄の肩を濡らしてしまうような気がした。 私の方がずっと酷いことをしたのに。 謝らなければならないのは私のはずなのに…… 声が出なかった。 今この瞬間に、この世界を作るために費やしてきたものの全てが報われたような気がした。 ………… 「よく分からねえけど……なんか突然、お前に言わなきゃいけないって、強烈に思ったんだ。ありゃ一体何だったんだ? お前は一体……」 しばらくして泣き止んだ私に、不思議そうな顔で兄は言った。 私は自分が誰なのかはあえて伏せて、説明をすることにした。 ……と言っても、きっと信じられないだろうし、私が元の世界に戻れば記憶は消えてしまうだろうから、詳しくは語らなかった。 この世界はあなたとあなたの妹のためにあるということ。 だからといって特別なことが起こるわけではない。 ほんの少し、この世界には悲しみが少ない……ただそれだけ。 あなたたち以外の人は、私の世界での姿を基に動くから、余程のことが無い限り例外的な行動は取らないということ。 「それじゃあ……そろそろ私は帰るよ」 「……あのさあ」 「ん?」 「さっき言われたこと、あんま分かってねーけど、つまりここはお前にとっては過去の世界ってことだよな?」 「うーん……まあそういうことになる……のかな? 厳密には過去というか過去にあった世界を基にした別の世界というか……」 「まあ細かいことは置いといて。やりたかったことなんだろ? このイベント。お前もさ、出たらいいんじゃねーの」 「私が……」 「出たかったんだろ? 今日のはもう始まってるっぽいけど、明日なら十分間に合うぜ」 「そんなこと、考えもしなかったな……」 「俺の代わりに出てくれよ。俺も妹からそうやって押し付けられたんだからさ、俺もお前に押し付けてやるよ」 そんなこと、本当に思いつかなかった。 私ができなかったこと、私がやりたかったことは、代わりにこの世界の私がやるべきだと思っていた。 それなのに、私自身が? そんなことをしてもいいんだろうか。 「……いいのかな」 「悪いことなんてあるのか? 誰も怒りゃしないぜ。このイベントはいつでも誰でも乱入OKだからな」 そうか…… 私自身が許せるのなら、私も例外なく自由に振舞っていいんだ。 「ありがとう。言われなければ気付かなかった」 「まあ、あんま深く考え過ぎんなよ。適当でいいんだよ適当で」 「ふふ……じゃあ、明日。参加してみるよ。またね、お兄ちゃん」 「つーかそのお兄ちゃんて……あれ? どこ行った? ……ま、いっか。他の奴らの様子でも見て回るかなー」 --- この世界における一時的な肉体と途心を生成し、使う剣を選ぶ。 肉体……そうだ、お兄ちゃんには最初から私の姿が見えていたんだ……。 嬉しい。 それはきっと、奇跡に限りなく近いものだと思った。 勝ち負けは考えなくていい。 木炉、もしもあなたがこの世界で戦うとしたら、こんな構成になるのかな。 シンプルに、余計なものを捨てて、それでもやっぱり不安を捨て切れない弱さと迷いが見える、こんな構成。 5/5/0/2/音斬/公子 修学旅行特有の、気分が高揚して眠れない夜。 まさか経験することができるなんて思わなかった。 今の私には全てが輝いて見える。 あの日、みんなも世界がこんなふうに見えていたんだ。 この行為には何の意味もないかもしれないけれど、私の心は確かにあの日得られなかったはずの幸せに包まれる。 ありがとう……私は…………生きて……よかった。 (よかったね、公子。きみのしてきたことは全て実を結んで、きみの願いも叶う。長い時間、よく頑張ったね) あれ……有くんの声がする。 この世界にいるの? (ふふふ、実は結構前からね、来ていたんだよ) そっか……まあどっちも私が作った世界だから行き来できて当然か…… 結構前からってどのくらい? 何してたの? (もちろん一回戦から。いやーこっちの世界の公子はいろいろとはっちゃけてて面白かったなあ) 一回戦って……私が異常を感知したくらいじゃない? すごいね、そんなに早く動けるんだ。 (まあね。僕は常にこの世界と同じ階層にダイブしているようなものだからね) それでずっとこっちの私を見守ってくれてたんだ。 ありがとう。 (見守るというか……) え? (いやなんでもない) ……黙秘しても、私が上に帰ったらすぐ分かるよ。 何かしたの? (まあ僕も一緒に戦ったというか……) えっ? なにそれ? そんなログは見当たらないけど? (いやー試しにと思ったらまさか本当に契約できちゃうとはね。おかげでこの世界の公子に呼ばれたら僕はすぐ駆けつけなきゃならないっていう) 契約って…………あっ、まさか一回戦で! ちょっと有くん、何してくれてんの!? (まあまあ、それほど大きな問題がないから大丈夫だったんでしょ。僕も幻想種のロールプレイするの楽しいし) ええー…… ていうか有くんそんなお調子者みたいな性格だったっけ……? この世界を作るのに無理したからひねくれちゃったの? いやー!! (落ち着いて……まあ真面目な話、この世界はもう公子の手を離れつつあるんだろう?) そうだけど…… (そうなれば、公子はこの世界に強く干渉することはできなくなる。改変も既にできなくなっているだろう。  そこで僕がこの世界と深くつながっていれば、もしも何かあった時にいち早く対応できるようになるってわけ) なるほ……ど? うーん、なんか上手く丸め込まれたような気がしないでもない。 (バレたか) もー! 私の真面目な有くんはどこへ行ってしまったの…… ……けどまあいいか。 有くんも修学旅行、途中だったもんね。 明日は私も頑張るから見ていてね。 (もちろん。僕はいつでも公子を見守っているよ) ……なんか、最後だけ綺麗にまとめようとしてる気がする。 (ばれたか) そんなやりとりをして、私は目を閉じる。 これもなんだか修学旅行っぽいな、なんて思いつつ。 明日は楽しもう。 夢の中の世界で私は、再び夢へと落ちていった。