ripsh



100126
マーガレット・ハンドレッド


バトル当日〜ゼロ回戦

木俣有は四組の戦闘会場に向かっていた。
四組は木俣公子のクラスである。
ゼロ回戦はランダムで選ばれる負け抜け戦のため、出番までの時間を妹のために使うのは、有にとってごく自然なことだった。
戦闘は始まっているだろうか、もう終わっただろうか、まだなら緊張を解そう、勝っていたら共に喜ぼう、負けていたら慰めよう……
様々な状況を考えながら走っていた有は、そのどれでもない、意外な形で妹と出会った。

「あれ、有くんどうしたの? もう終わっちゃった?」

同じように一組へ向かっていた公子と、会場同士をつなぐ通路で遭遇したのである。

「いや、まだゼロ回戦が始まったところ。いつ自分の番が来るか分からないから手持ち無沙汰でさ」
「そうなんだ、こっちも同じくらい」
「そっか。どう? 緊張で寝不足になってたりしない?」
「大丈夫。ていうかね、私、不参加になっちゃった。それで有くんの様子でも見に行こうかなって思って歩いてたの」
「不参加?」
「おかしいんだよ。なんかねー、構成が通らなかったの。どうしてだろ?」
「え、なにそれ、不戦敗ってこと?」
「最初に構成提出するでしょ、その時にエラーになっちゃったんだよ。途心が足りないって」
「途心が……ふーん、妙なこともあるんだなあ。今は大丈夫なの? どこか調子悪いとかない?」
「うん。いたって快調。剣も普通に出せるし」
「それならよかった。でも参加できなくて残念だったかな?」
「うーん……微妙。バトルでも一対一で向き合ったらギクシャクしちゃいそうだったから、ちょっとほっとしたのはあるけど……」
「まあ確かに緊張するよな。真剣勝負だし」
「でも、もしかしたら、言葉じゃないところでなら、何か通じ合えたかもしれないなあって。実際はどうかわからないけど」
「なるほど。感情の向きはともかく、戦う相手のことは強く意識するもんな」
「いつもうまく話せないからさ、こういう、別の方法なら何か変われるかなって思ったんだけど……」
「やっぱり、参加したかった?」
「ちょっとね。でも上手く行ったかわからないし、勝っても負けても余計にみんなとの距離が広がりそうな気もする」
「後でさ、模擬戦とかやってみたら? 旅行中はみんな浮かれてるから、普段より親密になるチャンスは多いと思うよ」
「そうかな。そうかもね……。うん、思い切って声かけてみる」
「その意気だ。一度話せれば結構どうとでもなるもんだよ」
「そうだといいなー」
「……さて、どうしよっかな。思ってたより早く用事が済んじゃったよ」
「有くんはまだゼロ回戦があるでしょ」
「いやー選ばれないかもしれないじゃん。どっちかって言うとその方が嬉しいしなあ」
「私は四組にいてもやることないから、有くんのクラスに見学に行こうかな」
「お、来る? なら、先生に見つからないように、端っこにいた方がいいよ」
「そうする。あ、そういえば一組って……」
「ん?」
「一組にさ、溝漬さんっている、よね?」
「あーいるね。あの子がどうかした?」
「どうって訳じゃないんだけど……たまに廊下とかであの人を見かけると、自分でも不思議なんだけど、なんていうか……嫌な気分になるの」
「んー? 公子と溝漬さんに何か接点あったっけ」
「たぶん向こうは知らないと思う。私もよく知らないでこんな気持ちになるのはどうかと思うんだけど……」
「ふーむ、きっとあれだ、前世で何か因縁があったんじゃないかな。知らない人なのに生理的に受け付けないってやつ?」
「そうなのかな。……今日は、いる?」
「うん、まだゼロ回戦にも選ばれてなかったかな。嫌なら近付かせないようにするけど」
「や、そこまでしなくても。大丈夫。端っこでちょっと見学して戻るね」
「そっか。何かあったらすぐ呼んで」
「うん。ありがと」

それから有と公子はふたり並んで、他愛のない話をしながら、一組の会場へゆっくりと歩いた。
有は公子が戦わずに済んだことに内心ほっとしていたが、公子が語ったふたつの言葉が引っかかっていた。
ひとつは、公子が不参加になった理由。
構成に対して途心が足りないというエラー。
途心不足、それは、致命的な「力の欠如」を意味する。
剣師としての大前提が不足していると言われたに等しいのだ。
しかし、公子に剣師としての問題があるという話を、有は聞いたことがなかった。
それ以前に、緋森高校に入学している時点で、その者は剣師であるはずなのだ。
きっと構成提出時になにかのきっかけで不具合が発生したんだろう……多少無理があっても、有は自分をそう納得させるしかなかった。
もうひとつは、溝漬郁良のこと。
彼女は有と同じ一組の生徒である。
有は確かに以前、溝漬郁良に関する悪い噂を聞いたことがあったが、クラスで見かける彼女は大人しく、特に問題を起こすわけでもなかった。
公子との接点も、公子自身が否定している。
しかし有にとって、問題はそこにあった。
公子が有と話すときに、特定の誰かを悪く言うなどということは、今まで一度もなかったのだ。
しかも公子にとってはクラスメイト以上に縁の薄い人間である。
確かに溝漬郁良には不良っぽい雰囲気があるが、一組に限らずこの学校に不良は少なくない。
公子も自分で自分の感情が不可解だといった口ぶりだった。
公子自身にも解らないのだから、この件に関して有はそれ以上考えを進めることができなかった。
世の中に一人くらいは、パッと見ただけで不思議と嫌悪感を抱いてしまう、そんな人間がいるのかもしれない……そう思うことにした。

100130
マーガレット・ハンドレッド





ゼロ回戦

気付くと僕は公園のような場所にいた。
空がやたらと高くて、地面が近い。
ああ、これは幼い頃の記憶なのだなと思った。
目の前に少年がいた。
年齢は15、6才だろうか。
よく見知った少年だった。
(でも僕は彼のことを知らない)
少年はいつもそうするように、僕の腹を蹴り上げた。
地面に転がった僕を、執拗に踏みつける。

「お前さえいなければ……」

僕はいつも、どうして自分がこんな目に遭うのか分からなかった。
(でも僕には分かる気がする。彼は剣師じゃないと分かるから)
何をしても、何もしなくても、僕は少年に虐げられた。
人目があるときは耳元に囁く怨嗟の言葉で、誰もいなければ暴力で、僕という存在は否定され続けてきた。
そのたびに僕は別のことを考えて、なるべく目の前の悪魔を見ないようにした。
痛みも苦しみも、当たり前のことなんだと。
現実を意識しないようにするしかなかった。
しかし今は違った。
僕は不思議な高揚感を抱きながら、ずっと何かを呟いていた。
少年はそんな僕の様子がますます気に入らないようで、激しく蹴りを入れた。
かわいそうに。
血を吐くような苦痛を味わいながら、僕は少年に同情していた。
好きなだけ蹴るといい。
君はこれから死ぬんだから。
君の、無意味で短い、何の価値もないような一生はここで終わるんだから。
口元が歪み、笑みさえこぼれた。
それを見た少年は、一瞬気味の悪いものを見たような顔をして、すぐさま鬼の形相に変わり、僕の顔を踏みつけようと足を上げた。

「消滅しろ」

自分の声とは思えない、魔女のような壊れた声が、少年の命の灯火をあっけなく消し去った。

「あはは……」

短く笑って、激しく咳き込み、ほんの少し血を吐いて、そこで僕の夢は終わった。


気付くと僕はベッドのようなものに寝かされていた。
光がやたらとまぶしくて、身体に力が入らない。
ああ、僕は負けたんだなと思った。
視線を動かすと、公子がいた。
誰よりもよく見知った顔のはずなのに、一瞬だけ妙な違和感を覚えた。

「おはよう。有くん寝すぎー」
「……おはよう」

まるで緊張感のない挨拶。
いつも通りのはずだった。
しかし僕はその短い言葉のやり取りだけで、違和感の正体に気付いてしまった。
夢、いや、蘇生の過程で再構築されゆく記憶を見たせいだ。
思い出さなくていいことを思い出してしまった、と、最初は思った。
しかしよく考えてみると、僕はそれを思い出すためにこの修学旅行に来たのではないかと思えた。
……言ってしまえば、僕はこの修学旅行に来るために、生まれてきたのだ。

100131
マーガレット・ハンドレッド



僕が生まれてきた意味

僕は全てを理解した。
全てとは、僕と公子のことだ。
さて、何から話せばいいのだろう。
僕は公子の顔をじっと見つめていた。

「どうしたの? まだ眠い?」

公子の声だ。
今はその聞きなれた声が、心に不思議な衝撃を与える。
僕は上半身だけ起き上がり、公子に座るよう言った。
普段と違う僕の態度に何か感じたらしく、公子は素直に近くの丸椅子に腰掛けた。
僕はこれから、公子が不快に思うような話をする。
もしかしたら、公子を深く傷つけてしまうかもしれない。
それはこれまでの僕にとって、最もしてはならないことだった。
だが、今は違う。
これは話さなければならないことだと、僕の心が言っているのだ。

思えば僕にとってこの世界は、上から見下ろす箱庭のような感覚だった。
何もかも、リアリティがなかった。
学校で仲間と笑いあったり、時には怒ったりもしたけれど、まるで演技をしているような空虚感がいつもあった。
唯一、そのふわふわした感覚を忘れさせてくれるのが、公子だった。
僕は公子のために存在している。
なんとなく確信のようなものがあった。
そしてそれは間違いではなかった。

「大事な話があるんだ。よく聞いてほしい」

まっすぐに公子の目を見た。
公子は一体なにごとかと、緊張した面持ちで見返している。

「公子、きみは昔のことを忘れているんだ」
「……はあ」

ぽかーんとした、間抜けな顔だった。
可愛かった。

「ええー、なんだ、てっきり恋人ができたとか、実は本当の兄妹じゃないんだーとか言われるかと思った」
「そんなことじゃない」
「そりゃあ、まあ、昔のことは忘れていくからねえ。小学校の頃とか、ほとんど覚えていないし」
「違うんだ。それよりももう少し、前の話だ」
「小学校より前? あはは、何言い出すの?」

覚えてないとでも思った?
そう言いたげに、ニヤリと微笑んで僕を見返す公子。
僕は公子の言葉を待った。
悪戯っぽいその笑顔が、ずっと続いてくれないだろうか。
そんなことを願っていた。

「覚えてるよ。よく有くんと一緒に遊んでたでしょ。公園で草を編んで冠を作ったり、木登りしたり。
 外に出られない日は一緒にお絵かきして、戸棚のお菓子をこっそり食べたりしたっけ。
 忘れてなんかいないよ、あの頃は毎日がすごく楽しかったんだから」

幸せな日々を愛でるように、公子は窓の外を見ていた。
空が見える。
ありがたい。
今、そんな笑顔で見つめられたら、僕は真実を話せなくなっていたかもしれない。

「それが全部嘘だとしたら?」
「んん? 何言ってるの?」
「おかしいんだよ、公子。どうして小学生の頃の記憶が曖昧なのに、その前のことをそんなに細かく覚えているの?」
「それは、だって……楽しかったからだよ。小学校に入ったら、有くんと違うクラスになったし……」
「公子、小学校に入ってから、きみはいつも休み時間のたびに僕のクラスへ来ていたでしょう。他の人と話をするのが怖いって」
「そう、だっけ……あんまり覚えてないよ……」

こんなに不安そうな公子を見なければならないなんて。
心が痛くてどにかなってしまいそうだ。
それでも僕は話す。
自分が何のために今この場所に存在しているのか知ったから。
成すべき使命を知ったとたん、急激に引っ張られるように、この世界は箱庭から現実になった。
全てが色付き、呼吸をしているのを感じた。
僕はたった今、自分が生きていることをリアルに感じていた。
そしてそれももうすぐ終わる。

「公子、きみは小学校に上がる前に何があったかを、知らなければならない」

100201
マーガレット・ハンドレッド



本当の記憶

木俣家の夫婦は若くして結婚した。
二人は若かったが優秀な剣師であり、非常に高い社会的地位と権力を持っていた。
結婚して間もなく、二人の間に男の子が生まれた。
二人は男の子に有と名付けた。

木俣公子には、かつて、木俣有という兄がいた。
兄と公子は年が10近く離れていた。
公子が5才になる頃から、兄は度々暴力を振うようになった。
親の目を盗んでは、肉体的な暴力、精神的な暴力が執拗に続いた。
公子はそう遠くない未来に心を壊される自分の姿を見た。
なぜ自分がこんなにも追い詰められなければならないのか分からなかった。

有は両親の愛を一身に受け、健やかに成長した。
両親は、あまり良くないことだと分かっていながらも、一人息子への期待を膨らまさずにはいられなかった。
有はその期待に応えるように、成績と身体能力を伸ばしていった。
しかし。

兄はなぜ幼い公子に暴力を振ったか。
答えは嫉妬と、自らの存在意義が消失してしまうことへの恐怖だった。
兄はオーロラメモリーへのアクセスが満足にできなかった。
剣師としての才覚が兄にはなく、公子にはあった。
ただそれだけのことだった。

両親の期待は大きな失望へと変わった。
優秀な剣師の間に生まれながら、剣を扱うことができない子供。
それでも両親はよくできた人間だった。
失望を隠し、それまで以上に優しく息子に接した。
あなたはきっと大器晩成なんだ、無理せずゆっくり頑張りなさい、と、優しく声をかけた。
それがますます有にプレッシャーと劣等感を与えていたとも知らずに。
そして有が生まれてから10年ほどが経った頃、有に妹ができた。
両親は生まれた娘に公子と名付けた。

公子は自分を壊されることに恐怖した。
何度も親に助けを求めようと思ったが、兄に脅されてできなかった。
兄から口癖のように、いつも通りの態度でいなければならないと言われていた。
公子は毎日『いつも通りの自分』を演じ続け、その裏で恐怖と痛みに苛まれ、本当の自分が消えてしまうような気がしていた。
その恐怖から逃れるために、公子は自分の中に小さな世界を作った。
ほんのささやかな、幸福な日常の世界。
苦しい時はいつでもその世界に逃げ込めるように、細部までじっくりと作り込んだ。

公子は健やかに成長した。
そして、有の予想は最悪の形で当たっていた。
公子は幼くして既に剣師としての才能を見せ始めたのだ。
当然、両親の関心は公子にだけ向けられるようになった。
有は自分の存在が限りなく無意味なものに思えた。
誰にも必要とされなくなった自分がこの家から追放され、路頭に迷い、ゴミのように死ぬ、そんな夢を何度も見た。
精神的に追い詰められた有は、妹に手を上げるようになった。
明確な悪意を持って、幼い体と心を陵辱した。
妹が壊れてしまえば僕は見放されずに済む、そんな思考に囚われ、他に何も見えなくなっていた。

ある日、公子の恐怖は限界に達した。
妄想の世界に逃げ込むだけでは解決できないレベルまでそれが満たされ、あふれてしまっていた。

ある日、有は学校の帰りに通る公園で、妹の姿を見つけた。
妹は有を見つけると近付き、何かを言おうとしているようだった。
しかしそれはなかなか言葉にならず、有は苛々とした気持ちを募らせた。
周りに誰もいないことを確認すると、いつもそうするように妹の腹を蹴り上げた。
何なんだお前は、僕はお前のせいでこんなに苦しんでいるのに、嫌がらせのつもりか、お前さえいなければ…
怨嗟を吐きかけながら、暴力はヒートアップしていった。

公子は、それを解決する手段は一つしかないと思った。
それは最も簡単な方法だった。
いったんそれを思いつくと、他に何も考えられなくなった。
今日だ、そろそろ兄が帰る時間だ、今日そうするしかない、迎えに、行こう。
そして公子は公園で兄を待ち伏せた。
しかし、いざ兄を目の前にすると、公子の喉からは何も声が出なくなってしまった。
そんな態度に痺れを切らした兄は、公子に容赦なく暴力を振るった。
公子は地面に転がされて初めて、別に今までの恨みを言って聞かせる必要などないのだと気付いた。

地面に倒れた妹が、ぶつぶつと何か言い始めた。
それはとてもか細い声で、何を言っているのか全く聞き取れないほどだった。
有は妹がとうとうおかしくなったかと思ったが、何故かここで手を緩めてはいけないという衝動に駆られ、妹を蹴り続けた。
しばらくすると、妹はにやりと嫌な笑顔を有に向けた。
有は心底ぞっとした。
妹のその顔は、自分を破滅へと導く死神のように見えた。
今までは大事にならないよう手加減してきたが、今ここで、妹を殺してしまわなければならないのではないか。
そんな焦りが有を突き動かした。
大きく足を振り上げ、妹の華奢な首に目掛けて振り下ろした。

剣を扱える公子にとっては簡単なことだった。
どうしてもっと早く考え付かなかったのかと思うほど、単純明快な解決方法だと思った。
この痛みも今日で終わり。
この苦しみが消えてなくなるなら、何でもしよう。
選択した剣は詠唱剣、儀式剣、滅奏剣。

5/0/0/1/儀20詠滅/公子
5/0/0/0//有


100202
マーガレット・ハンドレッド





公子は兄の暴力に耐え、何を思いながら詠唱を続けていたのか。
その時が訪れ、荘厳な儀式を執り行う剣をどのような顔で見つめたのか。
溜まりに溜まった全ての憎悪を滅する破壊の音を聞いたとき、その瞳に浮かんだ涙は何を意味していたのか。
過剰に増幅された滅奏剣の威力は、人ひとりを消滅させるには十分だった。
オーバーキル。
兄の肉体は文字通り、塵ひとつ残らなかった。

---

「……嘘でしょう? だって……有くんはここにいる……」
「うん。僕はここにいる」
「有くんは私のお兄ちゃんだよね……?」
「違う」
「じゃあ誰なの……」
「僕は、きみだ」

---

全てが終わった安堵は一時、すぐに現実が公子の目の前に押し寄せてきた。
自分の手で兄を消し去った。
なんてことをしてしまったのか。
幼い精神には重過ぎる現実だった。
しかし精神的に追い詰められた時どうすればいいかを、公子はよく知っていた。
心を守るために作り上げた空想の世界へ逃げること。
兄に殴られるたびそこへ逃げ込んでやり過ごしたのと同じように、自らの手で兄を殺した事実を夢だと思い込むしかなかった。
これは悪い夢。
怖い兄なんていない、今日も優しい兄と一緒に遊んで、これから一緒に帰る。
遊び疲れて少し眠ってしまって、怖い夢を見たけれど、目が覚めれば兄がそっと見守ってくれている。
空想の世界に生まれた理想の兄の姿を、公子は残響剣で現実に投影した。
20ターンが経過する度に更新されるもう一人の自分。
誰よりも公子に優しく、決して傷つけず、苦しみも醜い感情も全て包み込んでくれる。
公子だけを愛してくれる、公子のためだけに存在する優しい兄。
それが、新しく生み出された有の全てだった。

当時、両親は(本当の)有が公子に乱暴を働いていることに薄々勘付いていた。
しかし現場を押さえることはできず、二人に問いただしても返事をはぐらかされ、公子の身体にはアザひとつ見当たらない。
恐らく回復剣を使っていたのだろう。
こうなると、両親には最早手の出しようがなかった。
そしてその日、公子が自分と同じ顔の男の子を兄と呼びながら連れ帰った時に、両親は全てを悟った。
二人をここまで追い詰めていたことにショックを受け、何もしてやれなかったことに、自分たちの無力を嘆いた。
そしてその償いにと、せめて公子の心の傷を癒そうと考えた。
二度と帰らないであろうその日までの有を忘れ、公子が兄と呼ぶ子を新しい有として迎え入れることに決めた。
家を変え、学校を変え、学年を変えて、全てを新しく始めた。
成長するに従って公子の記憶は、かつて自らが望んでいた空想の記憶に置き換えられていった。
有を兄と疑うことなく。
うまく友達を作れない自分に、いつも手を差し伸べてくれる優しい兄の姿があった。

100203
マーガレット・ハンドレッド



きみ

「……私が有くんをつくったの?」
「うん」
「嘘だよ」
「本当だ」
「信じられないよ……そんなの……」
「公子はゼロ回戦に参加できなかった。足りなかったんだ。僕を生成するために使っていた分の途心が」

公子の目元は涙でぬれていた。
僕が泣かせた。
誰よりもこの子を泣かせてはいけないはずの僕が。
……本当にこれでよかったのだろうか?
今まで問題なく暮らしてきたのに、今さら古傷をえぐるような真似をする必要があったのか?
躊躇いはしかし、心の奥底から湧き上がる使命感に叱咤される。

僕はこれまで死んだことなんてなかった。
誰だってそうだ。
ライフもソウルもなしに一度死んで生き返るなんて経験はめったにあるものじゃない。
だから公子が幼い頃に組んだシステムも対応できなかった。
僕の、いや、僕は本当は公子だから、公子の本当の記憶をそのまま再構築してしまった。
この修学旅行に来なければ、僕と公子はずっとこのままだったのかもしれない。
どちらが幸せだったのか、今ではもう比べることができないけど、きっと公子はこうなることを望んでいた。
僕には、僕にだけは分かる。

「どうして今、そんなことを私に教えるの? 知らなければ、ずっと幸せだったのに……」
「本当に?」
「……」
「過去を幸せな幻想にすり替えて、どれだけ自分を騙しても、公子の心は傷ついたままだった。
 他人と接するたびにあの日の恐怖が蘇って、誰とも親しく話すことができなかった。
 ……過去の傷が痛くて足を引きずりながら、その傷がどこにあるのかも忘れて、それでも幸せだった?」
「そんなの……幸せじゃなかったなんて言えないよ。私はずっと有くんに支えられてきたんだ。その時間を、幸せじゃなかったなんて……!」
「僕は公子の心を守るために生まれてきた。だから、そう言ってもらえるのは本当に嬉しい。
 でもね、僕は公子自身でもあるんだ。僕の中の公子が、強く望んだからこそ、こうして話している」
「私が……? 何を望んでいるの……?」
「過去との決別。にせもので覆った本当の過去を受け入れ、決着を付けること。そうしなければ前に進めないことを、きみはもう知っている」
「でも私、何も思い出せない……」
「僕の生成に使っていた分の途心を回収すればいい。僕の記憶は、きみの記憶に戻る」
「それって……」

それがどういう意味なのか、公子は即座に理解したのだろう、言葉を切って口を噤んだ。
このまま言葉を止めていれば、時間も止まってくれると願うように。
でも僕は、公子がどんな結論を出すか分かっていた。
僕は世界中の誰よりも公子のことを理解できる。
僕が公子に真実を話そうと決めたのだ。
それはつまり、公子自身が、本当の記憶を受け入れるのを決めたということ。

きっと、誰も悪くなかった。
両親は出来うる限りのことをした。
持てる愛情を子供たちに注ぎ続けた。
公子が生まれてからも、なおさら有のことを気にかけていた。
ただそれが上手く、伝わらなかった。
有も両親を愛していた。
自分が成すべきことを考えて、必死に努力した。
ただ、剣を扱う才能だけが、与えられなかった。
妹を殴った後はいつも罪悪感と自己嫌悪で嘔吐していた。
やり場のない気持ちを妹に向けることしかできない自分が心底憎かった。
公子は何も分からなかったけれど、自分にできることを精一杯しようとした。
ただ、兄にない力を自分は持っていた。
それは誰のせいでもなかった。
やり場のない苦しみを自分の中に閉じ込め続けて兄を守ろうとしていた。
ただそれをやり遂げるには、公子はあまりに幼過ぎた。

「公子はもう、大丈夫になったんだ。10年とちょっと……長い時間をかけて、きみの心は強くなった。
 幻想に逃避しなくても一人で立つことができるように、僕たちは少しずつ積み上げてきたんだ。
 もう大丈夫なんだよ」

誰のせいでもなかった。
誰も悪くなかった。
ほんの少し、運命の悪戯とも言うべき小さな段差に躓いて、一緒に歩いていた皆が不幸になる。
そんなのはこの世界に数え切れないほどよくある話。
でも僕は、どんなに悲しくてやり切れない理由があったとしても、公子に生み出されて良かったと思っている。
たとえDNAが同じ双子がいたって、それは違う人間だ。
僕は僕としての役割を持って生まれ、それを全うすることができて幸せだった。
公子の逃げ場所として共に歩き、少しずつ強さを身に付けていく。
本当にささやかな役割だったけど、自分の人生という稀有な贈り物をもらえたことに、感謝している。
この気持ちは言葉では伝えないでおこう。
公子が僕の記憶を受け取った時に、そっと伝わればそれでいい。

「有くん、私は……強くなれたのかな」
「僕が保証する」
「でも一人になるのは寂しいよ」
「一人じゃない」
「また同じように逃げ出しちゃうかもしれないよ」
「いいんだ。誰でも辛い時はある。その時は誰かを頼っていいんだ。いけないのは、自分だけで解決しなければならないと決め付けることだ」
「有くんは、寂しくないの? 勝手に生み出して、って、私のこと恨んでないの?」
「寂しいことなんてないんだよ。恨むはずもない。証明することだってできる」
「……どうやって、証明するの?」
「そうだね。それは、きみにしかできないことだ。公子」
「うん。……今まで、ありがとう。有くん」

そして僕は、最後の20ターンを終える。
長い長い戦いだった。
これから先も公子の戦いは続くのだろうけど、ひとまず僕の役目はこれで終わり。
うまく振舞えていただろうか。
最善ではなかったかもしれないけど、精一杯できることをやれただろうか。
ひとつひとつ振り返りながら、僕はゆっくりと夢に溶ける。
不安も後悔もない。
ビルドの分際でありながら、人並みの自我と人生を与えられたことにただ感謝し、この物語の幕を下ろす。


100206
マーガレット・ハンドレッド



エピローグ

父に電話をかける。
短い発信音の後、留守番電話に切り替わる。
それはそうだ、あの人はいつも忙しそうにしていた。
メッセージを吹き込む。
母にも電話をかけ、演舞場へと向かった。

「すみません、四組の木俣ですが」

一組の担任らしき先生を見つけ、声をかける。
ああ、私は今まで、こんな風に普通に話しかけることが怖かった。
それはきっと、信じられなかったからだ。
でも教えられた。
世界には、私が思っていたよりも少しだけ、無責任に信じたって構わないものがあるんだ。

「ん? ああ、木俣の妹か……。兄ちゃんなら少し前に運ばれてったぞ」
「あの、その兄なんですが、さっき急用ができて、その、帰りました」
「はあ? 帰るってお前……ここ聖域だぞ」
「えーと、両親が……直接迎えに来まして……」
「はぁ……なんだ、とうとう何かやっちまったのかあいつは……ちょっと連絡してみるから待ってろ」

ラフな口調の中に、教師としての責任感、生徒を気遣う優しさ、程よく心地良い無関心を感じる。
適当そうに見えて、実はしっかりした良い先生だなと思った。
他人と言葉を交わすというのは、こういうことだったのかな。
言葉の言い回し、声の大きさ、視線、身振り手振り、膨大な情報が一斉に溢れ出す。
言葉を発し、相手が受け取った瞬間に、何か別の空間が発生するみたいだった。
コミュニケーションを積み重ねて、人と人が心を許していく。
みんな当たり前のように、こんなに大変なことをしていたんだな。

「あー私、緋森高等学校の……」

先生は電話で両親と連絡を取っているようだった。
ちょっとまじめな口調になっているのが面白い。
今話しているのは母だろうか。

「……はあ。……はあ? ああ、はい、そうですか……」

しばらくして電話を切ると、先生は頭をかきながら私に向き直った。

「あーなんだ、知らなかったわ。お前の兄ちゃん病気だったのか」
「…………はい」

なにその設定。
危うく聞き返してしまうところだった。
なんとも突拍子のない話になっているようだ。
しかし本当の出来事の方がもっと突拍子もないことなのだから、仕方ないか。

「ついさっきナントカ検査の結果が来たとかで、緊急に精密検査だかが必要になってどうのこうの……あー、お前は行かなくていいのか?」
「はい、私がいても何もできませんし……兄も、大丈夫だって、言ってくれました」
「そうか。しかし随分と急な話だなあ。四組の先生にはもう言ってあるのか」
「あ、いえ、これから……」
「ん、なら早く行ってこい」
「はい。……あの……ありがとうございました」
「ん? おう。兄ちゃんの分までしっかりな」

きっと、深い意味なんてなかったんだろう。
それでも、去り際の先生の言葉に不覚にも涙がこぼれてしまって、私は足早に立ち去った。
有くんは確かに私の中に生きている。
でも、この世界で呼吸をして、私と一緒に歩いた彼の人生は、確かに終わったんだ。
そう思うと無性に泣けてきて、涙が止まらなかった。
そんな私を見ながら、当の本人は呆れ顔をしていた。

---

「お母さん、私、罪を償わなきゃいけない」

修学旅行から帰った次の日の夜、私はそう切り出した。
父は仕事で遅くなるそうなので、二人きりの食卓だった。

「電話でも話したけど、全部思い出したんだ、私がしたこと。やっぱりきちんと片をつけないと駄目なんだと思う」
「そう……そうだね。あなたが自分の過去にちゃんと向き合ってくれて、良かった。でもね、それはもうできないかもしれない」
「どうして?」
「十年も前のことだしね……」
「それでも私が証言すれば」
「……当時、お父さんとお母さんはね、あらゆる手を尽くして、あなたが作った有を本当の有にしたの。言っている意味、わかる?」
「あ……」

そうか、今になって気付いた。
私と十歳も年の離れた兄が、ある日突然、双子の兄になる。
まるでこれまでずっとそうだったかのように、そっくり入れ替えてしまったのだ。
まったく事件にも噂話にもならないように、異質を日常に溶け込ませるには、どれほどの力が必要だろう。
あらゆる手を尽くして、と母は言った。
事実として、父と母にはそれだけの力があったのだ。
戸籍、出生記録、病院のカルテ、歯型、指紋、警察、学校関係者とその家族、自宅周辺の兄を知る可能性があった全ての人間の記憶……。
想像するだけで眩暈がするような仕事をやってのけたはずだった。
父と母は、幼く身勝手な私のために、全力を尽くしてくれたのだ。
いや、それを差し引いたとしても、自分たちの立場のために、あの一件を公にする訳にはいかなかっただろう。
滅奏剣はほんの一瞬で兄を消し去った。
証拠は何一つ残っていない。
覚えている限りでは目撃者もいなかったはず。
恐らく警察にも手が回っているだろうから、私が自首したとしても無かったことにされるのではないか……。
そしてハッと気付く。

「まさか、もう有くんの記録も」
「大丈夫。さすがにそんなに早くは動けないよ。それに、今回は前と違うしね……」
「違うって?」
「代わりの有はいないし、あなたは今の学校に通い続けたい……でしょう?」
「……うん」

記憶を取り戻して、対人恐怖の原因を知って、それを乗り越えようと誓った。
その時から、少しずつだけど人と話せるようになって、皆と仲良くなれる予感が芽生えてきたんだ。
だから、もし今転校しろと言われたら、正直、つらい……。
母はそんな私の気持ちを全て見通しているようだった。
この人は、両親は、どこまで大きいのだろうと思った。
私が通る道の遥か先を生きていて、道に転がる石を払い、道を塞ぐ岩を砕く力を持っている。
一生かかっても、私はこの人たちに追いつくことなんてできないんじゃないかとさえ思った。

「有は、しばらく休学ということになると思う」
「休学……」
「あの日、電話を貰ってからすぐにお父さんとね、大筋で話を固めたの。公子の意向を聞けなくて申し訳ないと思ったけど……」
「もうシナリオができているんだね」

少し、意地悪だったかもしれない。
母は私の言葉に苦い笑顔を見せた。
それが意味するところは肯定だ。
ごめんなさい、と心の中で謝っておく。
言葉に出さないのは、やっぱり少し、悔しいから。

「そうだね……シナリオ。あなたも知っておいた方がいいと思う」
「うん」
「有は最近になって大病を患っている可能性が出てきた。検査の結果は要精密検査。しかも病気の特徴から、緊急を要するものだった」
「うん、それは先生から聞いた。それで修学旅行の途中で帰ることになった、って」
「そう。そして精密検査の結果、緊急入院、休学……」
「病名は……聞かないでおく」
「半年の休学を経て、闘病生活に専念するために退学……」
「……」
「二年後に……治療の甲斐なく……」
「わかった。わかったから。ごめん」

ただの設定の話だ。
どうやって、いなくなった有くんを自然にこの世界から忘れさせるか、そのためのシナリオ、ただの作り話……。
そう、分かっているのに。
淡々と語られる病気がまるで本当のことみたいで、有くんを死に向けて歩かせていくのがどうしようもなく悲しくて。
少し、涙をこぼしてしまった。
また有くんに笑われるだろうなと思った矢先、案の定、溜息混じりの有くんの声が聞こえた。

(公子、きみが優しいのはとても良いことなんだけどね。どんなことでも、過ぎると良くないっていうのは同じなんだ)

叱られてしまう。
わかってるよ、わかってるけど、仕方ないでしょう、勝手に悲しくなって、勝手に涙が出るんだから。

(そりゃまあ仕方ないけどさ。いいじゃないか、不治の病、薄幸の美少年、哀愁の晩年。絵になるねえ)

もう、なんて不謹慎なんだろう、本人が言ってるにしたって。
自分の死に方を勝手に決められるなんて、嫌だなって思わないの?

(父さんと母さんが公子のために考えてくれたことなんだ。僕は喜んで受け入れるよ)

せめて転校とか、留学とか、失踪とかさ、色々あるじゃない。
なにも死なせなくたっていいのに……。

(僕だけ転校したら不自然だし、転校先の学校に僕がいないのはおかしいだろ。留学だって同じだ。
 失踪したことにしたら、それこそ騒ぎが大きくなる。おまけに公子は在学中ずっと特別な目で見られるかもしれない)

でも……でも……

(公子。本質を見誤っちゃいけない。本当に大切なことは何? 今しているのは仮の話だ。本当の僕はどこにいる?)

有くんは……ここにいる。
私の中にいる。

(そうだ。僕はきみの中にいる。本当に大切なのはそこだろ?)

うん。
わかってる。
わかってるんだ、それは。
でもね、有くんは確かにこの世界で生きていたんだ。
一緒に楽器の練習をしたり、学校で授業を受けたりして、毎日お話して、ご飯を食べて、生きていたんだ。
十年とちょっとだけど、確かにこの家にいたんだ。
靴も、服も、歯ブラシだって、まだ当たり前に残ってる。
一緒に生きていた有くんがこの世界から、みんなの記憶から消えてしまうのは、どうしたって悲しいんだよ。
その原因と結果をお父さんとお母さんが作るのは、なんか、悲しくて仕方ないんだよ……。

(確かに僕はもう、そっちの世界にはいない。それならさ、なおさら、きちんとした結末がなければいけないんだ。
 そうしないと公子はいつまでも、僕の存在をそっちの世界と心の中のどちらに認めればいいか分別がつかないだろ)

……そう、か。
そうか、私、ごちゃ混ぜにして考えていた……?
いや、逆かな、この世界にいた有くんと、心の中の本当の有くんを、別々にして考えていたんだ。
そうだね。
有くんは最初から一人だったんだ。
いる場所がただ変わっただけ、今は元通りになっただけなんだ。
私がずっと、この世界のいなくなった有くんを想い続けていたら、ここにいる本当の有くんに申し訳ないよね……。
私は、この世界の有くんにも、決着を付けなきゃいけなかったんだ。

---

気付くと、私はテーブルに突っ伏していた。
体を起こすと肩にかけられた毛布がずるりと落ちた。
控えめなテレビの音に目を向けると、お茶を飲む母と、いつの間にか帰宅していた父の、ソファに並んで座る後ろ姿が見えた。

私はどうやら、母との話の途中で眠ってしまったらしかった。
母の言葉を遮ってうつむいたまま黙っているので、母は私がよほど機嫌を損ねたと思ったらしく、ずっと私が話し出すのを待っていたらしい。

「いきなりテーブルに頭から突っ込むんだもん、ゴン! ってすごい音して。びっくりしたわー。しかも起きないし」

まじめな話をしていただけに、とても恥ずかしかった。
顔を洗ってきてから、私もソファに腰掛けた。
四人で座っても余裕のある大きさだったから、今は家族全員で座っても広々としていて、少しだけ、心許ないような気持ちになった。

「お父さん、さっきお母さんから話、聞いた」
「そうか」
「有くんのこの先のこと……お父さんとお母さんにお願いする。二人が考えたようにして欲しい」
「……いいんだね?」
「うん。それと、今度のこと、昔のことも、本当に……ごめんなさい。ありがとう」
「いいんだ。気にしなくていい」
「それでね、私やっぱり、お兄ちゃんのこと、罪を償わないといけないと思う。でも、どうすればいいか、わからない」
「そうだな……その機会を奪ったのは、俺たちだ。お前が望んでも罰を与えてくれる人はいないからな……」
「だからお兄ちゃんの両親である二人に教えて欲しいの。『あなたの息子を殺めた罪を、どうしたら償えますか?』」
「馬鹿なこと言うな、お前も俺たちの娘だ。子供の罪は親の責任だ。償わなきゃならないのは俺たちの方だ」
「でも私のしたことは消えない……」
「……そうだな、どうしても何かしたいなら、有のことを知ってやることから始めたらどうだ」
「えっ……?」
「お前はまだ小さかったから、有のこと何も知らなかっただろう。アルバムも何も、記録は残してないが、ここにだけは残っている。ずっとな」

そう言うと父は、自分のこめかみを指差して見せた。

そうだ。
まずは、ここから始めようと思った。
兄はどんな風にして生まれたのか。
どんな食べ物が好きで、どんな本を読んだのか。
父と母から、兄の存在を心の中に受け継ごう。
あの日、この世界から消え、自分の生きた記録さえ最初から否定された兄を、もう一度構築して私の世界に生み出すこと。
それが私にできる唯一の贖罪だと思った。



おわり