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赤い世界の話
1




 突然、何の前触れもなく周りの音や景色が無機質になり、気付くと別の場所に立っている。
 いつからか、そういうことが度々起こるようになっていた。
 記憶が飛んでいる間の私は一見普段と変わらないようでいて、どこか薄ら寒いような気持ち悪さがあるのだという。
 例えば喋るぬいぐるみが壊れて、いつものセリフが不快な音程になってしまったかのような。
 そうしていつしか、親しかった人たちは、私の周りから次々といなくなった。誰もが私を遠巻きに見るようになった。



 赤い廊下を歩いていた。
 視界が赤で満たされて、頭の奥がクラクラする。
 ここは校舎の四階。
 ついさっきまで私は屋上に上る階段を探していた。外から校舎を見上げた時、屋上にフェンスがないように見えて、それが心を引いたのだ。
 ほどなくして目的のものは見つかったが、現実は非情だった。『階段室』と書かれた扉のドアノブに手をかけてみると、まるで石のように動かなかった。
 屋上にフェンスがない理由は、最初から学生を立ち入らせる予定がないからだろう。
 望みを絶たれた私は、放課後の校舎をぼんやりと歩いていた。
 遠くから聞こえる部活動の掛け声や笑い声を意識するたびに現実感が薄くなっていく。今すぐにでも膝から崩れ落ちて床に身を横たえてしまいたいという誘惑が頭をもたげる。
 私は酸欠になった金魚のように近くの窓にすがりつき、それを開け放った。
 見下ろすと地面は遠く、強烈な眠気に似た感覚が意識を塗りつぶしそうになる。このまま目を閉じてしまったらどれだけ心地よいだろう。
「アコ」
 ふと背後から声が聞こえた。やわらかくて優しい声。
「どうだった?」
 白昼夢の中にいたような混濁した意識はいっぺんに吹き飛び、私は現実世界に帰ってきた。
「ええと……」
 私は返すべき言葉を見つけられないまま、気まずく視線を動かした。
 彼女の顔を直視できない。
「このくらいの時間になると、あんまり人いないんだよね」
 彼女は赤い夕日に照らされていた。ふわりとした髪が燃えるように輝き、影になった瞳はあやしげな紫色をたたえているように見えた。
 彼女は可愛い。
 細くて色素の薄い髪、日焼けしない肌、茶色の瞳。
 まるで作り物みたいだと思う。
 こうして一緒にいると、その姿に見とれて声を失ってしまうことがよくある。
 思考が散漫になり、会話は上の空に。優しい声は言葉の意味を霧散させ、その音だけが頭に響く。
 私はその残響を追いかけて、どうにか返事をする。
 きっと間抜けなタイミングで、間抜けな受け答えをしているのだろう。彼女は小さな体を震わせて笑う。
 私は、そんな反応が嬉しくて、涙が出そうになるのだった。
「そろそろ帰ろっか。部員探しは明日でもできるしね」
「……はい」

 そういえば、彼女と初めて会ったのも、こんな日だった。



 私はこの学校に入学してすぐに弓道部に入った。
 なぜ弓道だったのか、理由はもう思い出せない。
 地味な筋トレなどを経て、いよいよ本物の弓を触らせて貰えるというタイミングで、例の病が訪れた。
 気付いた時、私は大勢の人たちに囲まれていた。
 詳しいことはよく分からないが、どうやら私は周りの制止を無視して、決して撃ってはならない時に弓を引いたらしい。
 戸惑う私の体中に、何十もの無言の瞳が突き刺さっていた。
 私は弓道部を辞め、私という存在そのものを隠しながら学校に通わなければならなくなった。
 それまで私を腫れ物のように扱っていた人たちが、今度は積極的に避けるようになった。
 今までゼロだと諦めていたものが、まさかマイナスにまでなろうとは。
 私はひとりだった。

 ある日、廊下を歩く私に、突然声をかける人がいた。
 放課後の誰もいない校舎。
 斜めに差し込む日差しが壁も床も全て同じ色に染め上げている。
 そこに立っていたのもまた、同じ色に染まった女の子だった。
 細い髪と色素の薄い瞳。それらが、燃える夕焼けと混ざり揺らめく。
 その景色を見た瞬間、私の中で何かが弾けた。
 この世のものではない、と思った。
 時間が止まり、現実との接点が絶たれ、空気が固まる。
 その姿は私の脳と網膜に強く強く焼き付いた。
「ねえ、何か部活、入ってる?」
「……いえ」
 停止していた時間は一瞬。
 しかしそのインパクトは、体中の力をすっかり吸い取ってしまっていた。
 その場に膝をついてしまいたい衝動を理性でなんとか抑えつけ、かろうじて喉から声を絞り出す。
 目の前の非現実的な景色と、彼女の口から発せられた「部活」というありふれた単語が噛み合わないまま、頭の中をぐるぐる回っていた。
 我ながら、そんな状態でよくマトモな返事を返せたものだと思う。
「あ、やっぱり。あのね、部活の勧誘なんだけど……」
「はい」
「歴史編纂部っていうの」
「はい」
 そうして私は歴史編纂部に入部することになった。



「ミナカミ、アユコちゃん?」
「はい」
「うーん、アユコちゃんね……アコちゃんて呼んでいい?」
「……」
「あ、いきなり馴れ馴れしかったかな」
「いえ……嬉しいです」
「それはよかった。私はユウ。キシマ、ユウ。でも名前で呼ばれるのは恥ずかしいから部長って呼んでね」
「はい……部長」
 歴史編纂部には小さな部室があった。
 細長く狭い部屋に窓はひとつ。壁に備え付けられた棚には電気ポットが光っていた。机と椅子を置けばもういっぱいだ。
 部長と向い合って座ると、必然的に距離が近くなり、呼吸が止まってしまいそうだった。
「狭くてごめんね。でも、狭い場所ってなんだかドキドキしない?」
「はい。秘密基地みたいです」
「でしょー」
 少し話してみると、部長は第一印象とはずいぶん違うということが分かった。
 思っていたよりもずっとおおらかで、生き生きしていて、活力に満ちている。
 彼女は輝いていた。
「あの、私は何をすればいいんでしょう」
「んー……それがねえ、実はこの部、いま私とアコちゃんの二人しかいないのよ」
「はあ」
「五人部員を揃えないと廃部になっちゃうので」
「はい」
「しばらくの間は勧誘活動をメインにやって行こうと思っているわけです」
「勧誘ですか」
「そ。私がアコちゃんを誘ったみたいにね」

 数日が過ぎた。
 放課後の勧誘は、予想以上にはかどらなかった。
 部長と二人で校舎を歩き回り、部活に入っていない人を探す。
 たまに図書館に寄って歴史の本を探したり、二手に分かれてあてもなく校舎をさまよい歩いたり。
 決まって最後は部室でお茶を飲み、他愛のないお喋りをして、暗くなってきたら部活は終わり。
 帰り道も一緒に並んで歩く。
 部長が振ってくれる話題に、私は不器用な相づちを打つ。
 私が的外れな答えをすると、部長は嬉しそうに、可愛い声で笑ってくれる。
 しばらく、そんな毎日が続いた。
 何事もない日々がたまらなく幸福だった。
 気付くと私たちは朝も待ち合わせて一緒に登校するくらい親しくなっていたけれど、相変わらず部員は増えなかった。
 放課後の校舎は驚くほど人が少なくて、まるで違う世界のようだった。

 そもそもこの学校には、部活動に入っていない学生自体がほとんどいなかった。
 暗黙の了解のような形で何らかの部活動に参加するのが当たり前になっていて、部活動に入らない学生は、担任や進路指導の先生からそれとなく何らかの活動に所属することを勧められるのだ。
 それをはねのけてまで拒み続けるのは、いわゆる不良くらいのものだった。
 私のような例外を除けば。
 弓道部を辞めた後、私が先生たちからそのような話をされることは一度もなかった。正確な理由は分からないが、なんとなく想像はついた。
 部長と出会うまでの間、私は自分が不幸を撒き散らす病原菌にでもなったかのような心持ちだった。
 単に気味の悪い人間というだけではない、覚えていないとはいえ、まさか自分が他人に危害を加えるような人間だとは思わなかった。
 いや、覚えていないというのはより性質が悪い。
 それはつまり、私は知らないうちに他人に危害を加えてしまう可能性があるということだ。
 そんな危険な人間が何食わぬ顔で学校に通い、社会に溶け込んでいるというのは、恐ろしいことだと思った。
 ショックだった。
 なぜこんなことになってしまったのか。
 そしてなぜ自分は今こうして自由にしていられるのか。
 いつ自由を奪われ、この世界から隔離されてしまうのか。
 考えるほどに恐ろしくなった。
 同時に、自分なんかがのうのうと生きていることが申し訳なくて、消えてしまいたくなった。
 そんな気持ちをずっと抱いていた。

 でも今は違う。
 あの日、部長に声をかけられた時から、私の世界はすっかり変わってしまっていた。
 記憶が飛ぶ頻度は激減し、その度合いも軽くなった。多少頭がぼんやりしても、部長のことだけを考えていられた。
 少しずつ、部長に手を引かれながら自分の体を取り戻していくようで、それがとても嬉しかった。
 部長は私と普通に話をしてくれた。時々会話が噛み合わなくなっても、むしろそれが楽しいと言ってくれた。その言葉に私はどれだけ救われたことか。
 どうして部長は、こんな私に手を差し伸べてくれたのだろう。
 ……いや、もう理由なんてどうでも良かった。
 あの日私は部長に救われた。それだけで十分だった。自分の名前も、この病気も、嫌いなものは全て、全て部長がひとかけらずつ修理してくれた。
 この感情を何と呼べばいいのか。
 感謝、だけではない。嬉しいのに苦しくて、様々な気持ちが渾然となり、ただ胸の中で膨らんでいく。
 部長のことだけを、考えている。
 その感情が恋というものだと知るのに、そう時間はかからなかった。

 しかし、想いが高まるほどに、ある一つの不安が首をもたげ始めた。
 私の症状は本当に良くなっているのだろうか?
 実はたまたまそう見えるだけで、ある日突然、弓道場の時のようになってしまうのではないか?
 そしてその時、たまたま部長が近くにいたとしたら。私は自らの手で、部長を……
 恐ろしかった。
 それはとても恐ろしい想像だった。



「私、部長のことが好きです」
 ある日の放課後、部室にて、私はそう告げていた。
 何の脈絡もなく、突然に。
 何も考えずに気持ちを言葉にした。
 もう限界だった。
 部長への想いが募るにつれて、それを覆うように恐怖がどんどんと増していく。どうにかしてこのドロドロとした感情を吐き出さなければ、頭がおかしくなってしまいそうだった。
 だから私は自らの手で幕を引くことにした。最悪の結末を迎える前に。
 でも、いざ決心して出てきた言葉は、たった一言だけだった。
 単純にあなたのことが好きで。でもこの気持ちは決して軽いものではなかったのだと、そう伝えたいのに。
 吐き出せなかった感情は体温となり、涙となり、ただただ外へと流れ出ていった。
「えっ……と……?」
「好きです。声をかけてくれたあの日からずっと……好きでした」
 全てが終わった。
 きっともうここにはいられないだろう。
 これでいいと思った。
 自分で自分の好きな人を傷つけてしまうかも知れないという恐怖に耐えられなかった。
 他に選択肢はないと思った。
 それでも……
 なぜだか無性に悲しくて、馬鹿みたいに涙が出た。
 きっと私は壊れていた。
「どうしたの急に?」
「すみません」
「どうして謝るの?」
「……すみません。私、もう、ここには」
 立ち去ろうとする私の頭に、突然、部長の手が触れた。
 私の言葉を遮るように、小さな子供にそうするように。
 じわりと、触れられた部分が熱くなっていく。部長から体温を送られているみたいだと思った。
 それは頭から首を伝わり、心臓とお腹を温め、やがて足先にまで巡っていく。
「ねえ、私の話、聞いてくれるかな」
「……はい」
 たった今まで、そのあたたかい手を振り切って部室を出ていこうと思っていたのに。
 私の足はすっかり熱に飲み込まれてしまって、一歩も動けなかった。
「アコに声をかけた日……あの時ね、実は私、アコのこと、知ってたんだ」
「え……?」
「ごめんね……弓道部の事件のこと、知ってて声をかけたんだ。この子なら、落ち込んでる今なら簡単に勧誘できるんじゃないかって……」
 部長の表情は、窓からの逆光で影となって、よく見えなかった。
 ただ、声が震えていた。
 声だけじゃない。
 頭に乗せられた暖かい手も、少し、震えていた。
 怖いんだ。
 怖かったんだと思う。
「私ね、私……何も知らないふりをしてアコのこと、利用してたんだ」
「……」
「ずっと、謝らなきゃって思ってた……でも……入部してもらえて嬉しくて……毎日、お喋りしたり、一緒に帰ったり、すごく楽しくて……」
「あ……」
「それでずっと言えなかったんだ。ごめんね」
「そんな」
「だから……好きなんて言ってもらえる資格ないんだよ、私」
 部長の目は赤くなっていた。
 頭に乗せられていた手も今は少し離れ、遠慮がちに、所在なさげに宙に浮いている。
 その様子が、なんだかとても悲しいと思った。
 途端に、猛烈な寂しさと、置いて行かれるような感覚が心の底から沸き上がってきた。
 それは私の心を押し上げ、無理矢理に声を出させた。

「違います! 資格とか、そんな……そういうことじゃなくて、例え部長が私を利用していたとしても、声をかけてくれて、誘ってもらえて、私は嬉しかった!」

「部長は、申し訳ないとか、そんなことひとつも思わなくていいんです! 本人がそう言ってるんです!」

「だって私はもう」

「他のことはどうでもいいくらいに好きだから」

「だから……」

 ……だから?
 だから私を利用したことは許すから、私の恋人になれと?
 違う。
 そうじゃない。
 でも、部長が私に対して負い目を感じていたことが嬉しいんだろう?
 私と一緒にいて楽しかったと言ってくれたことに心底ホッとしているんだろう?
 何を喜んでいるんだ。
 何を安心しているんだ。
 勘違いするな。
 期待するな。
 醜い心。
 私は何のために告白したんだ。
 全てを終わらせるためだろう。
 さよならをするためだろう。
 矛盾だらけの心。
 それなら、最初から黙っていなくなればよかったのに。
 最初から。

「……勝手なことを言って、すみません」
 勢い良く溢れ出た感情の水流は、あっという間に勢いを失ってしまった。
 体から、心から、ただ熱量だけが流れ出し、しぼんでいくのを感じた。
 私は自分勝手だ。
 いつも、いつも、自分で自分のことが分からなくて不安で、明日のことを考えるだけで絶望に包まれていた。
 そのうち何も望まなくなったと思っていたけれど、心の奥底で欲望は生き続けていたらしい。
 ずっと欲しかった。
 キラキラ輝くような時間じゃなくてもいい。
 せめて自分自身だけでも信じられる日々を。
 確かな理性を。
 ただそれだけをずっと願っていた。
 でも部長は、ある日突然、それを全く違う方法で叶えてくれた。
 私は、部長のことだけは、全てを賭けて信じることができた。
 不安を全部放り投げて、何も考えずに、部長の背中だけを追うことができた。
 それはなんと心安らぐ時間だったのだろう。
 本当に楽しかった。
 幸せだった。
 ずっとずっと願っていた時間。
 でも私はそれ以上を求めてしまった。
 自分だけを見て欲しい。
 その気持ちに気付いた時、安らぎの時は終わってしまった。
 その思いは、部長を盲信することで誤魔化していた不安を再認識させ、部長を傷つけることへの恐怖を生み出し始めた。
 自分が気付かないうちに、自分の手で、愛する人を傷つけてしまうかもしれない。
 私はなぜ、好きだなんて言ってしまったのだろう。
 傷つけたくないのなら、『辞めます』と、ただそれだけを言って身を引けば、それでよかったはずなのに。
 最後に自分の気持ちを伝えたくて、それで……
 ……どうしたかったんだ、私は。
 一つも失いたくなかったのに、その気持ちが大きくなりすぎて、失うのが怖くなって、自分から離れようと思ったのに。
 私は弱い。
 弱いくせに自己満足だけは欲しがる卑怯者。

 もう、口を開くな。
 お前が何を思おうと自由、しかしそれを表に出すな。
 もっと潔くあれ。
 もっと慎み深くあれ。
 恐れることはない。
 ただ、あの日々に戻るだけなのだから。



 ハッと意識が急浮上した。
 また少し記憶が飛んでいたのだろうか?
 いや、違う。
 突然の音。
 視界がぶれる。
 平衡感覚を失う体。
 衝撃。
 一瞬、何が起きたのか分からなかった。
 急速に意識を現実に引き戻し、状況を把握しようと目の焦点を合わせる。
 体が自由に動かなかった。
 ぴったりと密着するように、体温の塊に縛られている。
 私は部長の腕に抱かれていた。
 それを理解すると、徐々に自分の脈拍が聞こえ始めた。
 周囲のノイズが耳に入り、暑い空気を感じる。
 腰の力が抜けて、ゆるゆると床に座り込むと、部長も一緒にくっついてきた。
 私は初めて陸に上がった生き物のように呼吸をしていた。
 部室の窓から射す夕日が少しずつ落ちていくのを何の意味もなく見ていた。
 何も考えることができなかった。
 思考のための力が全てなくなってしまったようだった。
 眼に入る光、肌に感じる熱、耳に聞こえる呼吸音、鼻に感じる微かな甘い匂いが、意識のフィルターを無視して入り込んでくる。
 やがて声が聞こえた。
「行かないで」
 耳元で空気が振動して、ふわふわの髪が頬に当たって、少しくすぐったかった。
「どこへですか?」
「わからないけど……」
「……」
「あのままどこかに行っちゃいそうだったから」
「……部長が望むなら」
「ばか」
「はい」
「はいじゃない」
「すみません」
「……やっぱり、怒ったよね? 弱みにつけ込むなんて、最低だよね」
「いいえ」
「それなのにね、嬉しかったんだ。アコに好きって言われて。自分でそうなるように仕組んだのに。本当に、最低」
「最低じゃありません」
「私、わざとあなたに好かれるように振舞っていたんだよ。部活を辞められないように」
「私にはそれがとても嬉しかったんです」
「……どうして怒らないの?」
「さっき言った通りです。部長がどう思っていようと、私は部長のおかげで本当に救われたんです。その事実は変わらないんです」
「……」
 そこで会話は止まる。
 きっとお互い、溜め込んでいた気持ちを出し尽くしてしまったのだ。
 そして私は、自分が今どんなことを口にすべきかを思い出した。
「部長。さっき言った通り、私は部長のことが好きです。……部長の返事を、聞かせて欲しいです」
 私に残されているのはただ、収束を促すことだけ。
 もう日も落ちた。
 終りにしなければならない時間だった。
 部長は優しいから、嘘でも私のことを好きだと言ってくれるかもしれない。
 でもそれはきっと、私が部長に向けて言う好きとは意味が違うのだろう。
 あるいは一息に切り捨ててくれるかもしれない。
 どちらにしろ、私はもうこの場を去るしかないのだ。
「好きだよ」
 ああ、やっぱり部長は優しい。
 こんな私と話してくれた。
 抱きしめてくれた。
 最後に……一番欲しくてたまらなかった言葉までくれた。
「ありがとう、ございます」
 そしてさようなら。
 短い間だったけれど、私はもう一生分の幸せをもらいました。
 そう言って部長の手を解き、立ち上がって部室を出て行こうと思っていた。
 思っていたのに。
 私は動けなかった。目の前に部長の顔があった。それも、とても近くに。
「考えたんだけどさ」
「……?」
「どうしたらあなたが私のことを信じてくれるかって」
「部長のことなら全部、信じています」
「嘘だね」
「本当です」
「嘘だよ。だから私の言葉を信じてもらうためにはどうすればいいか……」
 甘く熱い吐息が肌をくすぐる。
 ゆっくりと部長の顔が近づいてくるのを、幻のように見つめていた。
 あと十センチ。
 こういう時は目を閉じなければいけないんだっけ。
 そんな間抜けなことを考えていた。
 あと二センチ。
 もう空気を越えて体温すら感じられる。

 コンコンと、ノックの音が部室中に響いた。

 声にならない声が出た。
 驚いた。生まれて初めて世界を見た瞬間の次くらいに驚いた。
 部長の唇は私の唇をかすめて方向転換していく。
 すっと私から離れると、部長は制服の乱れを軽く整えてから扉に向かっていった。
 私は床に座り込んだまま呆然としていた。
 心臓が激しく音を鳴らし、体中が発熱している。
 今のは、部長から私に、キスを……しようとした、のだろうか。
 いや、他には考えられないが、それにしても、とても現実とは思えない。
 かすかにうずく唇の感触が、何度もその瞬間をリフレインさせた。
「……入部希望なんですが」
 抑揚のない平坦な声が聞こえた。
 部長の背中越しに、メガネをかけたポニーテールの女の子の姿が見えた。
 彼女は電気もついていない部室を不審そうに一瞥して、それから正面に立っている部長を観察するように眺めた。
 その様子を見ているうちに急激に現実感が戻り、私は猛烈な恥ずかしさを覚えた。
 急いで立ち上がり、手櫛で髪を整え、スカートのしわを伸ばす。
「あ、張り紙見てくれたんだね。入って入って」
「失礼します」
 にこにこしながら女の子を招き入れる部長を見て、私はさっきまでのやり取りは全部自分の妄想だったのではないかと思った。
 それほどまでに部長の様子はいつも通りで。私は重い石を飲み込んでしまったかのような感覚を覚えた。
 部長はずっと演技をしていただけなのだろうか。

「先に言っておかないといけないんだけど……実はね、いま部員が足りなくて、まともに活動できてないの。しばらくは勧誘活動ばかりになると思うんだけど、それでもいい?」
「かまいません」
 パイプ椅子の硬さを感じながら、私は部長と女の子が話している様子をチラチラ見ていた。
 長机を挟んで向かい側にいるとはいえ、知らない子が至近距離にいるのは非常に居心地が悪い。
 私は部長の横顔を盗み見ながら、完全にタイミングを逸してしまったのだなと思った。
 さっきのことは全てうやむやになり、部の仲間として当たり障りのない関係がこれからも続くのかと思うと、とても耐え切れそうになかった。

「これ、顧問が誰か分からなかったので今持ってきたんですが」
「あー入部届けね。私が預かっておくよ。えーと? 『三ケ山 三月』さん?」
「はい」
「三日月みたい。格好いい名前だね」
「そうですか。どうも」
「うーん……ミツキ……ミカヅキ……ミカ。ミカって呼んでいい?」
「……あ」
「ん?」
「いえ、はい。かまいません。好きに呼んでください」
「じゃあそうしよう、よろしくミカさん。私のことは部長って呼んでね。それで……」

 部長が私に渾名を付けてくれたことに特別な意味なんてない。それは分かっているつもりだった。
 でも、こうして他人にも同じようにされると、自分でも馬鹿みたいだけど、胸が苦しくて仕方がない。
 そんな自分が情けなくて、この場から逃げ出してしまいたいと思った。
 用事があるとか、具合が悪いとか適当なことを言って、どうにか出られないだろうか。
 そんなことを考えていると、不意に、私の手の上に部長の手が重なった。

「おーいアコ、聞いてる?」
「わっ、えっ?」
「自己紹介」
「あっ、えっと、水上です。よろしくお願いします……」

 私はしどろもどろにそう言うのが精一杯で、自己紹介どころではなかった。
 机の下で、部長の手が私の手に絡みついていた。
 指の一本一本を押しあけて、ゆっくりと、部長の指が私の指の股に入り込んでくる。
 肌と肌の擦れる感覚がゾクゾクと脳髄を痺れさせた。
 部長の滑らかな指先で敏感な皮膚をくすぐられると、まるで頭を撫でられているみたいにボーっとしてしまう。

「三ケ山です。よろしく」
「ごめんね、この子人見知りで。こんなに赤くなっちゃって」
「いえ。私も初めての人と話すのは苦手ですので」
「そう? とても落ち着いて見えるけど」

 何気ない会話をしながら、部長は机の下で私の手をぎゅっと包み込んでくれていた。
 なんだかとてもいけないことをしているようで、指先までドクドクと脈打っているのが感じられる。
 熱くて、熱くて、体が中から溶け出してしまいそうだ。
 その状態は、活動内容を説明するために図書館へ行こうと席を立つまで続いた。


「目標は、今度の学園祭までに本を作って発表することなんだけど……」
 図書館は恐ろしく静かだった。私達以外には受付係の人しかいない。
 私は熱に浮かされたような気分で部長の話を聞いていた。
 キスされそうになったことと、手を握られたことの衝撃が大きすぎて、内容が全く頭に入ってこない。
「それじゃあ、今日は自由に資料探しをしてみようか。どんなものでもいいから、気楽にね」
 私は頭を冷やすために、部長から離れて本の群れの中に入っていった。
 こうして途方もない数の本に囲まれていると、そこに記された無数の文字情報に包まれて、世界から切り離されてしまったかのように思う。
 私はこの感覚が嫌いではなかった。
 半ば目を閉じて、ゆっくりと歩く。
 本棚の角を曲がろうとしたところで、向こうから歩いてきた三ケ山さんとぶつかりそうになった。
「ご、ごめんなさい」
「いえ」
 三ケ山さんは私の姿を観察するように上から下まで眺め、腰のあたりでふと視線を止めた。
「手」
「え……?」
「血が出てますよ」
 言われて左手を持ち上げてみると、手の甲に少し赤いものが付着している。
 それはさっき部長に握られた方の手だった。
 いつの間に怪我をしたのだろう。部長の手に血がついていなければいいのだけど。
「どうぞ」
「あ、ありがとう……ございます」
 三ケ山さんが差し出してくれたティッシュを受け取り、手に押し当てる。血は半分ほど乾いていた。
「止まらないようだったら保健室に行った方がいいですよ」
「あ、いえ、大丈夫みたいです。ありがとです……」
 三ケ山さんはしばらく黙って私を見つめていた。
 気まずい沈黙が流れる。
「傷」
「え?」
「深そうですけど、あまり出血してなくてよかったですね」
「はあ……」
「まるで、強く握り締め過ぎて、裂けてしまったみたい」
「……」
 そんなにひどいだろうか、と再び手を上げて見たが、ほとんど跡形もなく治っているようだった。三ケ山さんは乾いた血が貼り付いているのを見て、勘違いしたのだろう。
 視線を戻すと、もうそこに彼女の姿はなかった。

 ふと、部長の声が聞こえたような気がした。
 この図書館はとても広い。
 私は声の方へ向かってふらふらと歩き出した。
「部長……誰と話してるんですか……」
 ようやく見つけたその背中におずおずと声をかけると、ふわりと部長が振り返った。
「どうしたの? 本、見つかった?」
「いえ……」
「そろそろ帰ろうか。ずいぶん長居しちゃったし」
 言われて窓の外を見ると、来た時よりもだいぶ暗くなっていた。いつの間にこんなに時間が過ぎたのだろう。
「あ、ちょうど良かった」
 部長の視線を追って振り返ると、遠くに三ケ山さんが立っていた。
 じっとこちらを観察しているみたいで、少し怖い。
「ミカさん、そろそろ帰ろう。借りたい本があったら借りてきちゃって」
「いえ、大丈夫です」
「じゃあ行こっか。あと一人部員が集まったら、ちゃんと資料探ししようね」
 そうして私たちは図書館を後にした。
 放課後の運動場の脇を通りぬけ、そのまま坂道を下る。部室に戻る予定はなかったので、予め荷物は持ってきていた。
 夜の黒と夕方の赤の境界線の空に、細い一筋の雲が垂直に伸びている。
 風に揺られて木々がザワザワと鳴った。
「あの……部長、変なこと聞いてもいいですか」
「どしたのアコ?」
「部員……何人いないといけないんでしたっけ」
「五人だけど?」
「そうですよね……」
「あ、私、寮なのでここで」
 坂道を降りたところで三ケ山さんが言い、私達は足を止めた。
「そっか。じゃあ……ねえ、ところでミカさん」
「はい」
「それ、剣道でもやってるの?」
 部長は三ケ山さんが持っている棒状の袋を指して言った。
「まあ……そんなところです」
「剣道部には入らないの?」
「ええ。必要ありませんので」
「そう」
「では失礼します」
 そうして三ケ山さんは別の道を歩いて行った。
「行こう」
 三ケ山さんの姿が見えなくなると、部長はさりげなく、本当にさりげなく私に手を差し出した。
「……」
 どうすればいいのかわからず部長の顔を見ていると、部長は仕方ないという風に笑って、私の手を取った。
 途端に、ぐいと体が引っ張られる。声を出す間もない。
 部長に抱き寄せられるような格好になって、ほんの一瞬、唇が温かく湿ったような気がした。
「さっきの続き」
「えっ……え……?」
「好きだよアコ。きっとあなたが私を想うよりも」
「あの……」
 本当なら馬鹿みたいにうろたえてしまうような場面なのに、なぜか自分でも驚くほど頭の中がクリアだった。
 部長の声、表情、風の温度、木のにおい。思考は静謐な湖のように静まり返り、今感じていることだけを冷静に受け止めている。
「私、馬鹿だから、言われたこと、そのまま受け取ってしまいます」
「それでいい」
「……いいんですか、」
「私なんかで、とか言ったら怒るよ。好きな人のこと、悪く言われたら嫌でしょ」
「あの、でも私、信じられなくて……」
「私のことは全部信じるんじゃなかったの?」
「信じられないのは、私の頭です。都合のいい夢を見ているんじゃないかって」
「それなら、夢じゃない証拠をもう一度見せてあげる」
「……」
「どう? 信じてくれた?」
「はい……いえ、もう少しだけ、信じられないかもです……」
「わかった」
 私たちはもう一度影を重ねて、空が紺色に染まるまでずっとそうしていた。

 それから私たちは、いわゆる恋人と呼ばれるような関係になった。
 登下校中、休み時間、放課後と、できるだけ一緒にいられる時間を増やすようにした。休日も部活という名目で学校に行き、一日中二人で過ごしていた。
 なかなか最後の一人の部員は見つからなかったけど、このまま部長を独り占めできるなら、それでもいいかもしれないと思った。
 静かで、何事もなくて、そして幸福だった。
 こんなにも満たされた気持ちで過ごせる日が来るなんて夢にも思わなかった。部長と出会う前の過去に戻って、毎日死ぬことばかりを考えていた自分に、これから嘘みたいな奇跡が起こるんだよって教えてあげたかった。
 私は毎日、部長を見ていた。ぼんやりと写真でも眺めるみたいに。
 美しいその目を、その髪を、その耳を、とても大切に思う。
 それは私にとっての幸福の象徴になっていた。
 もしも部長を脅かすものがいたら、私は決して許さないだろう。
 でも、もしも部長を脅かすものが私自身だったとしたら……?
「大丈夫だよ。私、こう見えて結構頑丈なんだから。ためしに腕相撲でもしてみる?」
 そんな悩みを打ち明けても、部長は笑って慰めてくれた。
 私が部長を傷つけてしまうかもしれないということを、どこまで本気で信じてくれたのかは分からない。話したことで不安が消えることはなかったけれど、この人なら本当に大丈夫なのではないかと思った。
 腕相撲は両手を使っても勝てなかった。

 しかし、そんな平穏な毎日は長くは続かないということを、私は知る。



「部長……具合、悪いんですか?」
「そんなことないよ」
 その日は朝からどんよりと重い曇り空で、校内は昨日の夜に起きたという爆発事故の噂でざわついていた。
 肌にまとわりつくような陰鬱な雰囲気と比例するかのように、その日の部長の様子は明らかにおかしかった。顔色が悪く、ぼんやりとしていて、生気が抜けてしまったかのようだった。
「昨日、何かあったんですか?」
「……ちょっと知り合いから力仕事を頼まれてね。久しぶりに運動したら疲れちゃった」
 嘘だ、と思った。
 昨日、部長は用事を思い出したと言って、部活の途中で一人で帰ってしまった。これまでそんなことは一度もなかったし、態度があまりにも不自然だった。
 何よりその時の部長の瞳は、今まで見たことのないような冷たい色をしていた。
 きっと何かがあったのだ。そしてそのせいで部長は今、こんなに憔悴してしまっている。
 でも、隠すということは、それは私には知らせたくないことなのだろう。
 悔しい、と思った。
 部長をこんなふうにした何かが許せなかった。そして部長がそれを私に打ち明けてくれないことが悲しかった。
 部長は優しいから、きっと私の為を思ってそうしてくれているのだろう。頭ではそう理解しているのだけれど、気持ちや感情は、そこまで割り切ることができなかった。
「私……私も、部長のために何かしたいです」
「どうしたの、急に」
「急じゃありません。いつも思っています。力になりたいんです。私、部長のためなら何でもします。ずっと守られてばかりなのは、つらいです……」
「アコ……」

 思えば、この日がきっかけだったのかもしれない。
 それから私の世界は、歪んでいった。



「その本が実は、この世界の歴史について……」
 ずきりと、頭に鋭い痛みが走る。
 いつものように私は、それに気づかないように振舞いながら、部長に相槌を打つ。
 私の頭の上には、いつの間にか部長の手が乗っている。
 痛みは徐々に熱となり、快感へと変わっていく。
「アコ? 大丈夫?」
 ずきり。今度は肩に痛みが走る。そしてそこには当然のように、部長の手が乗っているのだった。
「大丈夫です。もっとお話、聞きたいです」
「いいよー。それでね……」
 穏やかな日常だった。
 私の体には毎日少しずつ包帯が増えていくけれど、なぜだかそれをおかしいと感じることはなかった。
 部長も特にそれを気にする様子はなく、毎日楽しいお話を聞かせてくれる。その笑顔には、何ら疑うべきところはなかった。
「アコはいい子だね。可愛いね」
 不意にそんな言葉を囁かれるたびに私の心は幸福に満たされて、あらゆる疑問や悩みが消えていく。
 背中に感じる衝撃も、咳き込む痛みも、全てが愛おしかった。

「水上さん、あなたそのままだと死んじゃうよ」
「三ケ山さん……お久しぶりです。どうしたんですか、最近部活にあまり来られないみたいで……」
「あなたは……本当にそれでいいの?」
「あら、こんにちは。久しぶりに顔を見せたと思ったら……何を怒っているの? そうだ、せっかくだから皆で図書館にでも行きましょうか」
「木島部長、これは一体どういうつもり?」
「どう、って?」
「水上さんのことよ。あなたも、彼女も、普通じゃない。なぜこんなことを」
「あなた、今日はもう帰ったほうがいいかもね」
「何を……」
「顔色が悪いよ。きっと疲れているんだね。だからもう、帰ったほうがいい」
「……後悔するよ」
「お大事に」

「三ケ山さん、どうしたんでしょうね……」
「彼女もいろいろあるのよ。家庭のこととか、なかなか他人に言えないようなことが」
「大変……ですね……」
「ねえ、それよりアコ。今日は私の家に来ない? ちょうど両親が遠出しててね……」

 そしてその日、三ケ山さんの忠告通り、私は死ぬことになった。
 すぐ近くに部長の息遣いを感じながら、ゆっくりと意識が遠退いていく。
 今際の際に、ふと懐かしい記憶が蘇った。
 それはまだ私が幼かった頃。
 世界がどこまでも広く不安に満ちていた頃。
 私にはほとんど友達がいなかった。
 同年代の子供達の、獣のようにギラギラとした目や、頭に響く大きな声が嫌いだった。
 そんな風にひねくれていた私のことを、他の皆もまた嫌っていたのだろう。
 私はいつも一人だった。
 ある日、私の前に魔女が現れた。
 彼女は私よりも少し年上のお姉さんだった。
 大きな黒い帽子に、人形のように美しい髪、絵本の中でしか見たことのないような可愛いドレスに胸がときめいた。
「あなたはこの世界が好き?」
「……よくわからない」
「知ってる? 『わからない』は黒い色。『好き』は白い色なんだよ」
「嫌い、は?」
「『嫌い』も白っぽい色だね」
「黒じゃないの?」
「黒い色は、怖いとか不安とか、そういう気持ち。良いも悪いも関係なく、ただそこに横たわっている巨大な海みたいなもの。白い色は、それを明らかにして、踏みならして、進んでいくための道具」
「よくわからないよ」
「そう。あなたは黒の中にいる。だから『好き』と『嫌い』を使って、せめて足元だけでも判別していかなければならない。でもね、ひとつだけおせっかいを言わせてもらうと、『好き』はとても強いの。私はそっちをおすすめするな。もしも嫌われている思っていた子に、実はあなたのことが好きだったって言われたら、どう思う?」
「……わからないけど……たぶん、嬉しいと……思う」
「『嫌い』は、それ以上の『好き』で塗り替えることができるの。もともと同じような色なんだから、とても簡単なんだよ」
 その日から私は、たくさんの『わからない』と『嫌い』を『好き』で塗り替えていった。
 それはまさに魔法だった。
 その魔法を使えば誰とでも仲良くなれた。苦手だなと思った人にこそ笑顔を向けて、敵をどんどん味方にしていった。
 何も怖いものはなかった。
 ただひとつ気がかりだったのは、私に魔法をかけてくれた魔女にお礼を言えなかったこと。
 新しく友達ができたという私の報告を、いつもにこにこしながら聞いてくれていたあの人は、いつの間にかいなくなっていた。
 それから数年が過ぎた。
 私の周りにはたくさんの仲間たちがいた。私は何も恐れることなく、あの日教わった魔法を使って人生を切り拓いていた。
 そして……

 そして?
 そんな私が、どうして今の私につながるのだろう?
 何かがあったのだ。何か大切なことを忘れている気がする。
 でも、私の命は今にも消えてしまう。
 どうしてこうなってしまったのだろう?
 今となっては誰にも答えられる筈もないであろう問いを抱いたまま、私の意識はゆっくりと沈んでいった。


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