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ぴよりあ/メモリア
1



――あの夏は、本当に特別だった。
太陽がギラギラと輝き、草や木の影を真っ黒に落としていた。
空気に潮の匂いが混じり、虫の声が遠くに響く。
風はなく、ゆっくりと時間が過ぎていく。
そんな夏の中に佇む私の隣には、いつも、あなたたちがいた。
何も分からずに苦しむ私の心を、そっと解してくれた。
私が強くなるために必要なことを、知らず知らずのうちに教えてくれていた。

あなたのおかげで、私はこうして一人で立てるようになった。
ようやく立ち上がることができた程度で、まだ一人で歩くことはできないけど……。
それでも、あの頃からは考えられないほど、私は強くなれた。
あなたがいなかったら、私は今もまだ、あの人を困らせていたのかもしれないね。

◇ ◇ ◇

ぼんやりと意識が浮上する。
時計に目を向けると、デジタルの表示は既に朝食の時間を越え、正午へと近付きつつあった。
遅刻だ!
大急ぎで着替えて、バタバタと慌ただしく一階に降りる。
お母さんはのんびりテレビを見ながらお茶を飲んでいた。
「ごはん、いらないから!」
「ダイエットでもするの?」
「そうじゃなくて時間が……ってあれ? お母さん、なんでまだいるの?」
「そりゃいるわよ。休みの日くらい」
「休み……」
慌ててカレンダーを見る。
どれだけ凝視しても、紛れもなく今日は休日だった。
恥ずかしさと情け無さで全身の力が抜けて、私は近くの椅子に座り込んでしまった。
寝ぼけていたとはいえ、高校三年生にもなってこんな勘違いをするなんて。
「ところで公子、あなた何で制服着てるの?」
「……今日はそういう気分なの」
「ふーん。ああ、お休みなんだから、お布団と一緒にあのクッション、クリーニングに出しときなさい」
呆れたような声で、お母さんが言う。
「えー、まだいいよ。大丈夫だよ」
「そんなこと言って、またヨダレのシミ付いてたの、知ってるんだからね」
「ちょっと、なんで知ってるの!」
「見られたくなかったら自分の服は自分で部屋に持って行きなさい」
「むう……」
悔しいけど正論だ。
だからこそ恥ずかしい。
未だにあのクッションを抱いて寝ていることを知られるのも、ヨダレがちょっと垂れちゃったりしているのを知られるのも。
それでも私は、昔より少しだけ大人になって、こう答える。
「……夕方くらいには戻ってくるよね?」
「あはは、今出せばそのくらいじゃない? 一日もあの子と離れていられないなんて、公子もまだまだお子様ねえ」
「もーっ、いいの!」
確かに、この年で未だにぬいぐるみのようなクッションを抱いて寝ているなんて、我ながら子供っぽいなと思う。
でも、あのクッションは特別なのだ。
忘れられない、夏の日の記憶。
そういえば、今朝もちょうどあの頃の夢を見ていたんだ。

◇ ◇ ◇

小学校四年生くらいだっただろうか。
夏休み、私は家族と一緒に別荘を訪れていた。
舗装された大きな道を外れ、轍だけが続く林道へと入る。
しばらく進むと木々が切れ、左手が崖になる。十メートルほどの高さの崖下には海が広がっている。
右手はなだらかな丘のようになっており、一段落ついたところに大きな建物がある。
建物の裏手から少し進むと森に続く道がある。
周りに民家はひとつもない。
崖の前には高いフェンスがあり、間違っても落ちないように配慮されている。
フェンスの途中に鍵のついた扉がある。扉を開けるとゆるやかに蛇行する手すりのついた階段があり、階段を降り切ると砂浜に出る。
砂浜は上から覗いた時の想像よりもずっと広く、三方が崖に囲まれており、目の前には世界の果てまで続きそうな海が広がっている。海水の透明度は驚くほど高い。
さんさんと太陽の光が降り注ぐ、完璧なプライベートビーチだ。
言うまでもなく、この一帯は全て私有地で、関係者以外誰も入ることができない。
目の前に海があり、裏手には木々が茂り……そんな海も山も一緒に楽しめる、夏のためにあるような場所に、その別荘はひっそりと建っていた。
避暑地という所には大抵、何もない。
何もないから涼しいのだろうし、何もないからこそ現実の喧騒を忘れ去ることができる。
自然の風、波の音、ゆっくりと流れる時間……。
子供には少し物足りないのではないかと子供心に考えてしまうほど何もない場所だったけれど、私はそんな田舎の避暑地が大好きだった。
高い日差しがじわじわと、夏の道を白く乾かしていく。
遠く聞こえる鳥の声、木々のざわめき、虫の羽音。
私は海よりも森の近くが好きだった。海は砂が熱々でやけどしそうになるとか、潮風で髪がべたべたするとか、いちいち着替えるのが面倒だとか、あまり子供らしくないことばかり言っていたような気がする。
遠く、僅かに海鳥の声が聞こえるかどうかといったくらいの距離。
風もあまり吹かず、じっとしていると汗がぽたぽた落ちて、じゅっと地面に吸い込まれる音が聞こえそうな、そんな静けさが好きだった。
ここには誰もいない。
ただそれだけのことが、なんとも心を安らかにしてくれるのだった。

有くんは、いつも私の近くにいた。
その日も、じっとしゃがみ込んで蟻の巣を見つめているだけの私に声をかけるでもなく、邪魔をするでもなく、ただそっと近くにいた。
私は地面を見つめたまま、呟くように声を出す。
「夢を思い出しちゃった」
「どんな夢?」
「私は人魚姫で、桃太郎がウロコを狙って船を出すんだけど、私はその船に乗り込んで、人間の足を見せてやるの。そしたら桃太郎はきびだんごをくれたんだ」
「お腹が空いたの?」
「ちょっと」
「じゃあ戻ろうか」
「うん」
夢みたいな時間だった。
朝から、陽が沈むまで、自分の好きな時に、好きなように、好きなことをする。
知らない人は誰もいない。怖いことは何もない。そんな、夢のような場所。
眠る前はベランダから星空を見た。
月の光がとても眩しかったのを今でも憶えている。

ある日、まだ太陽が昇りきらない涼しい空気の中で、私は一本の樹の幹に耳を当てていた。
昨日読んだ本に、木に耳を当てると水を吸い上げる音が聞こえると書いてあったので、どうしても試したくなったのだ。
でも、この辺りにある木の表面はどれもガサガサしていて、耳を当てるとチクチクする。
仕方ないので手のひらを樹の幹に当てて、手の甲に耳をぴったり押し付けてみた。
トクトク、確かに音が聞こえるような気がする。
でもそれは、手の血管に血が流れる音なんじゃないか、とも思った。
もっとよく聞こうと、反対の耳を当ててみたり、息を止めてみたり、目を閉じたりしてみた。
目を閉じると、自分の周りの空気を敏感に感じられるような気がした。
モヤモヤとした生あたたかいかたまりが足元から立ち昇り、時折吹く風がそれをサッと拭い去っていく。
遠くで、ジィー、と声がする。
そろそろセミが鳴き始めそうだ。
ぼんやりした心持ちで、夢から覚めるように目を開けた。
すると、視界の端にスッと白い影が通り過ぎたような気がした。
犬だ、と思った。
白いふわふわの毛をした犬が森の中を走っていく姿を想像した。飼い主とはぐれてしまったんだろうか?
はっきり見たわけでもないのに、なぜだか私はそう信じてしまっていた。
私は森の中に足を踏み入れて、白い影が見えた方へと進んでいった。
「公子、どうしたの?」
突然歩き始めた私に、後ろから有くんが声をかける。
「白いのがいた」
「白いのって? 遠くまで行ったら危ないよ」
「だいじょうぶ」
どんどん進む私に、有くんは心配そうに声をかけながら付いてきた。
どれくらい森の中を歩いただろう。
ずいぶん、時間が経ったような気がする。
見渡す限りが緑だった。
高く茂る木の葉で幾重にも濾過された光がこぼれ、苔むした石や木の根っこに小さなキノコが色を添えていた。
帰り道なんて、もうとっくにわからなくなっていた。
それでも、幻想的な森の景色のせいか、後ろに付いてきてくれる有くんのおかげか、寂しさや心細さを感じることはなかった。
「ねえ有くん、どっちだろう?」
「わからないよ。僕は公子を追いかけるのでやっとだったんだから」
「困ったね。白いの、見つからないね」
口ではそう言いながらも、本当は別に困ってなんかいなかった。
このまま、この森の中で、景色の一部になってしまってもいいと思っていた。
「それよりも、帰り道を探そう。今はまだいいけど、暗くなったら危ないよ」
「うん……」
それでも、足は止まらない。
葉っぱをかき分け、ひんやりと湿った木の幹に触れながら、何かに導かれるように進んでいく。
「そっちで合っているの? 引き返した方が……公子、どうしたの?」
急に立ち止まった私を見て、有くんが訝しげに尋ねる。
「いた……」
木々が開けた場所に、滾々と水が湧き出ていた。
水源の四方はなめらかな石で囲まれている。
まるで井戸が溢れているかのように、小さな湧き水から、泉が、川が、生まれている。
盛り上がる水の縁に、月を地面に落としたみたいに、真っ白な生き物がこちらに背を向けて丸くなっていた。
ウサギに似ていなくもないけれど、それにしては大き過ぎる。
「犬じゃなかった……なんだろう、あれ」
「あれは、ぴよらっとだよ」
振り返ると、有くんも驚いたような顔で白い生き物を見つめていた。
「前に図鑑で見たことがあるんだ。もう野生のはほとんどいないって書いてあったけど……」
「噛まない?」
「大丈夫だと思う」
恐る恐る距離を詰める。
向こうもこちらに気付いたようだった。
その生き物は泉からゆっくりと白い顔を上げ、二本の足で立ち上がり、こちらに向き直ると――
「……こんにちは」
ぺこりと頭を下げて挨拶をした。
白い耳がふにふにと揺れる。

しゃべった!

心の中で、何かが跳ね上がるような感じがした。
恐怖ではない。何かこう、暗い部屋からまぶしい日差しの下に飛び出したような、衝撃。
気付くと私は、その真っ白な生き物を抱きしめていた。
なんてやわらかいんだろう!
マシュマロ――いや、もっともっちりとした、高級な大福みたいな……それでいて、もっともっと力一杯抱きしめたくなるような弾力!
「ねえ、あなたは何? 私、あなたを追いかけて来たの!」
「ぼくは……」
私の腕の中でぎゅうぎゅうと抱きしめられて、なんだかちょっと変形しながらも、その真っ白な生き物は真面目な顔で答えた。

「ぼくは、ぴよらっとです」

◇ ◇ ◇

泉で出会ったぴよらっとをしばらく抱きしめたり撫でたりしていた私は、ふと我に返って手を離し、呟いた。
「そういえば、帰り道がわからなくなっちゃったんだ」
そう言いながらも、心の中ではやっぱり、別に帰れなくてもいいと思っていた。
ここの別荘は好きだけど、夏休みが終わればまた学校に行かなければならなくなる。
学校は……苦手だ。
でも、私が帰らなかったら、お母さんとお父さんが心配するかもしれない。
それにこのままじゃ、有くんも帰れないし……。
「それならぼくがお送りします。あの海の近くにある家の方ですよね」
驚いてぴよらっとの方を見上げると、少し胸を張って一方を指(?)差し、歩き始めていた。
「道、わかるの?」
「はい。この山に来たのは一ヶ月くらい前ですけど、だいたい歩きつくしましたから」
まゆげがキリっとしていた。
ちょっと格好いいかも……。
私たちは、その頼もしい真っ白な背中を追いかけることにした。

てくてくと森の中を歩く。
私と有くんの前を歩く、真っ白な生き物。
ウサギみたいな耳に、丸いお餅のような体。
横に並ぶと、ちょうど私のお腹あたりに顔が来る。
まんまるの黒目に、キリっとしたまゆげ、猫みたいな口。
ちょこんと飛び出た小さな手、絶対に重心を保てないだろうと思うような短い二本の足で、器用に歩いて行く。
小さなしっぽがぴょこぴょこ揺れて可愛い。
「ぼくのせいで迷い込んでしまったみたいで、申し訳ありませんでした」
すまなそうにぴよらっとが言う。
でも、ちょっと振り返って見せるその顔はやっぱり無表情で、なんだか笑いがこみ上げてきてしまう。
「ううん、私が勝手に森に入っただけだから、あなたは悪くないよ」
「案内してもらえなかったら、どうなっていたことか。ありがとう、ぴよらっと」
ぴよらっとの案内で歩く森は、来たときとはまた違って見えた。
神秘的で、俗世の一切を振り払ったように見えていた景色も、足元をよく見ると、獣の足跡や、昆虫の死骸や、枯れた小さな花なんかがあって、それらを発見してから改めて顔を上げてみると、更に景色が深みを帯びたように感じるのだった。
ぴよらっとは迷いなく歩く。
短い足をぴょこぴょこと交互に前に出して、早くもなく、遅くもない絶妙な速度で先導してくれる。
キュートな後ろ姿を見ていると、一旦落ち着いていた好奇心が再び膨らんできて、あれこれ質問せずにはいられなかった。
「ぴよらっとはどうしてしゃべれるの?」
「昔、人間と一緒に暮らしていたことがあるので」
「一緒に暮らしていた人はどうしたの?」
「今は、もういません」
「どうしてこんな森の中にいるの?」
「……ぼくもその理由を探して、旅をしているんです」
「……寂しくない?」
「そうですね……でもぼくは、ぴよらっとですから」
「公子、あまり質問ばかりしたら、ぴよらっとが困ってしまうよ」
子供の無邪気さをまとって無遠慮に質問ばかりする私を、有くんがそっとたしなめる。
それでも私は、聞かずにはいられなかった。
だって私は――
「ぴよらっとにも、友達はいるの?」
「……忘れてしまいました。とても……忘れてしまうほど、昔のことですから……」

やがて、日が傾き、空が夕焼けに染まる頃、私たちは森から出ることができた。
来る時よりもゆっくり歩いたのに、あっという間に時間が過ぎてしまったような気がした。
木々の影はどんどん黒く染まってゆき、昼間は美しいと思っていた森が徐々に恐ろしい闇へと飲み込まれていく。
私は赤い夕焼けと黒い影を見つめながら、この別荘に来て初めて感じる寂しさを味わっていた。
「じゃあぼくはこれで……無事送り届けることができてよかった」
ふにっと頭を下げてから、またひょこひょこと小さな足を動かして、ぴよらっとが森の方へと去って行く。
「本当にありがとう。また会えたらいいな」
そう言いながら、有くんが手を振っている。
私は、段々小さくなっていくぴよらっとの背中を見送って……
「待って!」
叫んだ時には既に、全力で白い背中を目がけて走っていた。
タックルするように柔らかい体を抱きしめると、勢い余って二、三回転ほど地面を転がった。
向こうで有くんが手を上げた格好のまま、えーっという顔をして固まっている。
「ねえ、ぴよらっと!」
「はい」
地面に横になったまま、抱きしめたぴよらっとをこっちに向かせて、私は言う。
「好きな食べ物はなに?」
「……あまり好き嫌いはありません。雑食なので」
「特に、なにが好き?」
「ええと、カレーとか……お鍋とか……豆とか……ぶたにくとか……あとカニカマが好きです」
「じゃあさ、今夜は一緒にカレー食べよう? 豆入りのポークカレー! カニカマサラダ付けて! それで、明日はカレー鍋にするの!」
「ええと……あの……」
スッと、私たちの頭上に、二本の手が差し出された。
右手と、左手。
有くんだ。
「そうだね公子、それはとてもいい考えだと思う。助けてもらったお礼をしていなかったからね」
私とぴよらっとは有くんの手を掴んで立ち上がった。
「とても嬉しいお誘いですけど……ぼくなんかがいいんでしょうか。ぼくは、ぴよらっとだし……」
「きみは昔、人間と一緒に暮らしていたんでしょ? それなら、ぴよらっとが僕たちと一緒にごはんを食べたっておかしくないと思うんだけど」
「……それも、そうですね。あまり昔のことなので、忘れていたみたいです」
「決まり! それじゃ、行こ?」
「はい。……ありがとうございます」
私は有くんの手を離して、ぴよらっとの空いている方の手を掴んだ。
三人で手をつないで歩いて行く。
真ん中にぴよらっと。
左右に私と有くん。
なんだか、ちょっと宇宙人を捕まえた図みたいになってるけど……。
「そういえば自己紹介してなかったね。私は公子」
「木俣有です。よろしく」
「ぼくは……ぴよらっとです」
自然と笑みがこぼれる。
ちょっと覗いたぴよらっとの顔は、相変わらず無表情だったけど。
よく見ると眉毛が少し下がって、夕日が眩しいのか、目もほんの少しだけ細くなって、なんだか笑っているみたいに見えた。

◇ ◇ ◇

「あら……お友達?」
別荘に帰った私たちを見るなり、お母さんはそんな調子外れなことを言った。
「はじめまして、ぴよらっとです」
ぴよらっとがスッと前に出て、ぺこりと頭を下げる。
「まあ、礼儀正しいのね。うちの子たちがお世話になったみたいで」
「とつぜんお邪魔してしまって、すみません」
「いいのよ。さあ、上がって上がって」
……前々から思っていたけれど、やっぱりウチのお母さんはどこか変だ。
いきなり子供たちが人語を解するぴよらっとを家に連れてきら、普通、もうちょっと驚くような気がするんだけど。
でもまあ、おかげで何の問題もなくぴよらっとを家に上げることが出来たんだから、感謝しなきゃなと思った。
元いたところに返してきなさいなんて言われたらどうしようかと、少しだけ心配だったのだ。
「森で遊んでたら迷っちゃって……そしたら、ぴよらっとが助けてくれたの」
「あら、それじゃあ、子供たちの恩人ね。ありがとう、ぴよらっとさん。今夜はゆっくりしていって下さいね」
「そんな、恐縮です。ぼくはなにも……」
「お母さん、ぴよらっとはカレーが好きなんだって。晩ご飯、カレーにできない?」
「あらそうなの。それじゃ、材料はあるから今から作っちゃいましょうか。公子も手伝ってね」
「やった! よかったね、ぴよらっと」
「なんだかすみません……ぼくのために……」
「いいのよ、ここの夜は長いんだから」
「お父さんは?」
「一人で宴会始めちゃってる。何かいいことでもあったのかしらねえ」
そう言っていそいそとカレーの準備をするお母さんも、なんだか嬉しそうだった。

「おいしい。豆とナッツがいいアクセントになって、ふわっとまろやかな中に香ばしさが出ているわね。お肉も圧力鍋で煮てあるから、よーく味が染みていて、口に入れるとホロホロ崩れていい感じ」
出来上がったカレーを食べながら、お母さんが絶賛する。
私と有くんは材料を切ったり、水を入れたりしたくらいで、主にお母さんが調理をしたのだけれど、それでもみんなで作ったカレーは一味違うような気がした。
「サラダもおいしい。お父さん、このサラダはぴよらっとが作ったんだよ。あ、ちゃんと手は洗ったからね。レタスをちぎって、キャベツと人参を千切りにしたんだよ。見て見て、すごく細いでしょ。私もびっくりしちゃった」
「へえ、すごいな。この切り口は見事だ。ぴよらっとさん、もしかして剣の扱いも相当上手なんじゃないか」
「いえ……ぼくは、ただのぴよらっとですから……」
「そうか……いやしかし、俺もカニカマなんて久しぶりに食べたけど、サラダにぴったりだな。なんとも、懐かしい」
赤と白のカニカマをひょいっと箸でつまみ上げて、お父さんが目を細める。
ぴよらっとがお父さんに挨拶した時も、同じような目をして、しゃがんで目線を同じ高さにして、握手してくれたのだった。
お父さんは、あまりたくさんのことを話さない。
私たちから色々聞き出そうとしないし、ああしろこうしろと強く言うこともない。
ただ、その目は雄弁に語る。
その目に見つめられただけで、言葉では伝えきれない感情を、直接流し込まれたような気持ちになる。
今も、お父さんには何か、思うところがあるのかもしれない。
「ねえぴよらっと、ずっと気になっていたんだけど、名前はないの? ぴよらっとをぴよらっとって呼ぶのって、私たちを『人間』って呼ぶみたいじゃない?」
「名前はありません。ぼくはぴよらっとですから」
「そうなんだ……それじゃあさ、私たちで名前を考えようよ。可愛い名前」
そう言いながら私は、お母さん、お父さん、有くんの顔を、交互に見る。
突然の提案に、うーんと首をひねる一同。
それでも、ぽつぽつと案が出てきた。
「ぴよ志というのはどうだろう」
「……何を志すの?」
「ぴよ吉」
「カエルみたい」
「ぴよらティーナ・ザ・U(セカンド)っていうのはどうかしら」
「ファーストがどうなったのか気になるな」
「ぴよ彦」
「どこかで聞いたような」
「ぴよりん」
「もうちょっと男らしい方がいいんじゃない?」
「ぴよらった」
「過去形!?」
皆あれやこれやと好き放題、思いついたままの名前を挙げていく。
当の本人の顔を覗いてみると、ちょっと困ったような表情になっている気がした。
「もう、みんな、適当過ぎー」
「そんなことないわよ。ぴよらティーナ、とってもいいと思うけど」
「ぴよにこだわらなくてもいいんじゃないかな。太郎とか」
「ぴよ夫」
「もーっ、やっぱり私が決める!」
「決めるったって、ぴよらっとさんの意向も尊重しないと」
「それはちゃんとしますー」
このまま任せておいたら、おかしな名前を付けられてしまう。
私はぴよらっとの顔をまじまじと見つめながら、いい名前が浮かんでくるのを待った。
しかし、いざ自分で決めると言ってはみたものの、なかなか難しい。
ポチとか、ペットみたいな名前を付けるのは失礼だし、人間みたいな名前もヘンかもしれない。
うーんうーんと唸っていると、肩をトントンと叩かれた。
「公子、名前を考えるのもいいけど、カレーが冷めちゃうよ。食べながら考えたら?」
有くんだった。
有くんはいつも、私のことを一番に気遣ってくれる。
私がつらいとき、そばにいてくれる。
とても優しい。
空気みたいに優しい。
……そうだ。
「……ぴよくん」
「えっ」
「ぴよくんにしよう。可愛いし、ちょっと男らしいでしょ? どうかな、ぴよくん」
突然ぐいっと顔を寄せてくる私に、ぴよくんは目を白黒させているみたいだった。
「あ……はい。いいと思います」
もじもじしながら答えるぴよくんに、お父さんが横槍を入れる。
「でもそれ名前っていうよりニックネームじゃないか? 丁寧に呼ぶときはぴよくんさんか?」
ちょっぴり顔が赤い。
さっきからビールをゴクゴクやっているけれど、そういえばご飯の前から飲んでいたんだっけ。
酔っ払っているお父さんを見るのは珍しい。
「だからー、名前はぴよらっとだけど、呼ぶときはぴよくんなの。丁寧に呼ぶときはぴよらっとさんなの」
「だからそれってニックネーム」
「ニックネームも名前! カレー食べよっ!」
自分でもよくわからなくなって、強引に切り上げる。
お父さんとお母さんは苦笑いしているみたいだった。

私はふっと素に戻って、スプーンを口にくわえたまま、ちらっと横のぴよくんの様子を伺った。
「……?」
「ぴよくん……」
「なんですか?」
「……名前とかさ、勝手に付けられて……迷惑、かな」
さっきまでとは打って変わって気弱そうな態度の私を、ぴよくんは変だと思っただろうか。
本当は、心の中では、ちょっとビクビクしていた。
ぴよくんと話せたのが嬉しくて、つい舞い上がっちゃって、一人で勝手に盛り上がって。
出会って間もない人間に、勝手に名前なんて付けられたら不愉快なんじゃないか、もしそう思われていたらどうしようって思って、怖かった。
……私は、他人と話すことができない。
どうしてなのか自分でもわからないけど、家族以外の人を目の前にすると、声が出なくなる。
目を合わせられなくて、冷や汗が出てきて、逃げ出したい気持ちになる。
学校のクラスメイトも、先生も、同じ。
でも、学校で誰とも話さずに過ごすことは不可能だ。
どうしても意思を伝えなければならないときは、壁に向かって絞り出すように、言葉を投げるしかない。
そんなだから、私は学校でいつも一人だった。
寂しくて、心細くて、遠くの話し声が全部自分の悪口を言っているような気がして怖くて、休み時間のたびに有くんに会いに行っていた。
それでも私は、心の奥底でずっと求めていたのかもしれない。
授業でわからないところを教えあって、一緒に遊んで、肩を並べて帰って、「また明日」って言って、次の日もまた「おはよう」って言える存在を……。

「迷惑じゃありませんよ。とても嬉しいです。人にこんなに良くされたのは初めてだったから、ちょっと戸惑ってしまったんです」
相変わらずの無表情で、だけどゆっくりと優しく、ぴよくんは言ってくれた。
「……ぴよくん……」
「はい」
「口の周り、黄色くなってる」
「これは失礼しました」
「もう……仕方ないなー! 私が拭いてあげる、ほらほら!」
「あばばば」
私は紙ナプキンでぴよくんの顔をゴシゴシしながら、油断すると押し出てきそうな涙を必死でごまかすのだった。