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ぴよりあ/メモリア
2




「やだ、一緒に寝る!」
「でもぴよらっとさんも困っているでしょう?」
「いえぼくは……」

数時間後、私はぴよくんを小脇に抱えたままお母さんと対峙していた。
今夜はもう遅いからと、ぴよくんに泊まっていってもらうことになった所まではよかったのだが、私がぴよくんと一緒に寝ると言い出して聞かなかったのだ。
「ほら! ぴよくんもいいって言ってるよ。ねー」
私の脇に挟まり顔を凹ませながらぴよくんは、「ぼくはかまいません」とクールに答える。
「もう……すみませんねえ、公子ったら、こんなに浮かれちゃって……」
「いいんです。ぼくの方こそ、ご馳走になった上に泊めていただけるなんて、本当にありがたいです」
「決まりね! 私の部屋に行こう!」
ぴよくんをずるずる引きずりながら階段を上ろうとする私に、呆れ顔でお母さんが声をかける。
「寝る前にお風呂に入りなさい。髪の毛、汚れているでしょう」
「えー。うーん、わかった……」
確かに、今日は一日中森の中を歩いたり、ぴよくんに体当りして地面を転げ回ったりしたから、だいぶ汚れているかもしれない。
帰ってから顔と手は洗ったけれど、髪や首筋に触れてみるとちょっとジャリジャリする。
私はぴよくんを抱えたまま、二階のお風呂場へとUターンした。
「ちょっとちょっと、その……ぴよらっとさんも一緒に連れていくの?」
「あっ、そっか。ぴよくん熱いお湯に浸かっても平気? 溶けちゃう?」
「ぼくは熱と電気には強いので大丈夫ですが……お母様がもし、娘さんと一緒に入るのはよくないと言うのであれば、遠慮します」
「あらやだ、そういう意味じゃないのよ。私も……ふふ、溶けちゃうかなって、思ったの。ごめんなさいね。おまんじゅうみたいだからつい。うふふ」
口元に手を当ててうふふと笑いながら、お母さんはリビングに消えていった。

「ここのお風呂はね、一面が全部窓になってて、遠くに海が見えるんだよ。夜はちょっと怖いけど、星がすごく綺麗なんだよ」
薄手のワンピースをモゾモゾと脱ぎ捨てて、後ろで一つにまとめていた髪を解く。
ブンブン頭を振ると、微かにパラパラと砂の落ちる音がした。
「それは素敵ですね。月は見えますか?」
「見えるよー。月が好きなの?」
「はい、なんだか懐かしい気がして」
私が、身体にまとわりついている残りの服を床に落とす間、脱ぐ服がないぴよくんは所在なさげに立っていた。
もじもじと動く小さな手がとても可愛い。
「ぴよくんは服着てないけど、冬は寒くないの?」
「温度の変化には強いので大丈夫です」
「ふーん。ヒラヒラのお洋服とスカートを着せてあげようと思ったのに、残念」
「それは……気持ちだけで」
「ふふふ、冗談ー」
「ああ、それよりも」
スッとぴよくんが身を屈めて言う。

「あまり頭を振ると、砂が落ちて床が汚れてしまいますよ。"公子さん"」

ぴたりと、体が凍りついた。
一瞬、自分でも自分に何が起きたのか、理解できなかった。
ぴよくんはフローリングの床に散らばった砂粒を手でぺたぺたしながら、「掃除をしないと……」と生真面目な声で呟いている。
息が苦しくなって、視界が狭く、遠くなっていく。
『公子さん』
その言葉を聞いた瞬間、それまでとても楽しかったはずの熱が急に冷めて、世界にひとり取り残されたような寂しさがどっと押し寄せてきた。
白いブラウスのボタンに手をかけたまま、体が固まっている。
顔から表情がスーッと抜けていくのを、怖いほど冷静に感じる。
なんでもないのに。
ただぴよくんに『公子さん』って呼ばれただけなのに。
ノイズが思考の海をかき回して、自意識の船を何度も転覆させる。
嫌だ。戻りたくない。別荘に来てからずっと息を潜めていたのに、大嫌いな私が顔を覗かせてしまう。
ぴよくんは、急に黙りこんでしまった私に異変を感じたのだろう、心配そうに声をかけてきた。
「……どうかしましたか?」
私は震える手で自分の顔をなぞり、無理やり笑顔を取り繕って、声を絞り出した。
「……えっと、呼び方」
「はい」
「私、『公子ちゃん』がいい、な。……丁寧にされると、ちょっと、寂しい、から」
喉から出た言葉と、頬に触れた手が自分でも驚くほど震えていて、冷たくて、せっかく作った笑顔が再び消えて無くなる。
後には何も残らない。
空っぽの私。本当の私。
こんな顔、見せたくなかった。
学校というお化け屋敷に迷い込んだ私の顔。

学校ではいつも一人だった。
クラスの誰もが、私のことを『木俣さん』と呼ぶ。
意地悪をされるようなことはないけど、一定の距離から近付かれることもなかった。
腫れ物に触るような丁寧さ。
入学して最初の頃は、乱暴な子がちょっかいを出してくることもあった。
でも、ある日私にイタズラしようとした子に、咄嗟に剣を使ってしまったその時から、私に関わろうとする人は誰もいなくなった。
それでも私は他人が怖くて、たくさんの人に囲まれて過ごさなければならない学校が怖くて、仕方がなかった。
だから、初めてぴよくんに名前を呼ばれたとき、公子さんって……まるでクラスメイトや先生や、初めて会った人が私を呼ぶのと同じように思えて、暗く湿った教室の、あの冷たい空気の中に放り出されたように感じてしまったんだ。

「ごめんねぴよくん。私、本当は、こんななんだ」
表情をなくしたまま、虚ろな視線を彷徨わせて、低い声でぽつぽつと言葉を紡ぐ。
「ぴよくんの前では騒いだりはしゃいだり、して、普通の子みたいに見えたかもしれないけど、本当の私は、そんなんじゃないんだ。
学校ではいつも下向いてて、自分でもわからないけど、すごく他人が怖くて、誰とも話せないんだ。
心が凍ったみたいに動かなくて、全然笑えないんだ。
いつも胸が苦しいような感じがして、それがどうしてなのか、靄がかかってるみたいにはっきりしなくて、もう、ずっと、もどかしいんだ。
私、すごく弱い……弱くて……」
心の奥底に溜まった泥をゆるゆると吐き出すように、言葉は口から勝手に出ていった。
ぴよくんはいつもの無表情で、じっとそれを聞いていた。
体が毒素を出そうとしているかのように、気付くと、床に数滴、涙が落ちていた。
「……"公子ちゃん"」
ぴよくんの手が、私の手にそっと触れる。
ひんやりと冷たいような、じんわりとあたたかいような、優しい柔らかさ。
「ぼくはぴよらっとだから、人の心がまだあまりわかりません。
ぼくは昔、言葉を教えてもらった先生に、人と話すときは丁寧な言葉遣いを心がけるように教わりました。だからぼくは、こんな話し方しか知らないんです。でも、それがきっと、公子ちゃんに辛いことを思い出させてしまったということはわかります。
ごめんなさい、公子ちゃん。ぼくはどうしたら公子ちゃんをなぐさめられるかわからない。でも――」
黒い瞳で私を見上げたまま、ぴよくんは言う。
「でも、ぼくには、笑っている公子ちゃんも、今の公子ちゃんも、どっちも本当のように思う。ぼくはぴよらっとで、人の心がわからないけれど、ぼくの目には、そう見えます」

ぴよくんは人じゃない。
だから最初に会ったとき、私は何も怖がることなく、その手に触れることができた。言葉を交わすことができた。
そんな、普通の人が当たり前にできることを私もできたという事実が、私にとって、どれほどの驚きだったか。
今も、こうして黒い瞳で私を見上げ、やわらかい手でそっと触れてくれているぴよくんを、怖いとは思わない。
私はその白い小さな手をぎゅっと握り返して言った。
「どっちも……私なのかな。私は、弱い私が嫌い。弱い私になってしまう学校が嫌い。ずっと夏休みがいい。そうしたら、ずっと私は笑っていられるのに……」
「……」
ぴよくんは、一生懸命何かを考えているようだった。
本気で悩んでくれている。私なんかのために。
そう思ったら、嬉しいような、申し訳ないような気持ちになって、冷たく沈み込んだ気持ちが少し紛れたような気がした。
ぐっと頬を拭って、さっきよりもうまく笑顔を作って、重く沈んでしまった空気を振り払おうと、わざと明るい声を出した。
「なんか、急にごめんね。さあ、お風呂入っちゃおう。あ、その前に床を掃除しなきゃね」
砂粒の散らばったフローリングをタオルで拭いて、ブラウスと下着を外して、浴場の扉を開けた。

私が髪と体を洗っている間もぴよくんはじっと黙っていた。
私も、どんな話をしたらいいかわからなかった。
たっぷりと張られた水面に、そっと足を滑り込ませる。
夏なのに、あたたかいお湯が冷えた心に染みるようで、そのまま私は肩まで沈み込んでいった。
ぴよくんはまだバスチェアーに座ってじっとしている。
私はその姿をそっと横目で見ながら、さっきの、私の仮面が剥がれてしまった時のことを反芻していた。
やっぱりおかしいんだ、私。
ついさっきまで笑ってはしゃいでいたのに、たった一言で泣き出してしまう。
学校でも、有くんと話しているときは笑っているのに、クラスに戻った途端、人形みたいに表情が消えて何も喋れなくなる。
自分がおかしいってことに、今まで気付かなかったわけじゃないけど……。
こんな情緒不安定な人がいたら、誰だって近づきたくないと思うだろう。
……ぴよくん、困っただろうな。
急にあんなふうになっちゃって、急にあんなこと言われて。
でも、ぴよくんはすぐに私のこと、公子ちゃんって呼んでくれた。
事情がわからなくても、何も聞かずに、そうしてくれた。
……優しいな。
それに比べて、私はダメだなぁ……。
口元までお湯に浸かってぶくぶくしていると、頭の中まで湯気でもやもやしてくる。
ぼんやりした視界の中、ぴよくんがこっちを見ていることに気づいて、慌てて顔を上げた。
「傷つけるのは、とても怖いことです」
突然の言葉に、私は何も言えず、じっとその瞳を見つめ返した。
「さっきの、公子ちゃんの言葉を、ずっと考えていました」
それって、私が自分を嫌いって言ったこと? ずっと夏休みが続けばいいって、弱音を吐いたこと?
「正直に言います。どうしてもぼくは、さっきの公子ちゃんの言葉に同意できなかった。でも、ぼくがそれを伝えたら、公子ちゃんを傷つけてしまうかもしれないと思いました。
傷つけるのは、とても怖いことです。それは、自分が傷つくのが怖いからかもしれません」
少し何かを考えるようにして、ぴよくんは続ける。
「傷つくのは怖いことです。だから、相手を大切に思うほど、傷つけてしまうことを恐れる。傷つけて、嫌われてしまうことを恐れる。でも、その恐れを乗り越えて、一歩踏み込んで、損得関係なしに本当に相手のためになることは何かを考える……そういうことができる者をなんと呼ぶのか、先生に教わったことがあります。
公子ちゃん、ぼくは今さっきまで、きみに対してその一歩を踏み出すべきか否か、ずっと悩んでいました。そして今、ぼくは勇気を出そうと決めました。なぜなら、ぼくは、きみの友達になりたいと思ったからです」
「……それは、同情……?」
「いいえ。ぼくは公子ちゃんの勇気に応えようと思っただけです。きみは、勇気ある一歩を、既に、踏み出してくれていた」
「私が……?」
「公子ちゃんは他人が怖いと言いましたね。
ぼくはぴよらっとだったから、最初から怖がらずに接してくれたのだと思います。
でも、ぼくはぴよらっとだけど、人間と一緒に暮らしていたことがあって、人間の言葉を話し、人間を模した行動をしています。そんなぼくに対して公子ちゃんは、少なからず怯えの感情を抱く瞬間があったんじゃないか、と想像しました。
そして、公子ちゃんがぼくの名前を決めてくれた時、まるで怒られるのを待つ子供みたいな目をぼくに向けるのを見て、その想像は確信に変わりました。
同時に、公子ちゃんは、ぴよらっとであるぼくを人と同じように扱ってくれたんだと、ぼくを一つの個として対等に扱ってくれたのだと、そういうふうにも考えられると思いました。
それはぼくにとって、有り難い、とても名誉なことでした。だからぼくも、きみの勇気に応えなければならない、なんとしても応えたいと思ったんです」
時々難しい言葉を使うぴよくんにどぎまぎしながらも、私は一生懸命、それらを噛み砕いて、飲み込もうとしていた。
ぴよくんは今、大切な話をしてくれている。
私のために、真剣に話してくれているということがひしひしと伝わってきた。
「弱い自分が嫌い……これは、ぼくにもわかります。ぼくも同じ思いをしたことがありますから。
でも、ずっと夏休みが続いたとしても、弱い自分は、ずっと変わらないと思うんです。夏休みは確かに穏やかで優しい時間をくれるかもしれませんが、自分は、自分のことが嫌いなまま、そこで何もかもが止まってしまう。それは哀しいことだと思うんです。自分にとっても、見守ってくれている人にとっても」
私が目を伏せたのを見て、ぴよくんは言葉を区切った。
きっと私は、ひどくすさんだ目をしていたのだと思う。
氷解し、動かされかけていた心が、再び冷たくなって闇の底へ落ちていくような感覚だった。
だってそんなこと、もう痛いほど知っていたから。
「……わかってるよ。夏休みが永遠に続いても、私は弱いままだって……何も解決しないって……わかってる。でも、だったらどうすればいいの?
どうして他人が怖いのか、どうして普通に話すことができないのか、自分でもわからないんだよ。わからないことをどうやって治せばいいの?
病院にだって何度も行ったんだよ。薬を飲んで、自分の体が自分のものじゃなくなるみたいになって、それが何ヶ月も続いても、治らなかったんだよ。
……それでも逃げたいって思うのは、いけないことなの?」
ああ、まただ。また私の心はひどく揺れ動いている。
「学校の先生にもね、同じことを言われたよ。自分の弱さと向き合わなきゃいけないって。逃げてばかりでは何も解決しないって」
私はうつむき、水面にゆらゆら揺れる自分の顔に向かってぽつりと呟いた。
「……何も知らないくせに」
自分の言葉が反射して耳から入り脳内を駆け巡り、あちこちぶつかるたびに思い出したくもない記憶が呼び起こされて、頭の中がカッと熱くなった。感情が、堰を切ったように溢れ出す。
「何も知らないくせにあの人たちはみんな同じことを言う! 同じ顔で! 私を上から見下ろしながら!
……ぴよくんも、あの人たちと同じなの?」
言いたくないのに、言葉が止まらなかった。
ああもう、心の中がめちゃくちゃだ。
急に泣いて、ケロッとしたかと思ったら今度は怒りだして、そしてああ、また、泣きそう。
きっと普通の人なら、とっくに会話を切り上げて、颯爽と姿を消して、こんな面倒くさい奴とは二度と関わらないようにするだろう。
……でも、ぴよくんはそうしなかった。
始めからそんな選択肢は無いといったように、当たり前のように、私に告げた。
「いいえ、ぼくが言いたいことは少し違います。
ぼくはただひとつだけ、覚えておいてほしいのです。公子ちゃんは既に、恐れを乗り越えて他者の心に踏み込むという大きな仕事をやってのけたのだという、その一点。その事実のみを覚えていてほしいのです」
ぴよくんの言葉は力強く、何か確信に満ちているようだった。
私は情けない顔を水面に映したまま、祈りを捧げる信徒のような、あるいはギロチンにかけられた罪人のような心持ちで、ぴよくんの言葉に耳を傾けていた。
「それさえ覚えていてくれれば、今は、逃げていてもいいと思います。
いずれは自分自身と向きあうべき時が来るかもしれませんが、今はまだその時ではないと、ぼくは思うのです。
だから今は、胸を張って逃げてください。逃げ続ける中にも、何か拾い物があるかもしれません。
そして何より、公子ちゃんには有さんがいます。ぼくは生まれてから今まで、あなたたちほどお互いを理解しあい、支えあっている人間を見たことがありません」
「有くんが……?」
私は顔を上げた。
「そうです。有さんはいつでも公子ちゃんを気にかけて、見守っているように見えます。
まるで……影のようです。
有さんがいれば、きみはきっと大丈夫です。ぼくにはそんなふうに思えてならない。
そしてこの夏休みの僅かな時間。ぼくはきみの心を癒すお手伝いを少しでもできたらと思うのです」
「どうして? 今日会ったばかりの私に、どうしてそこまで言ってくれるの?
私、ぴよくんに何もしてあげられてないよ。身勝手に引っ張り回しただけだよ」
「ぼくにとっては……それが、何よりの救いだったんです。人の、懐かしい優しさに触れて、止まりかけていた心が再び動き始めて、ぼくがどれほど嬉しかったか、わからないかもしれませんが……」
ぴよくんの過去に何があったかはわからない。
もしかしたら大切な人と別れ、長い孤独をひたすら踏みしめてきたのかもしれない。
私の身勝手な行為が、私の無遠慮な好意が、その心にどれだけの波紋を生んだのかは、きっとぴよくん以外にはわからない。
それでもぴよくんは私に言ってくれる。
私の力になりたいと言ってくれる。

――私は、心の奥底でずっと求めていた。
授業でわからないところを教えあって、一緒に遊んで、肩を並べて帰って、「また明日」って言って、次の日もまた「おはよう」って言える存在……。
そんな存在をなんというか、ぴよくんは既に教えてくれていた。

私はざばっと立ち上がり、手を差し出した。
「ぴよくん、私たち、友達になれるかな」
「はい。きっと」

◇ ◇ ◇

ぴよくんとお友達握手を交わしてから数分後。
私は目の前の洗面器を見つめていた。
洗面器……風呂桶と言うべきなんだろうか。
それは卵の殻のような色をしていて、目いっぱいお湯を入れると片手で持つのがちょっとしんどい。
やや大きめのサイズだけど、これといって変わったところはない。
強いて変わっているところを挙げるとすれば、その中にぴよくんが収まっていることくらいだった。
それはまるでロールカステラのように。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。

お友達の握手を交わしてからも、ぴよくんはバスチェアーから動かなかった。
私は怪訝に思って尋ねた。
「ぴよくん、どうしたの? 一緒にお風呂入ろうよ」
するとぴよくんは珍しく困ったように眉毛を下げて言った。
「あの、お風呂に入る前には体を洗わなければいけないと教わったことは憶えているのですが……。
実は、人間のお風呂に入るのがとても久しぶりで、恥ずかしながら、どうすれば水が出るのかわからないのです。
当てずっぽうにいじって壊してしまったら申し訳ないと思いまして……」
「あれ? さっき私が体を洗ってた時に見てなかった?」
「そんな失礼なことはできません」
さっきまでの大人っぽい印象から一転してもじもじするぴよくんに、思わず私の胸はキュンとしてしまった。
なんて可愛い生き物なんだろう。
「よし、じゃあ私が洗ってあげよう」
「え、あの」
私は愛用のスポンジを手に、バスチェアーをもうひとつ引っ張り出してきて、ぴよくんの後ろに腰掛けた。
ぶくぶく泡を立てながら背中をこする。
「……ありがとうございます」
「こちらこそ」
「?」
もちもちした肌を触っているだけで、幸福な気持ちになれる気がした。
「そういえばぴよくん、森の中で暮らしてたんだよね? 最初に会ったとき、全然汚れてなかったような気がするんだけど」
「はい。毎日川で体を洗っていたので」
「ふーん」
そうなのか、と一瞬納得しかけたけど、すぐにおかしいことに気づいた。
ぴよくんの体を改めて見てみる。
くびれのない雪だるまみたいなボディから、特徴的な長い耳と、短い手足がぴょこんと出ている。
そう、その手足はあまりに短くて可愛らしい。
「あのさ、ちなみにどうやって体を洗ってたの? 道具を使ったとしても、絶対に届かない部分があると思うんだけど」
「それはですね、くるくる回って、川底の石で洗っていたのです」
「くるくる? ていうか、石で、って……痛くないの?」
「痛くないです」
川の中でバシャバシャ転げまわるぴよくんを想像して頬が緩んだ。
「……ね、実演してみせてよ」
「かまいませんが……川とは勝手が違うので、うまくいくかどうか」
そう言いながら、ぴよくんはバスチェアーから降りると、ぺたりとうつぶせに寝転んだ。
巨大なおまんじゅうみたいだな、と思った次の瞬間、ぴよくんの体は高速回転していた。
それは何と表現したらいいのだろう。
ハムスターが全力で走っている回し車から、ハムスターと回し車を取り外したような。
白く丸い物体が、タイルの上でふおおおんと音を出さんばかりに回転し、まるで浮いているように見える。
長い耳がタイルに当たるのだろう、びったんびったんという音がリズムを刻んでいる。
どうやらぴよくんを包んでいた泡と、川底とは比べようもなく滑らかなタイルの相乗効果で、本人にも予想外のスピードが出てしまったらしかった。
「おお……」
あまりの回転力に、私は何とコメントすればいいのかわからなかった。
ぴよくんの体からは、遠心力で泡と水分がどんどん飛び散っていく。
と、次の瞬間。
キュッと床が擦れる音と共に、ぴよくんはお風呂場の隅へ吹き飛んでいった。
そこにはシャンプーや洗面器などがまとめられており、私はボウリングでストライクが決まる瞬間をスローモーションで眺めているような心持ちだった。
ガコーンという音と共に四方へ飛び散るお風呂用具のもろもろ。
しかし、その混乱の現場に、当のぴよくんの姿だけがなかった。
なんと驚くべきことに、一瞬のうちにぴよくんの白い体は忽然と姿を消してしまったのだ。
これはもしやあまりの加速と回転力によって時空跳躍が起きたのでは、と思ったけど、別にそんなことはなくて、ぴよくんは洗面器のひとつにロールカステラの如く収まってしまっていたのだった。
ぴよくんの体は小さいとはいえ、いくらなんでも洗面器に詰め込むには相当無理をしなければならない。
今やこの哀れなロールカステラは極限までぎっちぎちに詰め込まれており、逆さに振っても、端っこをむにっとつまんでみても取り出せないのだった。
当のぴよくんは目を回してしまったのか、呼びかけても反応がない。
ぴよ〜という変な声は聞こえてくるので、命に別状はないと判断して、私は腰を据えてこの洗面器と向かい合うことにした。
まず、シャンプーなどの洗浄剤によるぬるぬる効果を利用して、つるっと取り出してみようと試みた。
これは失敗だった。
私の手ばかりがつるつるしてしまい、ぴよくんの表面を無駄に泡立てただけだった。
次に、冷水をかけてみた。
冷やすことでぴよくんの体がキュッと引き締まり、スポッと取り出せるのではないかと思ったのだ。
しかし私は危うく出来たばかりの友達を溺死させるところだった。
「ごめんねごめんね」と謝りながら、私は次の一手を決めあぐねていた。
これはもう、洗面器を破壊するしかないのではないかと思ったけど、それは最後の手段として取っておきたかった。
お母さんに怒られるからだ。
とりあえず落ち着くために、一旦湯船に浸かることにした。
ついでにぴよくん入りの洗面器もそっと浮かべてみる。風流だ。
窓を開けて外を覗くと、ちょうど月が見えそうだったので、お風呂場の電気を消してみた。
たくさんの星、眩しい月の光。
「ぴよくん、月が大きいよ」
洗面器にそっと話しかける。
「ぴよくんはウサギなのかなあ。月を見ると懐かしいのかな」
すると、洗面器からぴょこっと耳が飛び出した。
ぴくぴく動いて、周りの音を探っているみたいだ。
「ぴよくん、気がついたの?」
「とても狭いです……すみませんが、引っ張ってくれませんか?」
潰れたような声が洗面器から聞こえる。
今までもさんざん引っ張ろうとして無駄につるつる指を滑らせてきたけれど、今は耳が出ている。これを引っ張ってもいいんだろうか……?
「いいの?」
「おねがいします」
「それじゃあ……」
わたしは飛び出ている二つの耳を両の手でむんずと掴み、両膝で洗面器を挟みこんで固定してから引っ張ってみた。
ブチィスポーン!
ぴよくんは、片耳を私の右手に掴まれてぶら下がっていた。
しかし妙なことに、私の両手はぴよくんの両耳を掴んだままなのだ。
(片方取れちゃった……)
ぶらーんとぶら下がったままのぴよくんをそっと降ろすと、彼はぺこりと頭を下げた。
「すみません、どうもありがとうございます。まさかあんなに勢いがついてしまうとは……あれ、なんだか暗いですね」
「い、いいよいいよ、やってみせてって言ったの私だし……ああ、暗いのは、電気を消したからだよ。ほら、月が綺麗だったから……」
咄嗟に左手を背中に隠してしまった。
「えっと、ところでぴよくん、どこか痛くない? そのー、いろいろぶつけたみたいだったけど……」
「だいじょうぶです。衝撃には強いので」
「そう……それはよかった……はは……」
耳が取れてしまったことへの衝撃は私のほうが大きいみたいだった。
「? どうかしたんですか?」
「えーっと、実はね、これ……」
私はおずおずと隠していた左手を出して見せた。
握りしめた手の中に、もちもちとさわり心地の良い耳が月光を浴びて白く輝いている。
「あ、取れちゃいましたか」
「ごめんっ、ちょっと強く引っ張り過ぎちゃったみたいで、スポーンと同時にブチィってなっちゃって……」
「心配には及びません。ぴよらっとは耳が取れてもすぐに生やせるので大丈夫です」
そう言ってぴよくんがむんと力を込めると、ちぎれていた方の耳がにょきにょきと伸び、あっという間に何事もなかったかのように元通りになってしまった。
「うわ、うわーうわー」
ちょっとした衝撃映像を見てしまった私は、わーとかうーとか呻いていた。
「公子ちゃんはぼくを助けてくれたのですから、耳のひとつやふたつ、気にしなくていいのですよ」
「耳は普通ふたつしかないよ……でもこれ、どうしよう」
元通りになったぴよくんを見ていると、一瞬、さっきの出来事は夢だったんじゃないかと思えたけれど、手の中の妙に心地良い物体を無意識のうちにぎゅっぎゅっと握りしめてしまうたびに、今このお風呂場に存在するぴよくんの耳の数を再確認せざるを得ないのだった。
「よければ、食べますか」
「えっ」
「えっ?」
聞き間違いかと思って聞き返したら、逆に聞き返された。訳がわからなかった。
「た、食べるの?」
「ああいえ、ぼくも詳しくは知らないのですが、とある地域では耳を収穫するためにぴよらっとを飼うらしいのです。珍味として取り扱ったり、常食する民族もあるとかないとか」
「へえ……」
「ぴよらっとがたくさんいた頃の人里はなれた村では、子供たちが学校帰りに野良ぴよらっとの耳をもいでおやつがわりにしたとかしないとか……」
「これ、そのまま食べるの?」
「そうですね、煮たり焼いたりすることもあるそうですが、そのままでも大丈夫です。……でも、このあたりはぴよらっとが少ない地域のようなので、きっと一般的ではないのですね。置き場に困るでしょうから、ぼくが処理しましょう」
ぴよくんが小さな手をちょこんと差し出してくる。
私は、自分の手の中でもちもちしている耳とぴよくんの顔を見比べてから言った。
「せ、せっかくだから、ちょっと挑戦してみてもいいかな……」
「どうぞどうぞ」
おそるおそる耳の端っこを口に運ぶ。
ふにっと柔らかい表面が唇に触れると、なんとも言えない安心感というか、懐かしさが不意に襲ってきた。
しかしその感覚は、とりとめのないイメージを形にするより先に、波が引くように消えていくのだった。
なぜか少し涙が出そうになった。
そっと歯を立てると、想像していたよりも弾力がある。
力を込めるといったん反発するけれど、すぐにスッと歯を受け入れて、驚くほどあっけなく噛み切れた。
「おもちみたい……なんだっけ、お祝いのときの、あの、白いやつにちょっと似てる」
味はなかった。
それでも無機物を口に入れたような嫌な感じはなく、ほのかに甘い香りがした。
ゆっくりと咀嚼すると、そのあまりの歯ごたえの心地良さに、思わず頬が緩んだ。
しばらく私は黙ってもぐもぐやっていた。
さっき友達になったばかりのぴよくんの耳を食べているという、ちょっと信じられないような状況。
なんて不思議なんだろう。と、そんな言葉ばかりが頭を巡っていた。
「ああ、月が見える。本当に素敵なお風呂ですね」
ふっと我に返ると、いつの間にか体を洗い終えたぴよくんが湯船に浸かって、月を見上げていた。
今夜の月はいつもより大きい。
「満月だね」
私は半分ほどかじった耳から口を離して言った。
「月の光って白いんだね」
「ええ……少し眩しいくらいですね」
月の光を浴びているぴよくんが、ぼんやりと光っているように見えた。湯気のせいかもしれない。
大きく窓を開くと、夜風が火照った頬を撫でて気持ちが良かった。
ぴよくんはどこから来たんだろう。これからどうするのだろう。
様々な疑問が湧いては消え、ふと思いついた。……ぴよくんのことをもっと知りたい。
「ぴよくん、明日さ、ちょっと行きたいところができたんだけど、一緒に行かない?」
「かまいませんよ。お供します」
行き先も聞かずに了承してくれる。それは誰かによく似ている気がした。
彼らがこんなにも私に優しくしてくれる理由も、調べてみたらわかるのだろうかと思った。
「月のあの暗い部分がウサギに見えるっていうけどさ」
「はい」
「私にはエビフライにしか見えないんだよね」
「なるほど」
私は巨大なエビフライを見上げながら残った耳を口に運び、再び官能的な食感に浸るのだった。