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ぴよりあ/メモリア
3




翌朝、目を覚ますと、目の前に有くんの顔があった。
「おはよう、公子」
ベッドの縁に腰掛けた有くんがにこにこしながら言う。
「そんなにぴよくんの抱き心地がよかった?」
気付くと私の腕の中に白い背中が見えた。一晩中ぴよくんを抱きしめたままだったらしい。
くるりとひっくり返すと、ぴよくんは既に目を覚ましていた。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
「有くん、ぴよくん……おはよう」
もぞもぞ起き上がり、布団の上に正座する。
「もちもちで……ひんやりしてて気持よかった。ごめんね、ぴよくんは暑くなかった?」
「ぼくは温度の変化には強いので大丈夫です」
まゆげをキリっとさせるぴよくんの手をふにふに触りながら、有くんは、へえと呟いた。
「いいなあ、僕もぴよくんを抱いて寝てみたいな」
「じゃあ今夜は三人で寝よっか。川の字でぴよくんが真ん中で」
「いいね。ぴよくんさえよければ、だけど」
「ぼくはかまいません。お役に立てるなら本望です」
「わーい! って、朝から寝る時の話をしてるのも変だね」
「今日は行きたいところがあるんでしょ? 準備をしないと」
「うん。有くんも一緒に行こ?」
「もちろん」

林道を抜け、舗装された道路をしばらく歩くと、山をくり抜くトンネルが見えてくる。その近くには古びたバス停がある。
待合所には朽ちた金属の屋根がかろうじて残っていて、短い雑草に覆われた地面に濃い影を落としていた。
トンネルはそれほど長いものではなくて、小さく出口の向こう側が見える。
ひんやり湿った真っ黒なトンネルの向こうには光が溢れていて、まるであの世みたいに思えた。
これから来るバスは私たちを乗せてあの世へと出発する。そこには小さな町があり、夏場は近くの海を訪れる観光客で賑わうのだという。
私たちの別荘は、そんな海辺の町から離れた秘密のような場所にあるのだ。
いったいどちらがあの世なのだろうと考えると、不思議とわくわくするような気持ちになった。

私にとっての世界はとても狭くて、でも、壁一面に扉が埋まっている。
扉を開くと、少しだけ世界は広くなる。
そうして無限に続く扉を開き続けて、私は死ぬまでにどれだけ世界を広げることができるのだろうと思った。
ぴよくんに出会ったことで、私の世界は少し広がった。
ただ広がっただけじゃなくて、ほんの少し、明るくなった。
扉を開けた先には色々なものがある。
世界を明るく照らしてくれる灯火もあれば、逃げ出したくなるようなドロドロとした闇もある。
それらが次々に混ざり合い、開けた扉の数だけ形を変えて、私の世界は出来上がっていく。
死ぬまでに広げた世界の総決算。
私の世界は、最後にはどんな色をしているのだろう。
できれば明るい方がいい。ぴよくんのような、真っ白な色だけを選びとっていきたい。
……そんなことは、決して叶わない幼い願望なのだと知りながら。
それでも私は願わずにはいられなかった。

「……公子。そろそろ着くよ」
瞼を開けるとバスの中だった。
二人掛けの席の通路側に有くんが座っていて、私は窓側に座り、ぴよくんを抱えたまま眠ってしまっていたらしい。
「まだ眠い?」
有くんは優しい笑みを浮かべながらティッシュを取り出すと、私の口元と、私が抱いているぴよくんの頭を拭いた。
「あっ、ごめんね……またやっちゃった」
ぴよくんの頭には私のよだれが少し落ちてしまっていた。
実は今朝も、ぴよくんの背中が少し濡れてしまっていて、朝からお風呂に入らなければならなかったのだ。
どうも私はぴよくんを抱いて寝ると口元が緩んでしまうらしい。
でもこれは仕方ないことだと思う。
ぴよくんの抱き心地は極上で、それはもう尋常ではない気持ちよさなのだ。
体圧を分散し、まるで母親のお腹の中にいるような浮遊感を与えてくれる。
夏は涼しく、冬は暖かい。らしい。
体中のストレスや悩み、不安、悪夢、余分な熱、さらには周囲の雑音まで吸いとって、圧倒的に快適な睡眠を約束してくれる。気がする。
ぴよくんはまさに生ける抱き枕なのである。
……と、いうようなことを力説していたら、あっという間に目的地に到着した。
そこは公園のような場所だった。
建物に向かう歩道はレンガ模様の落ち着いた色をしており、周りは芝生と木の葉が眩しいばかりの緑色を輝かせている。
広い敷地の中心に、歩道と同じような色をした建物が建っていた。
「ここですか?」
私たちを振り返ってぴよくんが言った。
「そうだよ」
有くんが頷く。
「この町の図書館だ」

太陽が眩しく照りつける道から急に建物の中に入ると、一瞬、床や壁が黒々と湿った土で出来ているように見えた。
外の明るさが建物の影をより濃く落としている。
図書館の中は意外に広く、人もまばらでとても静かだった。
空調のせいもあるのだろうけど、吹き抜けになっている高い天井が不思議な涼しさと神聖さを醸しだしていて、歩くたびにひんやりとした空気をかき混ぜているようだった。
ゆったりとした通路には、細長いガラスケースに入った彫刻や花の絵や掛け軸みたいなものが点々と並べられており、図書館というよりも美術館みたいだと思った。
実際、その図書館の奥には、普段は公開されていない美術品が何点か収蔵されているということを後で知った。
私たちは奥のスペースにある電子端末に向かった。
先に歩く有くんの後を、ぴよくんを抱えた私が付いていく。

……図書館に入る直前のこと。
たまたま、入り口の横に掲げられていた注意書きが目に入った。
『ペットを連れての入館禁止』
ぴよくんはペットではない。私の大切なお友達だ。
でも、私たちのことを何も知らない他人にとってはどうだろうと考えた。
例えば犬を飼っている人が、この子はペットではなく家族だ、と主張するのはよくあることだ。
しかし私たちは、彼らが出会った経緯や過ごしてきた日々を知らない。知らなければ、その犬は他の犬と変わらない。
私たちは皆平等に特別ではない。
では、どうすればいいか。
私たちは手っ取り早い手段を選ぶことにした。
つまりぴよくんをぬいぐるみのように見せかけ、あたかも私は巨大なぬいぐるみを持ち歩かないと癇癪を起こしてしまう子なんですよといった風に装いつつさりげなく中に入ることにしたのだった。
我ながら完璧な作戦だと思ったけれど、いざ図書館の中に入ってみると、拍子抜けするほど人がいなかった。
受付の人もこちらを気にする素振りすら見せず、これなら普通にぴよくんが歩いて入ってきても問題ないんじゃないかと思った。
安堵とがっかりの間の妙な気持ちを持て余しながら歩く。
胸に抱えたぴよくんはとても軽かった。
昨日の夜も小脇に抱えて連れ回していたけれど、気のせいか、その時よりもずっと軽い。
「軽いねえ」と声をかけたけど、ぴよくんは己の使命をまっとうするため、身じろぎひとつせずぬいぐるみに成り切っていた。
端末のある席に着いてみると、ぴよくんを抱えたままでは操作が不便そうだったので、どうせ誰も見ていないのだからとぴよくんを隣の席に座らせた。
有くんと私がぴよくんを挟む形で席に着き、それぞれ画面に向かった。
私が調べたかったのはもちろん、ぴよくんのことだ。
この端末からは、図書館ネットワークに蓄えられている本を呼び出すことができる。
早速『ぴよらっと』で検索をかけると、結果は驚くほど少なかった。
しかもそのほとんどが無関係の単語が偶然引っかかったもので、後は小説や雑誌の一節などだった。
この地方の生物について載っている『生物図鑑』をひとつ選び、ざっと眺めてみる。有くんが見たと言っていた図鑑は、これのことだろうか。
そこでわかったのは大体次のようなことだった。

・ぴよらっとは雑食の害獣であるが、食用として養殖している地域もある。
・ぴよらっとは魔術を用いる。
・ぴよらっとは個体差が大きく、その生態についての研究はほとんど進んでいない。
・熱や電気に強く、手触りが非常に良いという皮の特性からかつて乱獲された歴史があり、現在では(この地方では)その個体を見かけることは稀である。

「ねえ、ぴよくんって魔法が使えるの?」
私は隣のぴよくんにそっと話しかけた。
本の説明によれば、ぴよらっとは進化の過程で魔術を扱うようになり、結果、四肢が退化したのだという。
確かに、ぴよくんと最初に会った時も、その小さな足では二足歩行どころか立ってバランスを取ることすらできないのではないかと思ったけれど……。
「簡単な魔術は使っています。移動したり、物を持ったりする程度ですが」
何か熱心に調べごとをしていた手を止めてぴよくんは言った。
「あ、じゃあさっき私がぴよくんを抱えて歩いていたときも魔術を使っていたの? なんだかすごく軽かったんだけど」
「そうです。浮力を得てできるだけ重くならないようにしていました」
「すごーい。空を飛ぶこともできるの?」
「いえ、そこまでは。魔術は生活をサポートする範囲で使っているに過ぎません。人間が靴を履いたり車に乗ったりするようなものです」
「ふうん。あっ、それじゃあ昨日の夜お風呂場ですごい勢いで回ってたのも……」
「公子、調べ物はもういいの?」
ぴよくんの向こうから、有くんが椅子に背を反らせるようにして言った。
「あ、ごめんね。声大きかったね」
有くんはこちらを見てニコニコしている。
「ぴよらっとについて調べていたの?」
「うん。ぴよくんはねえ、魔術が使えるんだって。すごいでしょー」
自慢するように言うと、有くんは感心したような顔でぴよくんを見た。
「すごいな、ぴよくんは。人間の言葉も普通に扱えるし、魔術も使えるんだ。僕よりもずっと優秀なんだね」
「そんなことはありません。ぼくのは真似事です。人には人にしかできないことがあるのです」
「僕にしかできないこと……あるのかなあ」
「もちろん。有くんは公子ちゃんのお兄さんです。それは誰にも代わることはできません」
「ん……」
そうか、と軽く頷いて、有くんは優しげな目をした。
「ねえ、有くんは何を調べていたの?」
私は話題を遮るように言った。
「ああ、僕はね、世界の神様について」
有くんが画面に目を向けて言う。
「世界にはたくさんの神様っぽいものがいるんだって。ヒゲのおじさん、猫、便器、空飛ぶスパゲッティ、ティッシュ、マーガレット……賑やかだねえ」
他人ごとみたいに笑う有くんの隣で、ぴよくんは何か考えこむような顔をしていた。
「私、神様の話は結構好きだな。なんだか途方もない感じがして、目の前のことがどうでもよくなるの」
「そうだね。神話といえば、ちょうど読んでいる途中だったんだけど」
有くんが端末を操作すると、大勢の人が地面から何かを拾い上げている絵や文章がずらりと並ぶページが表示された。
「マナっていう食べ物の話。読んでいたらお腹が空いちゃったよ」
「マナ?」
「そう。神様が降らせた、なんだかよくわからない食べ物。昔々、聖域を目指して歩く人々が飢えそうになったとき、神様が空からマナを降らせたんだってさ。それは白くて甘い霜みたいな食べ物だったんだって。彼らは四十年もの間、このマナを食べて歩き続けたそうだ」
有くんの話を聞きながら、私は昨日食べたぴよくんの耳を思い浮かべていた。
真っ白で清らかで、柔らかくて優しい食べ物。
それは、人々を救うためにどこまでも降り続く慈愛に満ちた糧と、どこか似ているような気がした。
ぴよくんの耳は甘い蜜のような味はしなかったけれど、心の黒ずんだ部分を優しく癒してくれるような気がしたのだった。

図書館を出ると、太陽が頭の上まで昇り、足元の影が短くなっていた。
日差しの下に身を晒すと、眩しさでしばらく目が開けられなくなる。
建物の周りに広がる芝生の広場をしばらく歩くと、外れに大きな木が一本生えていた。
低い位置で幹が横に広がり、たくさんの葉っぱが太陽の光を遮っている。
木の近くには小川が流れていた。水は透き通っており、川底はとても浅い。
私たちは木陰にビニールシートを広げて、お母さんが持たせてくれたお弁当を食べることにした。
辺りはとても静かだった。
水の流れる小さな音に、時々揺れる木の葉の音。虫の声もそれほどうるさくない。
風に乗って、人々の笑い声が小さく聞こえてくることがある。それが一層、お祭りの喧騒を遠くで聞いているような心地良さを感じさせる。
広げたバスケットからは、エビやタマゴやレタスやトマトなど、色とりどりの具材を挟んだパンが顔を覗かせた。
私たちは思い思いに手を伸ばして、お互い言葉少なく、黙々とそのサンドイッチを食べていた。
私は元々ほとんど喋らない人間だから、沈黙は苦ではなかったし、有くんもそんな私に合わせてくれていた。
ぴよくんは図書館で調べ物をしている時から黙りがちになっていた。
私は結局、ぴよくんが何を調べていたのか聞けなかった。
遠くで鳴いていたセミの声が止んだのをきっかけに、私はぴよくんに話しかけた。
「……さっきね、ぴよらっとのことを調べていたら、なんだか難しそうな雑誌が出てきたんだ。そこにはぴよらっとの論文が載っていたんだけどね、それはあまり相手にされなかったみたい」
「……そうですか」
ぴよくんの表情は変わらない。
私は、ぴよくんがさっき何を調べていたのか、なんとなく予想がついてしまっていた。

偶然見つけた学術雑誌に載っていた、ぴよらっとについての論文。
それを発表した学者は、ぴよらっとの知性について主張していた。
ぴよらっとのルーツはとある島にあり、そこはぴよらっとの楽園で、彼らはひとつの神のようなものを信仰しているのだという。
ぴよらっとという生き物は人間と同じように超越的存在を信仰する精神を持ち、人間と同じか、それ以上の知性を秘めている。彼らは短期間で人間の言葉を学習することさえできるのだという。
これを書いた学者は、自分自身でぴよらっとに言葉を教え、これらの情報を得たのだと主張している。

その学者の住む小さな国には野生のぴよらっとが数多く生息していた。
ある時、王が自らの世継ぎのためにぴよらっとの皮でマントを作らせた。
それは純白で汚れることなく、たぐいまれな耐久性を持ち、寒い日は暖かく、暑い日は涼しく、着用する者を守護するような優しい手触りだったという。
その噂が国民に広がると、ぴよらっとの皮でできた衣類が一斉にブームとなった。
野生のぴよらっとは乱獲され、数年のうちにその姿を見ることはなくなった。
それでもぴよらっとの上質な皮でできた衣類は高値で取引され、ブームは終わらなかった。
そんなある日、学者の娘が傷ついたぴよらっとを連れて帰ってきた。彼は迷うことなく、そのぴよらっとを保護することにした。
学者特有の気まぐれから、彼は戯れにぴよらっとに言葉を教えてみることにした。するとなんと、最初のうちは不思議そうに言葉を聞いていたぴよらっとが、オウムや九官鳥のように言葉を返し始めたのだ。
彼は多少の驚きを覚えたものの、それは知性ではなく、鳥などと同じ習性の一種だと判断した。
しかし一週間ほど経った頃、ぴよらっとは教えられた言葉を組み合わせて自らの意思を表現し始めた。
マイペースな学者もさすがにこれには大きな衝撃を受けた。
自らが取り掛かっていた研究を全て放り出し、彼はぴよらっとにあらゆることを教え始めた。
人間の生活、学問、芸術、情勢、そして、自分と家族のこと。
学者はぴよらっとを我が子のように扱った。それは、ぴよらっとを保護してすぐに他国の男と結婚して家を出ていった一人娘の代わりだったのかもしれないし、あるいは二人目の子供ができたかのような心持ちだったのかもしれない。
さらに数年が経ち、ぴよらっとは成人した人間と遜色ないほどに言葉や知識を学習した。
学者はぴよらっとに言葉を教える過程で、様々な質問をした。
どこから来たのか。仲間はいるのか。君たちは何者なのか。
答えはおおむね予想通りだった。
そのぴよらっとは小さな群れでひっそりと生活していたが、ある日ハンターの襲撃を受け、傷つきながらもなんとか逃れて森をさまよっていたところを学者の娘に拾われた。他の仲間とは散り散りになり、行方は知れないという。
しかし学者が最も驚いたのは、ぴよらっとに生い立ちについての質問をしたときだった。
そのぴよらっとが生まれたのはもっとずっと昔のことで、しかもこの国ではないどこか遠い場所から来たということだった。
そこはどこか、と学者は尋ねた。
海を越えたところにある島です、とぴよらっとは答えた。
そうして、ぴよらっとの楽園と彼らの宗教について、学者は知ることになったのだという。
こうした体験を通じて、学者はある一つの疑問を抱くことになった。
我々はこれまで、人間の言葉を学習できるほどの高度な知能を持ち、宗教観すら持ち得る生物を、獣や家畜と同等に扱ってきた。
だが、我々人間と彼らぴよらっととの間に、一体どれほどの違いがあると言えるのだろうか?
彼は、すべてのぴよらっとを、人間と同等に扱うべきだと考えた。
そしてこの稀有な経験をレポートにまとめ、それをもとに論文を発表した。
……しかし結果は……何も、変わらなかった。今も何ひとつ変わっていない。昔からずっと、ぴよらっとはぴよらっとのまま。
この論文を書いたのは田島という名の学者だった。私が知れるのはそこまでだった。
彼がその後どうなったのか、そのぴよらっとはどうなったのか、論文はなぜ認められなかったのか。
ひとつの物語の後には、空白だけが広がっていた。
幼い私にはその先を知ることはできなかった。

サンドイッチを食べ終えて、水筒の冷たいお茶を飲んで、そうして私たちは何もすることがなくなってしまった。
皆、何をするでもなくゴロゴロと転がっていた。
一休みして気が抜けて、夏の日特有の気だるさにぼんやりしてしまったのかもしれない。
誰も何も言わなかった。
私は、木の葉の隙間から漏れてくる光がちらちらするのを見上げたり、芝生の中に紫や黄色の小さな花を見つけたりしていた。
そうしているうちに、なんとなく伸ばした手が、ぴよくんの小さな足に触れた。
人形のように小さくてひんやりとした足。純白で、少しも汚れていない。
ぼんやりした頭でふにふにと無心に足を揉んでいると、なんとも言えない幸福に似た感情の後ろから、寂しさの小波が広がってきた。
私はずるずるいもむしみたいに這っていき、ぴよくんの背中に頬をくっつけた。
森の木の、水を吸い上げる音が聞こえたような気がした。

私は夢を見ていた。
土手沿いに沼地が広がっていた。
春のような日差しが降り注ぎ、沼地にはところどころ乾いた地面が飛び石のように点在していた。
穏やかな時間だった。
こんなふうにのんびり景色を眺めながら歩いていると、何かの予感に心がうきうきするような、今この瞬間を暗い部屋の中で過ごしている人たちに申し訳ないような、不思議な気持ちになった。
しばらく歩くと、お腹に響くような音が断続的に聞こえてきた。
爆発音だ。
遠く、真っ青に晴れ渡った青空に、小さなキノコ雲のような煙が見えた。
爆発音と共に何度も何度も煙が上がった。
近付くにつれ、赤い炎のようなものも見えてきた。
爆風が石ころや瓦礫や木のかけらなんかを吹き飛ばしているようで、小石をぶつけられた民家の屋根がバラバラと鳴った。
どうやらそれは害獣駆除のようだった。
それは定期的に行われることらしく、このあたりに住む人々には、国からいくらかお金が払われているのだという。
風が強く熱くなってきた。
これ以上近付くのは危険だった。
戻ろう。振り返る。
するとそこには幻想的な風景があった。
絵画のようにどこまでも続く茶色い道に、真っ白な荷車がひとつ置かれていた。
辺りはうららかな春の美しい日差しで満たされ、白い荷車はぼんやりと光っているように見えた。
背後では恐ろしい爆発音が響いているのに、目の前の光景は嘘のように美しく、急いで逃げなくてはならないと思いながらも、なんとかしてこの一瞬の奇跡を形に残したいと強く思った。

意識が浮上する。
夢に落ちる前より、空の色は濃く暗くなってきていた。
真昼よりもいくらかぬるくなった風が、むきだしの二の腕やふくらはぎを撫でていく。
「ぴよくんごめん。また枕にしちゃった」
「いえいえ」
隣を見ると、有くんも横になっていた。眠ってはいないようだった。
「四時くらいだよ」
今何時かな、と思った絶妙のタイミングで、有くんが時間を教えてくれた。
有くんとは時々こういうことがある。
まるで私の心を読んでいるみたいに、私が一番欲しい言葉をくれたりする。
双子のテレパシーというやつかもしれない。
「ずいぶん寝ちゃった……ごめんね」
「大丈夫だよ、僕も寝てたし。でも、僕もぴよくんを枕にしてみたかったかな」
そう言って有くんは笑った。
ビニールシートを片付けて、荷物をまとめて、そろそろ帰ろうか、ということになった。
でも私の胸の中には、なんだか帰るのをずっと先延ばしにしたいような気持ちが重く溜まっていた。
バス停に向かってのろのろと歩いていると、有くんが、
「せっかくだからひとつぶん歩こうか」と言った。
有くんも同じ気持ちなのかな、と思うと、ほんの少しだけ胸が軽くなった。
頭の上には濃い青が広がっていて、遠くからわざとらしい絵の具みたいに雲を染める光が、見慣れない町並みと私たちの頬を金色に照らしていた。
目を細めながら歩いていると、ぴよくんが何かもじもじしながら、珍しく歯切れの悪い調子で言った。
「あの、今夜も泊めていただいていいんでしょうか。こうお世話になりっぱなしだと、ご迷惑じゃないかと……」
ぴよくんは私の腕の中から、ちらりとこちらを見上げた。
人はほとんど歩いていなかったけれど、念の為、図書館に入ったときと同じように私がぴよくんを抱いて歩いていたのだ。
「もちろんだよ。朝からそう言ってたでしょ? でも、ええと……ぴよくんは、なんていうか……こういうのって、窮屈?」
「とんでもない! ぼくは人間と一緒に暮らしていましたから、むしろ一人きりでいるよりも落ち着きます。でも、人間と一緒に暮らしていたからこそ、食い扶持がひとり増えることの大変さというか……そういう負担を考えてしまうんです。僕自身はこんなに良くしてくれてとても嬉しいけれど、同時に申し訳ないという気持ちになるんです」
加速度的に黒く沈んでいく空のように、私の気持ちはどんどんと切なく、寂しくなっていった。衝動的にぴよくんをぎゅっと強く抱きしめようとして、思い止まった。
私はぴよくんと一緒にいたいけれど、ぴよくん自身がそんな風に遠慮して萎縮してしまうなら、無理に付き合わせない方がいいのだろうか。
せっかくお友達になれたのに、私たちはお互いにお互いのことを考え過ぎていて、自分がどうしたいかよりも相手を気遣うことを優先して、その結果、誰も幸せになれないような、そんな気がした。
赤く焼けた鉄が自然に冷めていくように、小さくなった夕日が今日最後の光を町に投げかける。
私たちの間に流れる重い静寂を破ったのは、静かに隣を歩いていた有くんだった。
「ねえぴよくん、ぴよくんはどうしたいの? 今は僕達の都合で、こうして連れまわしちゃっているけど……また旅を続けたいとか、他にやらなきゃならないことがあるとか……そういうのがあれば、正直に言ってほしいんだ」
あくまで軽い調子で、でも真剣な声で有くんが尋ねる。
ぴよくんは少し考えこむような仕草をして、それから顔を上げた。
「ええと……まず、なぜぼくが旅をしていたか、そこからお話しします。
理由は大きく二つあります。ひとつは、どこにも行くあてがなかったという単純な理由。そしてもうひとつは、忘れてしまったことを探すためです。ぼくの記憶は、不自然に途切れているのです。
気付いたらぼくは野山や洞窟を渡り歩くような生活をしていました。それまでどうしていたのか、なぜこんなふうにさまようことになったのか、思い出そうとしてもぼんやりと消えていく夢のように実体が掴めないのです。
確かに憶えているのは、どこかで人間の家族と一緒に暮らしていたということ。その家族の中の『先生』に様々なことを教えてもらったということ。それだけです。
ぼくは、忘れてしまっている記憶を取り戻したい。ぼくとあの家族に、何があったのかを知りたい。先生は今どうしているのか知りたい。先生に会いたい。
それを自覚してから、ぼくの旅は明確な目的を持つものになりました」
「じゃあ……やっぱり旅を続けたい?」
「いいえ、違います」
ぴよくんはきっぱりと言った。
「今日、図書館に連れてきていただいて、痛感しました。膨大な情報からたった一人の人間を探し出すのがどれほど困難なことなのか。
人間のデータベースをお借りしてもこれなのですから、ぴよらっとの身であるぼくがひとりでどれだけ歩き回って先生を探したとしても、それはまるで砂漠の砂粒を端からより分けていくような途方もないことだったのです」
ほうと小さく息をついて、ぴよくんは続けた。
「それにぼくは、きっと長い時間を人間と共に生きてきたはずです。公子ちゃんと、有くんと、ご両親と一緒に囲んだ食卓はとても暖かくて、とても懐かしくて、本当に心にしみわたるような幸福を感じたのです。
しかし、一緒にいたいと思うほどに……怖くなってしまったのです。異質なぼくが紛れ込むことで、平穏だった家庭に不和が生じるのではないか。また結果的に、自分の目的のためにあなたたちを利用することになるのではないか、と。
……でも、ぼくはあなたたちが好きです。できれば一緒にいたいと……思っているのです」
「つまり、ぴよくんは旅を続けるよりも、僕達と一緒にいたいってことでいいのかな? それに、昔一緒に暮らしていた人たちを探すという目的も、人間と力を合わせればずっと早く果たせるかもしれない。……でもそれをぴよくん自身は、不誠実なことだと考えてしまって、遠慮している……って感じかな」
「……はい。そういうことです」
「よし。それじゃあ次は公子の番だ。きみはどうしたい?」
有くんはやわらかく微笑みながら私の目を見た。
すべてわかっているというような顔。
思い返せば、有くんにはいつもこうやって助けてもらってきたような気がする。
ぼんやりと隠れていた道が明確になり、どうすれば光の射す方へ行けるのかを示してもらったようだった。
私はぴよくんを自分の方へ向かせて抱き直した。
「ぴよくんが昨日、私の心を癒す手伝いをしたいって言ってくれた時……私、すごく嬉しかった。私には友達なんて絶対にできないと思っていたから、あの握手をした手がずっと熱くて、ドキドキしてた。
だからね、私はぴよくんと、もっと一緒にいたい。
私も初めてだからよくわからないけど……友達って、自然と助けあうものでしょう? ぴよくんが私のために悩んでくれたように、私もぴよくんの探しものを手伝いたい。それって、普通のことだと思うんだ」
ぴよくんはじっと私の目を見つめたまま聞いていた。
狭い川にかかる橋を越えて、大きな道路を渡ると、ふわりとアスファルトの甘いにおいが立ちのぼってきた。真昼の残滓だ。
「ぼくは……いいんでしょうか。一緒にいても、いいんでしょうか」
「私も、私たちも、そう思っているんだよ」
「……嬉しいです。ありがとうございます」
「帰ったら、お父さんとお母さんに話してみよう」
有くんが楽しげに言った。
「ぴよくんは真面目だから、何もせず住ませてもらうっていうのは気を使っちゃうでしょ? だから、何か仕事を貰えばいいと思うんだ」
それはとても良いアイデアだと思った。
与えられる役割は精神的な居場所だ。
それは、私がどんなに学校が嫌いでも、引きこもらずに通い続けている理由でもあった。
学校は怖くて嫌だったけど、何もしなくていいと言われて宙に放り出される方がずっと怖かったから。

やがて次のバス停が見えてくる。
夕日は完全に沈んでしまって、オレンジと青の空の狭間に紫色の雲が漂っていた。
頭の上はまだ嘘みたいに青いのに、足元はどんどん暗くなっていく。
後ろからゆっくりと夜が回りこんでくるようだった。
一日が終わって、今日でも明日でもない空白の時間が来る。
陽が沈む時はいつも胸が苦しくなるから苦手だったけれど、今日はその中に少しだけ、甘い色が混じっているようだった。