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ぴよりあ/メモリア
4




その日は朝から薄暗かった。
空一面が白い雲に覆われていて涼しく、虫の声もあまり聞こえない。
私はリビングの窓際で椅子に座ったまま、読みかけの本を閉じて外を見た。
目元を少し指で押さえてから窓を開ける。ゆるりとした空気が入ってきた。
開け放った窓の枠に肘をついて、手に顎を乗せて、その湿った空気を吸い込む。
濃い、青い葉のにおいがした。
しばらくそうしていると、やがてぽつぽつと雨が降り出した。
ふしぎな雨だった。
平行に何層も重ねた雨粒を、順序良く地面に落としているような、静かな雨だった。
たくさん降っているにもかかわらず、風が無いためか、窓を開けたままでも濡れることはなかった。
規則正しく落ちていく雨を眺めていると、背中からお母さんの声がした。
「そろそろ風が出てくるから、窓閉めた方がいいよ」
「どのくらい?」
お母さんは雑誌を手に取りながらソファに腰掛けると、片方の手をぱっと開いて見せた。
「五分」
「じゃあ……」
お母さんの後ろをちらりと覗く。
キッチンのカウンターの上に、湯気を立てるティーポットが見えた。
「あと三分だけ」
椅子を元あった場所に戻してから、私もお母さんと向かい合うようにソファに腰掛けた。
テーブルの上の砂時計をひっくり返す。幸い、ちょうど三分の砂時計だった。
「お待たせしました」
テーブルにお茶のセットが運ばれてきた。
花の匂い。ハーブかもしれない。
「それすごく似合ってる。かわいい」
「ありがとうございます」
ピンク色のエプロンを着たぴよくんは、恥ずかしそうな素振り一つ見せず優雅にお茶の用意をしている。ちなみにそのエプロンはぴよくんサイズに作られた特別製で、大きなハート型をしており、周囲にフリフリが付いている。
「お茶うけによければどうぞ」
そう言ってテーブルに置かれた底の深いお皿には、たくさんのクッキーが盛られていた。
丸やハートや葉っぱの形。赤や黄色のジャムがトッピングされたものもある。
どれも焼き立てらしく、ふわりと甘い香りが漂った。
「すごーい! これ全部ぴよくんが作ったの?」
「はい、お口に合えばいいのですが……」
言いながら、ぴよくんはお母さんにそっと視線を投げる。
お母さんはお皿に盛られたクッキーをひとつ摘み上げて、ひょいっと口に入れると、にっこりと微笑んだ。
「……これは生姜ね。ほんの少しハチミツの味もする。甘過ぎず素朴で、いい香り。とってもおいしいわよ、ぴよらっとさん」
「ありがとうございます」
無表情のぴよくんの顔に、ほっと安堵の色が浮かんだように見えた。
私もひとつ、丸いでこぼこしたクッキーをいただいてみる。
ぱりぱりざくざくとした心地よい食感の後に、甘く優しい香りが弾けた。
「これ……なんだろ。木の実?」
ぴよくんに目で訊ねる。
「ひまわりの種です。今朝、森の近くに自生していた枯れかけのひまわりを見つけたので、少し種をもらってきたのです。クッキーをつくろうと思ったのも、その種をどうやって使おうか考えていて思いついたんです」
「へえー、ひまわりの種。なんか、いいね」
夏の象徴、太陽を模したような黄色の大輪、その恵みを味わっているのだと思うと、感慨深い気持ちになった。
「ひまわりの種は体にもいいそうです。良質のたんぱく質やビタミンが含まれているとか。……どうぞ」
説明しながら、ぴよくんがティーカップにお茶を注いでくれた。
見た目は紅茶に近いけど、一口飲むと、甘酸っぱい香りがやわらかく通り過ぎていった。
「ハーブティーです。たくさん種類があったので、勝手にブレンドさせていただきました。夏は消化器が弱りやすいので、あえて熱いままお出ししていますが、水出しの冷たいものもありますのでご希望があれば言ってください」
「なんか喫茶店のマスターみたいだね。おいしい」
お母さんも一口飲んで、とても穏やかに微笑んだ。
「いい香り……ぴよらっとさんはお茶のいれ方がとても上手ね。これはどんなブレンドなの?」
「オレンジとレモンバームにリンデン、ラベンダー、あとバラ系をいくつかとハイビスカスを加えてみました」
「良い組み合わせね。効能がちゃんと考えられていて、素晴らしいわ」
「ありがとうございます」
「ほらほら、ぴよくんも一緒にお茶しよ。こっち座って」
私は少しずれてソファに場所を空け、背もたれのクッションをぽんぽんと叩いた。
「では失礼して……」
ぴよくんは自分のカップにお茶を注ぐと、隣に腰掛けた。
「あと一分五十秒」
「時間はどんどん過ぎていくんだねえ」
さらさら落ちる砂を見て、それから窓の外を眺めた。
静かな雨の音が部屋に満ちていく。

昨日、図書館から帰った私たちは、夕食に貝とイカのパスタと酸味のきいたサーモンのサラダを食べた。
本当はその前の夜に作ったカレーで鍋を作ろうと思っていたのだけれど、皆で作ったカレーは思いのほか好評で、全部食べ尽くしてしまったのだった。
そしてどうやら私たちが図書館に行っている間、お父さんとお母さんは二人でデートに出かけていたらしく、その帰りに海の近くにある市場に立ち寄って、干物や刺身やまるごとの魚なんかを大量に買ってきてしまったのだそうだ。
お父さんはいきのいい魚をツマミに米酒やらワインやらを飲みまくったそうで、昨日に引き続きすっかり出来上がっていた。
食事が終わり、とりとめのない雑談をしながら、まったりとした雰囲気が漂ってきた頃、私たちはお父さんとお母さんにぴよくんのことを切り出した。
「いいよ」
あっさりと了承された。
「それって、ぴよくんと一緒に住んでいいってこと?」
「もちろん。私たちは受けた恩は決して忘れないもの」
隣でお父さんも黙って頷いている。
恩……森で迷った私と有くんを助けてくれたことを言っているのだと思い当たると、あの時勝手に森に入っていった自分を思い出して、ちょっぴりバツの悪い感じがした。
お母さんの言葉の調子や顔つきは、まるで仕事をしている時のようだった。
ぴよくんのことをそれだけ本気で考えてくれているということだろうか。それとも少し酔っているせい?
お母さんは白ワインの入ったグラスを傾けてから言った。
「ただ……そうね、ぴよらっとさん。一つお願いをしてもいい?」
その顔はいつもの穏やかなお母さんのものに戻っていた。
「なんなりと」
かしこまった様子でぴよくんが頷く。
「子供たちの相手をしてほしいの。世話係というか……なるべく近くにいてくれるだけでいいから」
「はい……お世話係。ぼくに務まるかどうかわかりませんが、がんばります」
「そんなに固く難しく考えなくていいの。そうね、お友達みたいに、一緒に遊んでくれればそれで」
「わかりました。……あの、その合間にお掃除とか、お手伝いをしても構わないでしょうか」
お母さんは一瞬不思議そうな顔をした後、にっこりと微笑んで言った。
「ええ、もしよければそうしてもらえると助かるわ。家にあるものは全て、遠慮せず好きなように使ってもらって構わない。足りないものがあったら言ってね。一応我が家はそういう余裕だけはあるから、心配しなくていいからね」

その後、私はテーブルの上に広げたスケッチブックを挟んで、ぴよくんと顔を突き合わせていた。
私もぴよくんのお手伝いをするために、ぴよくんが覚えていることを少しでもメモしておこうと思ったのだけれど、その作業は難航していた。
ぴよくんの記憶はぼやけたスナップショットのようで、文字に書き出せるような明確なものはほとんどなかったのだ。
ふたりでうんうん唸っていると、突然ぴよくんが何か思い出したように、あっと声を上げた。
「そういえば、ひとつだけ、とてもはっきり覚えているイメージがあります。やわらかい日差しの射す窓辺に花瓶が置いてあって、そこに小さな花が活けてあるのです」
「それって先生の家かな。どんな花? 窓から何か見える?」
「窓は白く光を反射しているみたいで……何も見えません。でも、花はとても特徴的な形をしていました」
「それ、絵に描ける?」
ぴよくんに色鉛筆を渡して、スケッチブックにその記憶の景色を描いてもらった。
ひょいと覗きこんでみると、私が美術の授業で描くような絵とは一線を画した写実的なタッチに驚いた。
窓から射し込む幻想的な日差しに照らされる花瓶と花。窓の形はごく普通で、花瓶もこれといって特徴がある訳ではなかったけれど、そこに活けられた花は確かに見たこともない形をしていた。
真ん中の黄色くて丸い部分から真っ白な七枚の花びらが規則正しくくっついているのだけれど、その花びらの形は、まるで精密に紙を切り貼りしたように角張っている。
花びらの外側はスパッとハサミで切り取ったみたいに直線的で、それが七枚、ぴったりと寄り添うようにくっついているため、まるで図形のように見える。
周りの窓や花瓶が見慣れた日常のような風景を作っているためか、見慣れない花だけがなんだか嘘みたいに浮いていた。
でも、そのアンバランスさが逆に、不思議と心を和ませるような気もした。
「この絵、もらってもいい?」
「どうぞどうぞ」
私が絵を受け取ると、突然ぴよくんがふわりと浮いた。
「用事は済んだかしら?」
私たちの様子をソファの端で眺めていたお母さんが、後ろからぴよくんをひょいっと持ち上げたのだ。そうしてぴよくんを抱いたまま、どこかへ歩いていってしまう。
「えー、どこ行くのー?」
「ちょっと体のサイズを測らせてもらうだけ。痛くしないから大丈夫よ」
「サイズ? なんで?」
「秘密」
うきうきと楽しそうな様子でぴよくんを担いで、部屋から出て行ってしまった。(翌日のフリフリエプロンはこの時作ったらしい)
ぽかーんとしつつも、ぴよくんが席を外したのは好都合だった。
私は有くんに先にお風呂に入ってもらうように言って、お父さんと二人きりになった。
ぴよくんのことについて、お父さんにお願いしたいことがあったからだ。
それは、昼間図書館で見つけた論文の筆者である、田島という学者について調べてもらうことだった。
その学者はぴよらっとに様々なことを教え、ぴよらっとと共に暮らしていた。
ぴよらっとの知性を発見し、ぴよらっとを人と同等に扱う世界を夢見ていた。
私は、彼こそがぴよくんの探している『先生』なのではないかと思った。もし違ったとしても、言葉を話すぴよらっとの情報を探ることに価値はある。
私の力では論文の載った雑誌以外の情報は掴めず、決定的なものを得るには至れていなかった。
そのようなことを私はお父さんに話し、力を貸してほしいと頭を下げた。
お父さんとお母さんが情報を扱う仕事をしていることは知っていた。
そしてそれがかなりディープなもので、容易に立ち入ってはいけない領域であることも子供心にわかってはいた。
わかった上で頼んだ。いざとなれば子供の無邪気ささえも盾にしようと思った。
私は自分がこんな考え方もできるような人間だということを初めて知って、恐ろしいような後ろめたいような気持ちになった。
ちらりと視線を上げると、お父さんは顎に手を当てて難しい顔をしていた。
「……良くないなあ」
苦い声に、胸の奥が圧迫されるような苦しさを覚えた。
うつむいていると、突然、頭に大きな手が触れた。
「そういうお願いの仕方は良くないな。可愛くない」
「え……?」
「娘が親にお願いをする時はだな、こう、首に腕を絡ませたり、肩をもんだり、お酌をしたりしつつ、『お父さんお願い〜』っと甘い声で親心をくすぐるべきだな。次からは試してみなさい。俺はそういうのにちょっと憧れてたんだ」
唖然とする私にニヤリと笑顔を向けると、お父さんは私の手からぴよくんの描いた絵を取って立ち上がった。
「……少し飲み過ぎたかな。ちょっと電話してくる。明日の夜までには片付けるよ」
目の前が急に明るくなった気がした。
「お父さん、その……ありがとう」
ふふん、と誇らしげに笑うお父さんは、なんだかとても頼もしく、嬉しそうに見えた。
結局、ぴよくんは夜遅くまでお母さんにサイズを測られていたので、有くんとぴよくんと三人で寝る約束はまた今度ということになった。

――そして今朝早く、お父さんは有くんを連れて出かけていった。
両親は共に、休暇は一切の仕事を忘れて休む主義だから、別荘にはネットワーク端末ひとつ置かれていない。
さすがに携帯端末くらいは持ってきているけれど、仕事用のものではないらしい。
お父さんは「男同士でしか話せないこともある」とか言っていたけれど、ついでに(どちらがついでかはわからないけど)昨日相談した件について調べに行ってくれたのだろうと思った。
砂時計の最後の砂がするりと音も立てずに落ちる。
窓を閉めてしばらくすると、突然雨脚が強くなり、横殴りに吹き付けるような雨になった。
きまぐれに雨粒が窓を叩く。ざあっという音が遠く近く、不規則な波のように聞こえた。
「風が来たね」
「お昼には止むよ」
お母さんは悠々とお茶を飲んでいた。
「あのう、どうしてわかるんでしょうか? さっきも……」
ぴよくんが不思議そうに訊ねる。
私はお母さんと顔を見合わせて、共犯めいた笑みを浮かべて言った。
「だって、お母さんだもん」

予言通り、お昼前には雨はすっかり上がって、気持ちのいい青空が広がった。
少し風が強かったので部屋の窓を全開にして、水分をたっぷり含んだ風が次々通り過ぎていくのをフローリングの上に寝転びながら楽しんでいた。
お父さんと有くんが帰ってきたのは、すっかり日が沈んでしまった後だった。
有くんは両手にいっぱいに袋を抱えて、よろよろしながら玄関に座り込んだ。
「夜市っていうのかな、あれが早いうちから立っていてね。面白くて端から端までふらふら歩きまわって、気がついたらこんな有様になっていたんだ」
袋の中身は混沌としていた。
見たこともない肉や野菜や果物、木彫りの変な人形、まだ熱いまんじゅう、包装されていない花火、何かの牙がぶら下がったネックレス、飴色の皮でできた靴、鈍く光る平べったい包丁、どう使うのかもわからない民族風の楽器、見るからに怪しいカラフルなお香、凝った装飾のベルト、『エックス』と書かれた黒いシャツ、大き過ぎる腕時計、ドクロ、年季物の万年筆、良い香りのする木で出来たペーパーナイフ、机に置けるミニ扇風機などなど……人の根源的な熱気や欲望といった概念をまるごとぶち込んだようだった。
「お父さん……これは……」
見るからに楽しんできたという風のお土産を前に、私は一抹の不安を覚えた。
「まあまあ、いいじゃないか。今度公子も一緒に行こう。ごちゃごちゃしているけど活気があって、そこら中にエネルギーが溢れている感じがするぞ」
「私は……いいよ」
「そうか。まあ、女の子にはちょっと向かない場所かもなあ」

その夜は、ぴよくんの歓迎パーティーということになった。
エビと白身魚の辛いスープと、大きな魚まるごとに香草を添えた蒸し焼き、今日お父さんたちが買ってきた妙な肉や野菜を使った焼き物と炒め物とサラダ、スパイスを効かせた鍋、極彩色のフルーツとシャーベット、妙にシュワシュワする紫色のジュース……何ともまとまりのないラインナップを、親玉のどでかいケーキが堂々と従えていた。真っ白なクリームでコーティングされた二段重ねのスポンジの上にはチョコレートのプレートが乗っており、ぴよくんの絵が描かれている。こんなもの、一体いつの間に用意したのだろう。
「こんなにたくさん食べきれないと思うんだけど……」
テーブルの上に並んだ料理の量に圧倒されつつ私はぼやいた。
「余ったら明日食べればいいじゃない。朝食作らなくていいから一石二鳥」
謎の肉のサイコロステーキをつまみながらお母さんはあっけらかんとして言う。
「まあ……そうだね」
お母さんのこういう性格を、私ももう少し見習ったほうがいいのかもしれないと思った。
気をとりなおして私も席に着く。
「ほら、主役のぴよくんはケーキをどうぞ。同じくらい真っ白だから、クリームが付いてもわからないかも」
小さくケーキをカットして、チョコレートのプレートも添えてあげた。主役の特権だ。
「ありがとうございます。ここまでして下さるなんて、本当に嬉しいです」
ぴよくんは、何だか神聖な物を受け取るように、私が切り分けたケーキの小皿をそっと両手に乗せた。
「甘くて……とても美味しいです。きっと一生忘れられない味です……」
慈しむように、大切なマナを少しずつ口に運ぶようにケーキを食べるぴよくんを見ていると、あたたかいものが胸に広がっていって、それがぐっと喉のあたりまでこみ上げてきて、楽しくて嬉しいのに、なぜか涙が出そうになって、でもそれは何だかもったいない気がして、慌てて料理を詰め込んでごまかした。
謎の肉は魚と獣肉を合わせたような味で意外と美味しかった。
途中から、夏と言えばバーベキューじゃないかとお父さんが言い出して、急遽会場を庭に移してバーベキュー大会が始まった。
網の上でパカっと開く貝、甘くとろけるたまねぎ、丸まったソーセージ、じうじうと油を落とす骨付き肉、表面はカリッと中はほかほかのジャガイモ、なぜかマシュマロ、皮ごと蜜柑、干物、大根、豆腐……
もう何が何だかわからないくらいに焼きまくって食べまくって大騒ぎして、どんどんテンションが上がって笑いが止まらなくなってしまった。危うくぴよくんまで網の上でこんがりしてしまう所だった。お父さんたちが買ってきたあの紫色のジュースに何か入っていたんじゃないかと今でも疑っている。

「やっぱりシメはあれだろう」
宴も一段落付いた頃、お父さんが有くんに目配せして席を立った。
二人して庭の暗がりでゴソゴソやっているのを、何かと思ってじっと見ていると、突然、シュッという音と共に、真っ黒な空に花が咲いた。
続けざまに、赤や黄や緑や青の火花がくるくると空を舞う。お父さんたちが買ってきた花火だった。
「すごい、すごいね。綺麗だね」
ぼんやりする視界に光の花が咲いては消える。ぬるい空気とわずかな火薬の匂いに、胸が締め付けられるようだった。
「ほら、公子も」
有くんが手持ち用の細長い花火を手渡してくれた。私はいつの間にか地面に用意されていたロウソクの炎に、花火の先をそっと触れさせた。
一瞬の空白の後、シュッという音と共に火花がこぼれ落ちる。手に伝わる、命が消えていくような微かな振動。
火は少しずつ色を変えてゆき、やがて消えた。
私はしばらく、火薬が燃え尽きた花火をじっと見つめていた。なんだかこの夜の不思議な雰囲気に飲み込まれてしまったようだった。
長い時間がそうしていたような気がしたけど、実際は一分も経ってなかったのかもしれない。
私はふっと視線を感じて我に返った。
皆はまだ各々好きな花火を手に持って夜の闇に花を咲かせていたけれど、少し離れた場所から、お父さんがこちらを見ていた。
私はその視線の意味を理解して、水を張ったバケツに燃え尽きた花火を落としてからお父さんの所へ向かった。
「ちょっと公子と、散歩に行ってくる。昼間は有と個人面談したからな、次は公子の番だ」
冗談っぽく言いながら、お父さんは海の方へ歩いていった。
崖に沿って設置されているフェンスの鍵を開け、なだらかな階段を下ると、そこには月の光を反射して白く輝く砂浜が広がっていた。
静かに寄せる波の音が、やけにはっきりと聞こえる。
そういえば、今年は別荘に来てから一度もこの砂浜に降りていないことに気が付いた。
「公子はまだ泳いでないんだっけ。せっかくだから明日、ぴよらっとさんと一緒に来たらどうだ」
「ぬれるし……」
「そりゃまあね。別に無理して泳ぐこともない。ただ、せっかくの暑い夏の真昼に、この砂浜と海を見ないのはもったいない。夏の象徴だからな、ここは」
「……そうだね」
夏の象徴。溢れる生命力の、始まりと終わりの象徴。
確かに夏のこの時期に聞く波の音は、何か特別な印象を隠しているような気がした。

「さて……昨日の話だけど。大体わかった」
波打ち際から離れた場所に座って、指で砂をいじりながらお父さんが口を開いた。
来たか、と思った。私もお父さんの隣に座り、月明かりを反射する海に目を向けた。
「学者の名前は田島利川。大学の講師をしながら研究をしていたらしい。家族構成は妻と娘が一人。妻の名はシィア、娘は若いうちに隣国へ嫁いでいて……」
「その、結局、田島さんが、ぴよくんの『先生』だったの?」
「おいおい、結論を急ぐなあ。……まあ、完全にそうだと言えるような情報は見つからなかったが、ぴよらっとさんと田島が近い距離にいたことは間違いない」
「ほ、本当に?」
「ぴよらっとさんが描いてくれた絵。あの絵に描かれていた花は、ある特定の地域にしか生息できないものだった。そして、その地域というのが、田島のいた国周辺にピタリと当てはまった。あの花をあんなふうに花瓶に活けているような日常風景は、他の地域ではあり得ない」
「そうなんだ……。それで、田島さんは今どこにいるのかわかった? 連絡とか……」
「ああ、問題はそこなんだが、どこから話せばいいか。そうだな……」
お父さんはしばらく遠くの海を見るようにして、考えをまとめているようだった。
「実は、ぴよらっとに関する田島の論文は、真っ向から反論を食らって潰されたんだ」
「……どういうこと?」
唐突な話の展開に驚き、私はお父さんの横顔を見た。ほんの少し憂いを帯びた目。しかし口調は穏やかなままだった。
「田島に反論してきた相手は、一ヶ月後に証拠を見せると豪語した。そして本当にその証拠を持ってきた。そいつは自ら田島と同じことをしてみせたんだ。野生のぴよらっとを保護して、言葉を教えるところから教育した。公正な証人を用意し、仔細に記録をとらせた。
そしてその『実験』の結果……ぴよらっとは人間の言葉を学習することはできないという結論が出た。
そのぴよらっとは結局、単語のひとつさえ話せなかった。それどころかオウムのように言葉を繰り返すことすらできなかったそうだ。
田島の論文が正しいとするならば、教育を始めてから一週間もすれば少なくとも言葉を返すくらいはできるはずで、それが一ヶ月経過してもまるで進展がなかったということは、つまり田島の論文が間違っているということだ、と結論付けた」
「そんな……」
「相手は、田島の論文はでっち上げであると斬り捨てた。本当に人語を解するぴよらっとがいるならば、皆の前に引っ張り出してくればいいだけの話だと。それをしないという時点で、そんな事実はどこにもないことを自ら証明している。この論文は荒唐無稽、世間の興味を引きたいだけのパフォーマンスに過ぎない、と……」
「ひどい。なんでそこまで……。実際にぴよくんは私たちと話してるし、田島さんの方が正しいはずなのに。田島さんはそのぴよらっとを相手に見せてやらなかったの?」
「公子、仮に人語を解するぴよらっとを他の学者たちに公開したとしたら、そのぴよらっとはどうなると思う?
おそらく丁重に『保護』されて、もう二度と元の生活には戻れなくなるだろう」
「それは……そうかもしれないけど。じゃあなんで、田島さんはそんな論文を発表したの? 結局どっちにしても証拠を出せってことになったと思うんだけど……」
「そうだな、その通りだと思う。しかし今の俺たちには想像することしかできない。田島は他の野生のぴよらっとをつかまえて同じように教育すればいいと考えていたのかもしれないし、本当にそんなことを一つも考えずに発表してしまったのかもしれない。
田島という男はどうも、熱くなると周りが見えなくなってしまう性格だったらしいからな。いつも身の回りのことは全て妻に任せっきりで、自分では満足に家事もできない。その代わり、心から相手に感謝を伝えるし、困っている人がいたら学生でも見知らぬ人でも分け隔て無く親身になって相談に乗る。そして自分の仕事をすっかり忘れて人助けに全力を尽くしてしまう。
よく言えばおおらかで型破りで熱血、悪く言えば大雑把で後先を考えない。まあそんな性格だからこそ多くの学生や同僚にも愛されていたようだが」
「でも、反論してきた相手は田島さんを憎んでいるとしか思えないよ。その人って田島さんに個人的な恨みがあるんじゃないの? わざわざ自分で同じ実験までして……その実験結果だって嘘かもしれないし」
「そこがなあ……難しいところなんだが」
「何が?」
「相手の名前は、渡洲 = キスカ = 奈緒。旧姓は田島。隣国に嫁いでいった、田島の実の娘だ」
一瞬、何も考えることができなかった。
お父さんの言ったことの意味がわからなかった。
娘が? どうして? 父親を? 娘だからこそ? 恨み? 別の思惑が?
何も言えずに混乱している私には気付かない様子で、お父さんは続けた。
「娘の奈緒の素性も調べてみた。奈緒は別に学者というわけではなく、小説家だ。そこそこ売れてはいたらしいが、特に目立つほどではなかった。実の父の論文を真っ向から否定したのは話題作りのためだったという話もある。親子で共謀して一芝居打ったとか、いや奈緒は父に虐待を受けていて今回はその仕返しなのだとか……何の根拠もない憶測が飛び交ったが、結局よくあるワイドショーのネタのように、適当に騒がれてすぐ忘れ去られた。
しかし俺が調べた限りでは、奈緒と田島の親子関係は極めて良好だったはずだ。奈緒は隣国へ嫁いでから、田島夫妻と頻繁に手紙でのやりとりをしていた。その内容は普通の家庭でも珍しいほど親密で心の通ったものだった。
手紙のやりとりは絶え間なく続いた。……田島が論文を発表する日までは」
私はますますわけがわからなくなった。
とても仲が良かったはずの娘がどうして、公の場で父親を罵るような真似をしたのだろう。
「わけがわからない……そんなに好きだったお父さんを、突然、まるでずっと憎んでいたみたいに攻撃するなんて……きっと何か、理由があったんでしょ?」
「いや、それは……一概にそうとは言い切れない」
「どうして? だって、おかしいよ」
「愛情はね、ふとしたきっかけで簡単に憎しみに変わることがあるんだよ。愛していればいるほど……いや、さすがにちょっと公子には早過ぎたな。
まあ、大人にはそういうこともあると思っておいてくれればいい」
「なにそれ……」
愛情が憎しみに変わるなんて、私にはわからない。
だってそれは正反対の感情のはずで……何をどうすればそうなってしまうのか、見当もつかなかった。
納得できずに頬を膨らませている私に構わず、お父さんは話を続ける。
「論文の発表を境に、田島は一気に転落していった。娘との手紙は途絶え、妻とは離婚し、大学にも居場所がなくなり、ある日誰にも知られないまま姿を消した。
ぴよらっとの行方も……いや、そもそも、本当にそんなぴよらっとが存在したかどうかもわからなくなった。
田島はすっかりその存在を消してしまった。
それからしばらくして、その国も地図から消えた。王が変わってから間もなくのことだ。奈緒が嫁いでいった隣国との関係が急速に悪化し、戦争が起きたんだ。
そしてこれは――今から三十年ほど前の話だ」
突然の展開に余りに衝撃を受け過ぎたせいか、何も言葉が出てこなかった。
今の話にどう反応するべきか、何を話すべきか、それを考えるための時間が必要だった。
「当時、田島は四十代半ばだった。今生きていたとしても七十……。しかし、戦禍の中を、助け一つ無い孤独の身で無事に乗り越えられたかどうか……」
ああ、そういうことなのか。
お父さんがこれまで話してくれたことの意味がようやくわかった。
田島さんは今どこにいるのかという私の質問への答え……。
ぴよくんの先生はもう、どこにいるのか誰にもわからない。もしかしたらもう生きていないのかもしれない。……むしろ生きている可能性の方が低いくらいで……。
私は真っ暗な箱の中に閉じ込められたような気持ちになった。
三十年も前の、もうなくなってしまった国の、肉親や仲間とのつながりを一切絶って失踪した、生きているかどうかもわからないたった一人の人間を探し当てるには、一体どれくらいの時間とお金と力を使えばいいのだろう?
いや、時間とお金と力をありったけ注ぎ込んだって必ず見つかるとは限らない。
ましてや何の力もないただの子供の私にはとても……。
……もうどれだけ手を伸ばしてみても無理だという、泥のように重く苦しい感情が、お腹の底へと溜まっていく。
お父さんの力をもってしても、これだけの情報を集めるので精一杯だったのだろう。
「俺の話はこれで終わりだけど……」
お父さんは私の頭にそっと手をのせて、少し首を傾げて私の目を覗き込むようにしながら言った。
「公子。ひとつ、いいことを教えよう。この世界の、ほとんどのことにはね、例外があるんだ。
例えばとても難しい問題を出されて、手持ちのあらゆる方法を出し尽くして、もうどうやっても無理だと思ったとしても。
これ以上どうすることもできない、そう思った時点をスタートにして、一から考え直すんだ。持てる力を振り絞って、持てる以上の力を無理やり捻出するつもりで、問題の方をねじ曲げてしまうほどの力を。
そうすれば、不恰好でも、答えが出ることがある。不恰好でも、絶対に無理だと投げ出していた時とは比べものにならない結果が出ている。
公子、それが考えるということだ。わかるかな?」
にっこりと、お父さんは笑った。
「えっと……」
それはつまり、『あきらめるな』と言ってくれているのだろうか。
お父さんは私の絶望も諦めも全て承知の上で、この話にはまだ続きがあると言っている……?
そしてそれを探し出すのは私自身だと……。
お父さんは集められる限りの情報を集めてくれた。でも、お父さんの仕事はそこまでだ。
それならここから先は、私が『真実』を見つけ出さなければならないのではないか。
私が、自分で、ぴよくんのために力を貸すと言ったのだ。
私はまだ何もしていない。私にはまだ一歩も踏み出していない!
ヒントはたくさんある。まだ話しきれていない部分や、私が質問しなければ返ってこないような細かい情報があるかもしれない。
私の力で調べられることも、まだ残っているかもしれない。
そしてそれらを正しく紡いだ先に、きっと、別の真実がある。私がそれを見つけ出すのを、お父さんは待っている。
そんな気がした。