ぴよりあ/メモリア
5 日差しや、風や、鳥の声が、何の意味も理由もなく体の周りを包んでいるような感覚が残留していた。 とりとめもなく流れるぬるま湯にたゆたうような夢から覚めると、既に日が高く上っていた。 目だけ動かして壁の時計を確認すると、昼に近い時刻だった。 ゆっくりと息を吐く。 幸福な夢だった、と思った。 そしてその夢の続きにいるように、この世界は幸福で満たされているのだと思った。 もちろんそれは今この時間、寝惚けた感覚に包まれているこの瞬間に限ったことで、私自身が幸福とは程遠い場所にいることは十分に承知していたのだけれど。 それでも、確かにここ数日は、幸福を感じ過ぎているような気がした。 なんでもない景色に心を打たれて、いつまでもじっと動かずに見ていたいと願うような瞬間。 そこに生まれる幸福を意識している時、自分はいつも、過去の自分に申し訳ないような気持ちを抱いているのだった。 この時間は決して長くは続かない。 私は今、そんな奇跡の結晶のような時間の連続にいるのだと思った。 もう二度と手に入らないことはわかっている。でも、それを知ったところで、今の私は一体何をすればいいのか―― 「おはよう、公子」 それまで布団の一部だと思っていたものに焦点を合わせてみると、それは有くんだった。 頬が触れそうな距離に有くんの顔があって、私は慌てて飛び退こうとして、それまで枕かぴよくんだと思って抱きしめていた物がそうじゃなかったことに気付いて、顔が一気に熱くなるのを感じた。 「……有くん何してるの」 「いや、公子がなかなか起きないから……」 ひとまず体を起こして布団の上に正座してから状況を確認してみると、ベッドの上には私と有くんしかおらず、ぴよくんの姿はなかった。 「ぴよくんならお父さんとお母さんに連れられて海に行ったよ」 相変わらず心を読まれているみたいだ。 「しかしぴよくんの寝心地はすごいね。聞いていた以上だよ」 徐々に思い出してきた。 そういえば、昨夜はかねてからの約束通り、私と有くんとぴよくんの三人で寝たのだった。 ぴよくんを真ん中にして、それを両サイドから挟むようにして寝るのは相当暑苦しそうだったけど、ぴよくんの驚異の快眠機能の前に、有くんは五分と持たずに寝息を立てていた。 いつもなら私も眠っていたのだろうけど、昨日はお父さんから聞いた話が頭の中で残響していて、なかなか寝付けなかった。 ぴよくんに話すべきかどうか考えたけど、今はまだやめておこうと思った。 お父さんが私の目に直接語りかけてくれたそれは、まるで夏休みの宿題のようだった。 私自身が考えて、ぴよくんのために答えを見つけなければならない。 そんなことをじっと考えていると、有くんもモゾモゾ起き上がってきた。 「お腹空かない?」 「すいた」 きっと有くんは、もっと早い時間から起きていたに違いなかった。 それでも寝坊している私に付き合って、朝ごはんも食べずに、ずっと一緒にいてくれたのだ。 「食事したらさ、僕たちも行こうよ」 「……どこに?」 「海に」 「そうだね……行こうかな」 まだ少しぼんやりしていた。頭の中に霞がかかっているようだった。 さんさんと輝く浜辺で、ぴよくんが波打ち際をちゃぷちゃぷ歩く様子を想像して、少しだけ心が軽くなった。 私たちはリビングに降りて、昨夜のおかずの残りを焼き立てのパンに挟んで食べた。 パンは、昨日のうちにホームベーカリーで準備されていたらしい。 「まだあったかい」 「用意がいいんだよね、大人って」 甘酢あんかけの白身魚をパンに乗せながら有くんが言った。 「どれだけハメを外しても、ちゃんと明日のことを考えているんだ。それはすごいことだし、見習うべきことだと思うけど、ちょっと寂しいような気もする」 私は特に何も言わずに、マヨネーズソースで和えたカニカマ入りのサラダと甘辛いタレで味付けされた鶏肉をパンに挟んでかじっていた。 有くんの言いたいことはよくわかった。私もそんな時、お母さんたちとのどうしようもない距離を感じてしまうことがある。 なんだか大人というものは、どこまでも遠い場所にある幻想のように感じられた。私がこれからどれだけ歳を重ねても、そこには決して辿りつけないような気がした。 そもそも私はそれまで生きていられるのだろうか、と考えかけて、すぐに考えるのをやめた。 それは昔からずっと私にまとわりついてきたもので、今更どう足掻いてみたってどうしようもない種類の疼きだとわかっていた。 きっと私は長く生きられない。 それは漠然とした確信のようなものだった。根拠は何もないけれど、それを否定する気持ちも、ことさらに肯定する気持ちもわかなかった。まるで確実に存在する道標のように、何を思うでもなくそこを目指して一歩ずつ進んでいくのだと思っていた。 「……おいしいね」 私はぽつりと呟いた。 「何を挟んでも意外といけるね。でも生魚はイマイチかな」 有くんが答える。 一人じゃなくてよかった、と思った。 浜辺に行くと、巨大なパラソルの下にシートを敷いて、黒い水着の上に薄いグレーのパーカーを羽織ったお母さんがくつろいでいた。 「おはよう。あら、新しい水着、似合うじゃない」 「そうかな」 私は、お母さんが買ってくれた、飾り気のないシンプルな白いビキニタイプの水着を着ていた。 学校の水着よりスースーしてなんだか心もとない感じがしたけれど、他になかったので仕方がない。 「お父さんとぴよくんはどこ?」 辺りを見回しても、それらしい人影は見当たらなかった。 「今競争してるの。ほら、あそこ」 お母さんが指差す方向を見ると、遠くの水面に小さく頭が見えた。 「お父さんしか泳いでないみたいだけど?」 「まあ見てなさい」 お父さんはこちらに向かって泳いでいるようだった。 その姿がだんだんと大きくなる。 もうすぐ足が付くあたりだろうか、と思った瞬間、水中から真っ白なボールが打ち出されるように飛び上がり、水面をポンポンと跳ねて波打ち際まで転がってきた。 ボールからぴょこっと耳が生え、小さな手足がニュッと飛び出す。それは紛れもなくぴよくんだった。どうやらずっと潜水して泳いでいたようだった。 「また負けちゃったなあ。さすがに速い」 お父さんが髪からぽたぽた水を垂らしながら歩いて来る。 「いえいえ、お父様もとても生身とは思えない速さで……おや」 ぴよくんがこちらに気付き、くるりと向き直る。 「公子ちゃんに有くん、おはようございます」 私は思わず二度見してしまった。 ぴよくんは、ピンクに白い水玉の、幼児用みたいに小さなビキニを着ていた。胸のところがリボンみたいになっていて、腰にちょっとヒラヒラが付いている。とても可愛い。 「おはようぴよくん……その水着はどうしたの?」 「これはお母様に貸していただきました。ぼくは水着を着たことがなかったのですが、海ではこれが正装なのだということで」 普通に考えたら、ぴよくんは普段からエプロンくらいしか身に着けていないのだから、何も着なくてもいいのかもしれないけど……。 今は、お母さんの考えていることもわからなくはなかった。 空は呆れるほどに澄み渡り、太陽は遠慮無く照りつけ、真っ白な砂と透明な海が絵に描いたように続いている。 こんな全開の夏を前にしたら、こっちもそれなりに格好を整えたくなるものだ。 朝から湿っぽかった私の心も、この日差しに焼かれて、すっかり乾いてしまえばいいと思った。 私は大きな浮輪に両足と背中を預けて、おしりだけちょっと水に浸かっているような状態で海に浮かんでいた。 波はごく小さく、潜るように体の下を通り過ぎていく。 この浜辺は遠浅で、かなり沖に出るまでは、胸ぐらいまでの深さの透き通った海水の下に、白い砂が敷き詰められた道がずっと続いている。 キラキラ輝く小さな小さな魚の群れがくっきりと見え、白い砂に埋もれる桜色の貝殻が、まるで宝石のようだった。 こうして浮かんでいると、自分の影だけがぽっかりと砂に落ちて、まるでぽつんと空中に漂っているような気分になれるのだった。 ぼんやり水面を見つめていると、スッと白い影が近くを通り過ぎていくのが見えた。魚ではない。 「ぴよくん」 声をかけると、ポチャっと音を立ててぴよくんが顔を出した。 さすがにその長い耳は伊達ではないのか、水の上から声をかけてもちゃんと聞こえるらしい。 「私が沖に流されないように見張ってくれてるの?」 「ええ、その。少し心配だったもので」 ちょっと恥ずかしそうに答える。 そんな姿がたまらなく可愛くて、嬉しくて、私は手を伸ばした。 「ねえぴよくん、こっち」 「? はい」 私の手につかまったぴよくんをそのまま引っ張り上げて、ポンとおなかの上に乗せた。やっぱり、ほとんど重さは感じなかった。 そういえばお風呂でぴよくんが洗面器に入ってしまった時、あの時に持ち上げたぴよくんもあまり重くはなかった。あの時は目を回して意識を失っていたから、たぶん魔術は使っていなかったはず。 ということは、もともとそんなに重くないのに、私のためにわざわざ魔術を使ってくれていたんだ。 几帳面で真面目な優しさをしみじみ感じながら、やわらかい耳をもみもみしつつ尋ねた。 「ぴよくんは、先生に会ったら何がしたい?」 「そうですね……いろいろ聞きたいことはあります。僕が記憶を失ったことについてとか……」 「先生のことは、どのくらい思い出せる?」 「どんな顔をしていたかはわかりません。漠然と、そこに先生がいたというイメージと、家族で過ごしたあたたかい感覚が残っているだけです」 「家族は何人くらいいた?」 「うーん。先生と、ぼくと、あと二人か三人か……いやもう少しいたような……」 「……そっか。ねえ、昨日ぴよくんはクッキーを作ってくれたよね。ブレンドハーブティーと一緒に。あれも先生から教わったの? それともうちのお母さんから?」 「たぶん先生に教わったんだと思います。公子ちゃんのお母様からは材料の場所を聞いただけなので」 「ひょっとしてぴよくん、料理もできる?」 「お母様には及びませんが、簡単なものなら」 「ふーむ……」 右手を顎に当てて、空を見上げる。左手はもちろんぴよくんの耳をダブルでいじり続けている。 空が広い。視界の端から鳥が二羽、弓型を描くように横切っていった。それがいなくなると他には何もない。圧倒的に輝き続ける太陽以外には、白い雲のかけらさえも。 「あの……もしかしたら、ですけど」 ぴよくんがもぞりと体を捻るように動く。胸のあたりからお腹にかけてもちもちと吸いつくような感触があり、唇から息が少し漏れてしまう。 「公子ちゃんは今、ぼくの先生を探してくれているのですか?」 「……だって、言ったじゃない。私も手伝いたいって」 「……」 もぞもぞ。 ぴよくんが動くたびに濡れた素肌や水着と擦れて、なんとも言えない感覚が走る。 「んっ……ふふっ……ぴよくんくすぐったい……あははっ」 「あ、失礼しました」 ぴたりとぴよくんの動きが止まった。 どうやらもぞもぞしていたのは、体を捻って私の方を向こうとしていたらしい。私が耳をいじり続けているので、うまく動けなかったようだ。 「ふぅ……まだ何も調べられてないけど……何かわかったら教えるね」 「ありがとうございます。ぼくも何か思い出したらお伝えします」 「うん、よろしくね」 小さな嘘をついたことに、少しだけ胸が痛む。 でも、まだぴよくんに伝えられることはないのだ。 まだ情報が足りない。それでも、昨日まで私の中に渦巻いていた疑念が一つ、確信に変わりそうな予感がした。 ◇ ◇ ◇ 翌日、私は再び図書館に来ていた。 前回と同じメンバーに加えて、今日はお母さんも一緒だった。お父さんは旧い友達に会うということで、残念ながら一緒に来ることはできなかった。 お母さんは入館してすぐ「図書館なんて懐かしいなあ」と呟いて絵本のコーナーに行ったきり、戻ってこない。 有くんは三階の美術展みたいなやつを見に行ってしまった。 ぴよくんは相変わらず私に抱かれて歩いている。 私は広い図書館の一番端っこの窓側に陣取って、調べ物を始めた。ぴよくんも隣に座ってキーを叩いている。 私が調べに来たことはもちろん、ぴよくんの先生について。 お父さんから聞いた話を元にして、田島さんがいた国の歴史などをチェックしてみた。 ぴよらっとの皮で作ったローブを世継ぎに贈ったという王の時代は、そこそこ穏やかな時代だったらしい。 この王は、とても正義感の強い人だった。昔から庶民や貴族の間で蔓延していた麻薬を完全に撲滅するために、全ての薬草類の流通を自らが管理、規制することで実現しようとするなど、潔癖で、やや独善的とも言えるほどだったという。しかし彼のおかげで国の治安は改善し、他にも確かな実績をいくつも上げたため、国民の支持は厚かった。 しかし彼が病に倒れ、次の代へと移ると、情勢は一気に悪化した。 政治は暴走し、一年と経たずにその国は滅んでしまった。 以来、ぴよらっとの皮で仕立てた衣類を贈られた相手は不幸になるという噂が広まり、野生のぴよらっとの乱獲は終息したという。 昨日お父さんが言っていた通り、その国は確かに約三十年前になくなっていた。現在はかつての隣国に吸収されている。十年ほど前に大規模なクーデターがあったが、それもすぐに沈静化し、今は平和な時代になっているらしい。 他にめぼしい情報は得られなかったけど、気付いたことがあった。 田島さんに関する情報が異様に少ないのだ。 彼は一応それなりの学者で、論文もいくつか出しているはずなのに、名前で検索しても出てきたのはたった一冊の学術雑誌だけだった。 奇妙な引っ掛かりを覚えつつ、他に何か情報を得るキーワードはないかと模索した。 娘の奈緒さんは小説家だということを思い出し、お父さんに聞いた奈緒さんのフルネームで検索してみた。 しかし、結果はゼロだった。 ちょっと考えて、ああそういえば小説家みたいな人は普通ペンネームを使うのか、と思い当たって、なんだか自分がとてもまぬけな気がして脱力した。 お父さんに聞いてみようと思い、携帯端末に手を伸ばしかけて、少し逡巡する。 これは、お父さんに頼り過ぎていることになるんだろうか? 自分で調べること。自分で考えること。どこからどこまでがその範囲なんだろう。 上層のネットワークにアクセスできれば簡単に検索できるかもしれないけど、私の携帯端末からは繋げられないし、図書館の端末は本の検索専用だ。 これは仕方ないよね…… 自分を納得させてからお父さんにメールを送ってみると、すぐに返事が来た。 『渡洲ナオ』――それが、奈緒さんのペンネームだということだった。 どうやら奈緒さんは隣国に嫁いでからは、ペンネームだけではなく実生活でも、『渡洲奈緒』と名乗っていたらしい。 さっそく検索してみると、確かに小説がいくつか出てくる。 それらに目を通すのは時間がかかった。 なにせ、大人向けのちゃんとした本だ。細かい文字が大量に並んでいる上に、難しい表現も多い。 それでもなんとか一冊を読み終えた。 それは、何気ない日常の中にキラキラと光る、つい見逃してしまいがちな光の粒をいくつも紡いでいくような、あたたかくて優しい物語だった。 登場するのは両親と娘の三人家族で、奈緒さん本人の家族をモチーフにしているのではないかと思えた。 お父さんの描写について注意して読んでみたけれど、そこには暗い感情のかけらも見当たらなかった。 別の作品も読んでみたけれど、その中に登場する家族のイメージは一貫して同じだった。 いくつも小説のページを広げ、ざっと目を通して気になる箇所を拾い上げて読み、目ぼしいものがなければもう一度頭から、今度は丁寧に目を通す。そして次の小説へ進む。ひたすらにその繰り返しだった。 手を止めてはいけない。考えるのを止めてはいけない。何かをつかむまで、探し続けなければいけないと思った。どんな些細なことでもいい。全く関係なさそうなことから、思わぬルートで本命にぶつかることだってあり得る。 まるで胸の中に小さな炎が灯ったように、熱い気持ちが体中を駆け巡っていた。 答えはある。必ずある。そしてそれは幼い私でもたどり着ける場所にある。 その希望が光となって、私を絶望の闇に沈ませずに前へ前へと導いてくれているのだった。 この光は紛れもなくお父さんがくれたものだ。 今はその手に甘えよう。いずれ、道標がなくなって、自らの手で、足で、あてもない絶望の中に自ら光を灯さなければならなくなる日のために。 気がつくと、甘くほろ苦いオレンジ色の光が窓から射し、画面を見つめる私の頬を照らしていた。 何気なく顔を上げて窓の外を見る。 するとそこには見たことのない世界があった。 頭がおかしくなってしまったのかと思うほどの赤い赤い空に絶妙な配分で紫色のグラデーションが引かれて、目に映る景色の全てを赤と黄色と紫だけにしてしまっていた。 私は漠然と、世界が終わるのかな、と思った。 思わず立ち上がって窓を開ける。ぬるい風がふわりと頬を撫でた。 虫の声と風の音に混じって、人の声も聞こえてくる。 すごい夕焼けだね。きれい。ちょっと怖いくらい。 そんなささやき声が届いてくる。 誰もが皆同じように、沈みゆく太陽を見ているようだった。 遠く夕日を見ている人たちも、私の目には影絵のように映り、景色の一部になっている。体中を赤く染めている私自身もきっと、その中に溶け込んでいるのだろうと思った。 不意に、この景色を他の人たちにも見せてあげたいという気持ちが、心の底からわきあがってきた。 一人では溢れてしまいそうなエネルギーを、他の誰かと共有したい。 お兄ちゃんと。ぴよくんと。お母さんと。お父さんと。 私の大切な人たちと一緒にこの景色を見たい。 衝動に突き動かされるように、私の体はお母さんたちを探しに行こうと振り返りかけた。 すると、すぐ隣に有くんがいた。それまで全く気づかなかった自分に驚いた。 有くんは胸にぴよくんを抱えて夕焼けを見ている。 反対側を振り返ると、お母さんが同じように夕焼けを見ながら、誰かにメールを送っていた。その相手はきっとお父さんに違いなかった。 私は気付かないうちに大好きな人たちに囲まれていた。何も言わなくても何かが通じ合っているような気がした。 喉が塞がるような感覚に耐えながら、もう一度夕焼けを眺める。 いいものを見た。すごい瞬間を見た。きっともう二度と得られないであろう何かを、ちゃんと感じることができた。 この先もずっと、今感じているこの美しい時間を大切な宝箱からそっと取り出して、何度でも確かめて、きっと死ぬまで忘れることはないだろうと思った。 やがて、永遠に燃え続くかと思われた激しい夕焼けはその温度を下げ、空は徐々に藍色へと移り変わっていった。 最後に輝く激しい情熱と、惜しみながらも必ず手放さなければならない切なさには、いつでも胸を締め付けられる。 今日一日に別れを告げて、私たちは明日が始まるまでの隙間に放り出された。 「すごかったね」 「とても珍しい空でしたね」 ぴよくんに話しかけながら有くんが笑っている。 「なんだかこの世のものじゃないみたいな色だったね。さっき写真を送ったけど、お父さんのところからも見えたって」 お母さんが穏やかに微笑む。 「あの……ありがとう」 私が言うと、お母さんはわざとらしく、なんのこと? という仕草をして笑っていた。 皆がこうしてここにいたのは、たぶん、ずっと私を待っていてくれたからだった。 周りが見えなくなるほど集中している私に気を使って、気が済むまでそっとしておいてくれたのだ。 「有くんもぴよくんも、ずっと付き合ってくれてありがとう。ごめんね」 「いやいや、おかげですごいものを見れたんだから、むしろこっちこそありがとうだよ」 「そうですね。ぼくもあんな夕焼けは初めて見ました。公子ちゃんのおかげです」 「……もう」 皆、どうしてそんなに、私に優しくしてくれるんだろう。 さっきまで読みふけっていた奈緒さんの小説に出てくる家族みたいに、あたたかい。 「そろそろ帰りましょうか。お父さんが用意してくれる晩ごはんに期待ね」 手にした本でパタパタと顔を扇ぎながらお母さんが言った。 それは普通の本よりもずっと薄くて、大きい本だった。ハードカバーの表紙にはデフォルメされた動物のキャラクターが描かれている。絵本だ。 私の目はなぜかその絵本に釘付けになった。 「お母さん、それは」 「ん? ああこれね、公子が小さいころによく読んであげた絵本。私も懐かしくてね。すぐになくなっちゃったから……覚えてないかな。可愛いでしょ」 表紙をこちらに向けて見せてくれる。 『セニンラとスチカ』 見覚えのないタイトルの下に描かれていた動物は、二本足で歩く真っ白なウサギのキャラクターだった。 「ちょっと見せてもらってもいい?」 動揺を隠しながら言うと、お母さんは快く絵本を手渡してくれた。 パラパラとページをめくる。 子供向けの絵本らしく文字は少なめで、内容は簡単なものだった。 主人公の少女セニンラはある日森で傷ついたウサギを見つけた。 ウサギを家に連れ帰ったセニンラは、両親に頼んで、ウサギの傷が癒えるまで一緒に住むことにした。 彼女はウサギにスチカという名前を付けた。 内気な性格のせいでセニンラには友達がほとんどいなかったけれど、スチカとはすぐに仲良しになった。 セニンラはスチカに本を読むことを教え、二本足で歩くことを教え、ナイフとフォークで食事することを教えた。 スチカはたちまちそれを覚え、まるで人間のように振舞うことができるようになった。 話し相手ができたセニンラはとても喜んだ。一緒に本を読んで感想を言い合ったり、二人でゲームをしたり、勉強や神様について話しあったりした。 二人は親友になった。セニンラはよく笑うようになった。ずっとこの楽しい日々が続くかに思えた。 でも、そんな二人にも別れの時が訪れる。 スチカの傷が十分に癒えた頃、スチカはセニンラに言う。 「傷ついていた私を助けてくれてありがとう。たくさんのことを教えてくれてありがとう。人間じゃない私と一緒に遊んでくれてありがとう。本当に楽しかった。あなたは私に大切な贈り物をくれた。だから今度は、私があなたに贈り物をしなければならない。寂しいけれど、それは生きる上でなくてはならないものなの。さようなら、またいつか」 そう言って、スチカはセニンラの前から消えてしまう。 セニンラは深く哀しみ、毎日泣き続けては疲れて眠るような日々を過ごすようになった。 そんなある時、セニンラの夢のなかにスチカが現れる。 「どうか私の贈り物を捨ててしまわないで」 目覚めたセニンラは、ようやくスチカの贈り物が何だったのかを知る。 彼女はずっと休んでいた学校に行き、勇気を振り絞ってクラスメイトに声をかける。 クラスメイトは少し驚きつつも、笑顔で彼女を迎え入れて――そこで、お話は終わり。 最後のページには柔らかいタッチで微笑むスチカの絵が描かれていた。 夜へと沈んでゆく穏やかな夕暮れとは正反対に、私の心の中は嵐みたいに吹き荒れていた。 これは、この物語は似過ぎている。 はっと気付いて作者名を見返すと、『キスカマイネ 作』と書かれていた。 キスカマイネ……キスカ。 渡洲 = キスカ = 奈緒……奈緒さん……? これは、奈緒さんが書いた絵本なのでは? 言葉を話すウサギのお話、そしてキスカマイネという名前、そうとしか思えない。 震える手で携帯端末を取り出し、この作者は奈緒さんと関係があるか調べてほしいという旨の本文に、絵本の写真を添付してお父さんに送った。 返事は驚くほど早く返ってきた。 『公子の予想通り、キスカマイネは、小説家の渡洲ナオと同一人物だ。この絵本は戦争が終わって二年ほど経った頃に書かれたもので、彼女が絵本作家の真似事をしたのは後にも先にもこれ一冊だけらしい。それより夕焼けすごかったね(・∀・) お母さんに教わって顔文字使ってみたけどどうかな( ゚д゚ )?』 ……とても今調べたとは思えない返信の早さだった。ペンネームのこともそうだけれど、こういった細かい部分には、お父さんが私に伝えていない情報がまだまだあるのかもしれない。 しかし今は、奈緒さんの小説とか、絵本とか、夕日とか、顔文字とか、ウサギとか、私の頭はいっぺんに詰め込んだいろいろなものが飛び交ってパンク寸前で、余計なことを考えている余裕はなかった。 奈緒さんが書いた絵本は、田島さんが言葉を教えたぴよらっとを題材にしているように思えた。 もしそうだとすれば、奈緒さんはぴよらっとが言葉を話すことを知っていたということになる。 いつそれを知ったのだろう? ひょっとして、最初から……? だとすればなぜ、公の場で父親の論文を否定するような真似をしたんだろう。 奈緒さんと田島さんの親密な親子関係と、奈緒さんが田島さんに対して取った行動には、明らかに矛盾がある。もしかしたら、ここに重要な秘密が隠されているのではないか? ……あるいは、本当に、闇の中に隠された負の感情があったのかもしれない。彼らは仲睦まじいように見えて、実はその裏には決して日の当たらない、じめじめとしていて目を背けたくなるような、残酷な真実があったのかもしれない。奈緒さんが若いうちに結婚して親元を去ったのも、もうその家にいられないほどに追いつめられていたからなのかもしれない……。 いや、それでも、と私は思う。 私は奈緒さんが書いた小説を読んだ。それらは、田島さんの論文が発表される前に書かれたものも、戦争の後に書かれたものもあったけれど、皆等しく優しい光に包まれているようだった。 あんなに優しくて綺麗な文章を書ける人に、そんな感情があったなんて思えない。思いたくない。 それに、奈緒さんが家を出た後も、彼らは手紙でのやりとりをしていたと、お父さんは言っていた。その内容はとても親密で心の通ったものだったと……。 ……そこでふと、疑問がわいた。 お父さんはどうやって手紙の内容まで知ることができたのだろう? 普通、手紙に書かれたことなんて、書く側と受け取る側にしかわからないはずなのに……。 |