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ぴよりあ/メモリア
7




ぴよくんの先生は田島さんじゃない。
それは、ぴよくんがクッキーを作ってくれたあの朝から、ぼんやりと感じていたことだった。
お父さんは言っていた。田島さんは家事全般を奥さんに任せきりだったと。
そしてぴよくんは言っていた。クッキーも、ハーブティーのブレンドも、料理も、全て先生から教わったと。
私は初め、料理や家事は田島さんの奥さんから教わったのかもしれないと思った。混濁した記憶の中で、先生と奥さんを混同してしまったのかもしれない……そう思っていた。
でも、田島さんの奥さんには絶対に教えられないことがひとつだけあった。
それはハーブティーのブレンドだ。
田島さんのいた国について図書館で調べた時。その時代の王は真面目な人で、蔓延していた麻薬を取り締まるために、一時的に薬草類の流通を止め、その全てを一箇所に集めたのだということを知った。
それは一軒一軒民家を回って回収するほどに徹底していたものらしい。
ぴよくんが田島さんの奥さんからハーブティーのブレンドを教わることは、不可能だったのだ。ハーブの流通に大きな制限がかかっていたから……。
では、ぴよくんの先生が田島さんじゃないとしたら、誰なのか?
ぴよくんが描いてくれた花は確かに、田島さんが暮らしていた地方にしか生息しないものだった。
全く別の、途方もないどこかの誰かというわけではないはずだ。
「……田島さんがぼくの先生じゃないとしたら、一体誰が……」
「それは」
それは。
それは最初から見えていた。
あまりにも目に付く場所にあったせいで、見過ごしてしまっていた。
彼女はなぜそうしなければいけなかったのか。

「ぴよくんの先生は、奈緒さんだよ」

静かに告げる。
自分でも、自分の言葉に心拍数が上がっていくのを感じていた。
手に汗がにじむ。指が震える。
それでも、意識は前へ前へと進んで止まらなかった。
「田島さんの娘の奈緒さんは、傷ついたぴよらっとを拾ってすぐに、隣国へ嫁いだ。そして田島さんが発表した論文を徹底的に攻撃し、その結果、田島さんは地位も奥さんも失い、自らも失踪してしまう。……でも、田島さんと奈緒さんは、仲の良い親子だった。それは論文が発表される前も、そしてその後も、変わらないことだった」
「それは、変じゃないですか? どうしてそんなことを……」
「どうして彼女がそんなことをしなければならなかったのか。私もずっと考えていた。そして、さっきぴよくんが話してくれたことで、パズルのピースがぴったりはまるみたいに、あるべき場所に収まったの」
「ぼくが話した……母のこと……ですか?」
「そう。ぴよくんは先生以外に、お母さんとも一緒に暮らしていた。そのお母さんというのは、田島さんが言葉を教えたぴよらっとだったんじゃないかと思うの」
話しながら、胸の中でまたひとつ、パチリとピースがはまっていく。
ふっと横を向くと、お父さんも、お母さんも、有くんも、私を応援してくれるような優しい目で、じっと私の話に耳を傾けてくれていた。
その眼差しに勇気をもらい、私は私のたどり着いた答えに手をかける。
「ねえ、お父さん。田島さんは論文を発表して奈緒さんに反論されて、そのせいで奥さんと離婚したってことになっているけど、その離婚した時期って、論文が発表されてから一ヶ月以内だったんじゃない?」
「よくわかったな。届けが受理されたのは、論文が発表されてから約二週間後だ」
「やっぱり……」
「どういうことですか?」
ぴよくんが不思議そうに言う。
「おかしいと思わない? 奈緒さんは田島さんが論文を出してすぐに批判するメッセージを出したけれど、それは一ヶ月後に証拠を見せるというものだった。この時点ではまだそれほど話題にもなっていないし、田島さん夫妻がそれが原因で離婚するっていうのは少し無理があるように思えたの」
「それは……確かにそうですね」
「奈緒さんは一ヶ月後に証拠を出すと言ったけど、それも何だかおかしな話だと思ったんだ。普通はどうなのかわからないけど、私の感覚ではそういうのって、論拠を揃えて万全の体勢を整えてからするものじゃないかなって。奈緒さんは、お父さんの論文を見て、すぐにメッセージを出さなければならなかった。そうしなければいけない理由があった。ここからは、何の証拠もない、私の想像になっちゃうけど……」
一呼吸置いて、気持ちを落ち着かせる。
これは、単なる子供の想像に過ぎない。けれど、これまでに得た様々な情報を並べ換え、つなぎ合わせ、検証し、その全てを真剣にやってきたことの結果なんだ。
どれだけ歪でも、最初にどうすることもできないと絶望していた私が、どうにか導き出すことができた、ひとつの答え。
だから私は胸を張ってそれを告げる。
「逆に考えてみたの。奈緒さんが田島さんを攻撃しなかったら、どうなっていたか。
世にも珍しい言葉を話すぴよらっとの噂が広まって、田島さんのぴよらっとは見世物にされたり、実験動物にされたり……って、そういう可能性もあったかもしれない。けど、それよりもっと別の場所に、大きな問題があったんじゃないかと思う。
そもそも、なぜぴよらっとは傷を負い、保護されたのか。それは、国中でぴよらっとの皮製の服を作るブームが起き、ぴよらっとが乱獲されていたから。そのブームの発端は、国王が世継ぎのためにぴよらっとの皮で作ったマントを贈ったことから始まっていた。
だから当時、国民の間では、ぴよらっと=王の象徴というか、王のお墨付きみたいなイメージになっていたんだと思う。
そんな風潮の時勢に、田島さんは、ぴよらっとを人間と同様に扱うべきだと主張してしまった。これは、王からしたら反逆の意思を表明されたようなものだったんじゃないかな。
さらに悪いことに、田島さんは大学の講師をしていた。ぴよらっとの話をダシにして大勢の若い学生を鼓吹し、反乱でも起こされたら……そんなふうに、王が一介の学者に対して危機感を抱いたとしても、おかしくない。
当時の王は独善的なほどに自らの正義を信じている人だったから、奈緒さんはそのために両親が危険な目に遭うことを案じたんだと思う。それで、田島さんの論文を攻撃するなんていう大胆な方法をとったんだ。そこには憎しみや悪意なんてひとかけらもなくて、ただ両親に、これから一ヶ月の間に逃げて欲しいというメッセージだけがあった。手紙でそれを書いても、田島さんの国の検閲に引っかかってしまう可能性があったし、自分の元にも危険が及ぶかもしれなかったから……。
そして田島さんは奈緒さんのメッセージをすぐに理解した。まず先に奥さんを逃がすために、論文の一件で夫婦仲が険悪になったように偽装し、自分との関係を絶ち、安全な場所に逃がした。多分その時に、ぴよらっとも一緒に連れて行かせたんだと思う。そして自分ひとりが残り、身軽になってから、職場や知り合いなどとのつながりを絶っていった。もうそこまでしなければどうしようもない事態になっていた。
……田島さんが論文を発表したときは、純粋にぴよらっとのことだけを考えてのことだったんだと思う。それをしたらどうなってしまうのか、考えが回らないほどに。ただぴよらっとのことだけを考えていた。
田島さんはとても優しくて、それでいて熱くなると周りが見えなくなってしまう性格だったそうだから、奈緒さんに反論されたときは、目の覚める思いだったんだと思う。自分のしてしまったことに後悔しながら、それでも苦悩したり絶望したりなんて悠長なことは放っておいて、素早くそこから最善と思われる選択をしていった。
そして最後に自分自身の存在を消し、少し後に起こる戦争によって、この件の記録や記憶もうやむやのうちに消えていった」
絡まった洗濯物みたいに次々つながって出てくる思考を端からさばいて、私は深く息を吐いた。
きっとこれが、田島さんの身に起きた出来事のあらまし。
そして――
「そこから、ぼくの先生が奈緒さんだということと、どうつながるのでしょう。そのぴよらっとは田島さんの奥さんと共に逃げてしまって、もう見つからないんじゃ……」
「奥さんとぴよらっとは、奈緒さんの元に逃げたんだよ」
はっきりと告げる。
ここが間違っていたら、私の負けだ。
「お父さん、田島さんは、もともと隣国の人だったんじゃない?」
「……その通り、正解だ」
ニヤリとお父さんが笑う。
クイズの答えを当てられたときのような、よく見つけたなって言ってくれたような、そんな笑顔に力を得て、私は続けた。
「田島さんの名前は利川。奥さんの名前はシィア。奈緒さんのフルネームは、キスカ = 奈緒。これってたぶん、奥さんの国の名前と、田島さんの国の名前を、ふたつ付けたんじゃないかな。元々そういう習慣があったのか、どちらの国でも暮らせるように配慮したのかは、わからないけど。
そして奈緒さんは、嫁いだ先では『渡洲奈緒』と名乗っていた。お父さんの方の名前を。
田島さんが隣国の人間だったと考えれば、どうやって若い奈緒さんが隣国の人と知り合い、結婚できたのかも、なんとなく想像がつく。
恐らく、奈緒さんの結婚相手は田島さんの友人か、その息子だった。娘を嫁にやるくらいだから、相当信頼を置いている人だと思う。
田島さんが、奥さんとぴよらっとを安全な場所に逃がそうと考えたら、奈緒さんの元ほど適した場所はなかったんじゃないかな。
灯台下暗しとも言うし、奈緒さんの旦那さんは軍の偉い人だったから、王が怪しんでもそう簡単には手を出せなかったはず。
そうして身を隠した奥さんとぴよらっとは奈緒さんの元で暮らし始め、やがて、ぴよらっとは子供を産んだ。
奈緒さんが実験のときに保護していたぴよらっとが相手だったのか、ひとりでも子供を作れたのか……。ともかく、その子供もまた、人間の言葉を教わることになった。今度は奈緒さんが『先生』となって……」
ぴよくんの表情は変わらなかったけれど、その瞳には、様々な感情が入り乱れているようだった。
そんな瞳をしっかりと見つめ、私は告げる。
「そうして奈緒さんに言葉を教わって育ったぴよらっと。それが、ぴよくん。あなただよ」
ぴよくんの耳がぴくりと揺れた。
何か言おうと小さな口を動かすけれど、なかなか言葉が出てこないようだった。
しばらくしてから、ゆっくりと、ぴよくんは言った。
「……では、ぼくはどうして、記憶を失って、ここにいるのでしょう」
普段、ぴよくんの表情はほとんど変わらないけれど、しばらく一緒にいた私には、微妙なしぐさや瞳の色から、ぴよくんの感情を読み取ることができる。
今のぴよくんは、とても悲しそうな顔をしていた。
深い憂いに満ちた瞳。
「ひょっとしてぼくは……捨てられたんでしょうか……」
そんなぴよくんの顔をあと一秒だって見ていたくなくて、私は、大きな声で言った。
「違う。それは絶対に違うよ」
ぴよくんの目が大きく見開かれる。
「ぴよくんがどうして記憶を失ったかは私にもわからない。けれど、ぴよくんがどうして今、奈緒さんの元にいないのか、それを考えることはできる。きっとそこに、本当のことが埋まっているはずだよ」
「ぼくが今、先生の元にいない理由……?」
「これも、ちゃんとした証拠は何もないんだけど……私なりに辿り着いた答えを言うね。
奈緒さんの元にお母さんとぴよらっとが来てからしばらくして戦争が起きて、国はひとつになった。もしかしたら最初から奈緒さんは、近々戦争が起こるという情報を旦那さんから聞かされていたのかもしれないけど……まあそれはいいとして。
それからしばらくは平和な時代になったんだけど、今から十年ほど前に、その国で大規模なクーデターが起きた。これは吸収された側の旧国軍が起こしたもので、軍人である夫を持つ奈緒さんの周辺にも危険が及ぶ可能性があった。
だから奈緒さんは、家族を連れて国外へ避難しようとした。
全員で逃げたのかもしれないし、ふたりのぴよらっとだけを先に逃がそうとしたのかもしれない。
とにかくその途中で、ぴよくんだけがはぐれてしまった。記憶を失っているということは、事故に遭ったとか、そういう可能性が高いけど……。
ねえ、ぴよくんが最初に気がついたとき、どこにいたの? その時怪我をしていた?」
「どこかは、わかりませんが……森の中でした。怪我は、たぶんしていなかったと思います」
「森って、ここの山のこと?」
「いいえ。もっと遠い、別の場所です。ぼくはそこからずっとさまよって、旅をしてきました」
「うーん……」
「もし事故があったとして、ぼくだけ無傷で放り出されたのだとしたら……先生は大丈夫なんでしょうか……」
心配そうに身じろぎするぴよくんに、私は目いっぱい明るい声で言った。
「それは大丈夫。先生は無事だよ。これは証拠だってあるんだから」
「本当ですか?」
「うん。クーデターがあったのは今から十年くらい前。ぴよくんはその時に先生の元から離れた。
でも、そのクーデターはすぐに沈静化したの。そして奈緒さんはその頃に、一冊の絵本を書いている。女の子と、白いウサギの話……。
その後も、奈緒さんは執筆を続けているみたい。だから、大丈夫」
「そうですか……よかった」
「だから……ね。お父さん。奈緒さんが今どこにいるか、調べられるよね?」
声は、震えていなかったと思う。
覚悟はしていた。
ぴよくんの先生を見つけたら、ぴよくんはいなくなってしまう。
それでも私は進むのをやめなかった。
初めてできた友達だから。
私にたくさん優しくしてくれた友達のために、私も全力でできることをしたいと思った。
「もちろん、簡単な仕事だ」
そう言い切るお父さんはやっぱり、最初から答えがわかっていたんじゃないかと思う。
でも、だからこそ、私が自分でたどり着いた答えは間違っていなかったんだと思える。
「それじゃあ……」
「あの、ちょっと待ってください」
ぴよくんを送ってあげて、と言おうとした私を遮って、ぴよくんがスッと立ち上がって言った。
「公子ちゃん、お父様、ぼくのために色々調べて下さって、本当にありがとうございます。でも、もう少しだけ、皆様とご一緒できませんか?
公子ちゃんがぼくのために手を尽くしてくれたように、ぼくも公子ちゃんのためにできることをしたいんです。微力ですが、皆様がお帰りになるまで、お手伝いをさせてほしいんです」
そうだ。
ぴよくんは最初に言っていた。

『――この夏休みの僅かな時間。ぼくはきみの心を癒すお手伝いを少しでもできたらと思うのです』

ぴよくん。
ぴよくんは十分過ぎるほど、私の心に力をくれた。
私が誰かのためにこんなに頑張るなんて、絶対にあり得ないことだと思っていたのに。
ぴよくんのことを考えると、どうしても諦めちゃだめだって思えて、頑張れた。

「ありがとう。帰るまでそんなに時間はないけど、一緒に遊ぼう。たくさん、お喋りしよう」

◇ ◇ ◇

それから一週間、私たちは、まるで何事もなかったみたいに、毎日遊んだ。
海で一緒に泳いだり、山でぴよくんに教わりながら山菜を採って揚げ物にして食べたり、隣町の知らない場所に冒険に出かけたり。
前にお父さんと有くんが行ったという夜市にも、勇気を出して行ってみた。
私はぴよくんを胸に抱いて、隣に有くんがいて、前にお父さん、後ろにお母さんが歩いてくれた。
本当に大勢の知らない人が河みたいに流れていって、少し怖かったけれど、皆と一緒にいるという安心感の方が強かった。
見渡す限りに屋台が並び、そこに、呼び込みの声や歩行者のざわめき、そこら中でかかっている雑多な音楽にストリートミュージシャンの鳴らす楽器の音、赤ん坊の泣く声や笑い声など、様々な音が入り乱れていた。
目に映るのはきらびやかなネオン、屋台の灯り、緑やピンクに光るおもちゃのケミカルライト、料理をオレンジ色に照らす白熱灯の光、山のように積み上げられたモニター、そして人々の輝くような瞳の色。
美味しそうな料理の匂いから、発電機のオイル、蒸れた汗、甘いお菓子、火薬、排水溝、革製品、香水、様々な果物の匂いまで、歩くたびに全く違う空気が辺りに満ちているのだった。
それらが全て組み合わさって、まるで人間の熱気を濃縮したエネルギーそのものが、うねりながらどこまでも流れていくようだった。
その圧倒的なパワーの前に、私は少し酔ってしまったりもしたけれど、なんだか言葉では言い表せないような深い感動を味わうことができた。
知らない人がたくさんいて怖かったし、見知らぬ場所を歩くのは不安だったけれど、ふかふかのおまんじゅうは最高に美味しかったし、ずらりと並んだ宝石やアクセサリーを眺めるととても心が踊った。
お父さんから話を聞いて、お土産を見て想像していたイメージとは、全然違う。そこに行かなければ絶対にわからないこともあるのだなと思いながら、更けていく夜に、いつまでも終わらないような喧騒の街を歩くのだった。

そして、家に帰る予定日の前日。
その日は朝からずっとぴよくんを抱いて過ごした。
明日のことはあえて何も言わずに、ぴよくんを抱えたままあちこち走り回って、たくさん遊んだ。
夕方からは、皆で料理をした。
メニューはぴよくんの好きなカレーだった。
お父さんも、お母さんも、ぴよくんも、私も、有くんも、並んで皮むきをしたり、野菜を切ったり、スパイスを炒めたり、更に思いつきでナンまで焼き始めたりして、ちょっとやり過ぎなんじゃないかってくらい本格的に作った。
でもお母さんは、「これはまだまだ簡略な方だよ。本当に本格的なやつなら、何日も前から仕込まないと」などと、恐ろしいことを言っていた。
「でも、大鍋いっぱいに作ったのはさすがに多過ぎじゃない……?」
明らかに食べきれない量に仕上がったカレー鍋を前に私がぼやくと、
「一度にたくさん作るほど美味しいのよ。余ったら、冷凍してお土産にしてもらいましょう」
のほほんと、お母さんは答えるのだった。
皆で作ったカレーはとても美味しかったけれど、私はなんだか胸が詰まったようで、ほとんど食べられなかった。
ぴよくんの前には、山盛りのカレーに、ほとんどカニカマのみのカニカマサラダや、ボウルいっぱいのナッツ類が並べられ、なんだかお供え物をされている人形みたいで可笑しくて、涙が出るほど笑ってしまった。

その夜。
ぴよくんを抱いて床に就いた私は、目が冴えてしまってどうしても眠れず、ぴよくんを起こさないように注意しながらそっと一人で外に出た。
夜の空気はひんやり冷たくて、虫の声も聞こえない。
白い月の光が辺りをくっきりと照らしていた。
明日、ぴよくんは先生の元へ行ってしまう。
奈緒さんの居場所をお父さんはすぐに突き止め、ちゃんと連絡もついたと言っていた。

どうやら、クーデターが始まった頃、奈緒さんはぴよくんとぴよくんのお母さんを逃がそうとしたらしい。
万が一、誰かに捕まった時に、言葉を話すぴよらっとであることが知られたら危険だということで、ぴよくんのお母さんがぴよくんに魔術をかけて、一時的に記憶を封じたのだという。
しかし、使う予定だった空港が占拠され、予定されていた経路を急に変更することになり、そんなゴタゴタの中で、ぴよくんだけがはぐれてしまった。
さらに急いでいたためか、ぴよくんの記憶を封じる魔術が不完全だった。
奈緒さんやお母さんのことはすっかり忘れてしまっていたけれど、人の言葉や教わったことだけは忘れずに覚えていた。
今は奈緒さんの元にぴよくんのお母さんも戻っており、魔術を解けばちゃんと記憶も元に戻るのだという。
そしてもう一つ、良いニュースがあった。
奈緒さんの元には、田島さんも一緒に暮らしているのだそうだ。
田島さんは一人姿を消した後、奈緒さんの元へと避難したのだという。
奈緒さんは結婚当初から夫の扱いに長け、その権力を存分に使ってあれこれと画策し、見事に両親とぴよらっとを救ったのだった。

夏休みが終われば、私たちは自宅へ、そして日常へと帰り、ぴよくんもようやく自分の家へと帰ることができるのだ。
それはぴよくんが十年間も望んでいたことで、誰にも邪魔できるものではない。
ゆっくりと歩きながら、私はぴよくんと過ごした短い夏の日々を思い出していた。
真っ白な姿。あまり表情の変わらないキリっとした顔。長い耳。短い手足としっぽ。
ちょこちょこと歩くぴよくんの横を、私と有くんが囲むように歩いている。
やがて一本の樹に辿り着く。
私はその幹にそっと触れた。
ざらざらした手触り。それは最初にぴよくんと出会った時の樹だった。
この樹に耳を当てていたときに、ぴよくんの姿を見たのが始まりだったっけ。
木に触れたまま手の上に耳を重ねてみると、トクトクと心臓の音が聞こえた。
ぴよくんは、どんな気持ちで私の姿を見ていたのだろう。
十年もの間、自分が何を忘れたのかさえわからないまま、一人さまよい続ける孤独。
幼い私にはまだ、それがどれほどのものなのか理解できない。
何も知らずに遊ぶ私たちの姿は、ぴよくんの心に少しでも光を当てただろうか。
私もまた、ぴよくんの真っ白な姿に、心の暗い部分をほんの少しだけ、照らしてもらった。
どれだけ泣いても、どれだけ醜い感情を見せても、ぴよくんはただ傍にいて、そっと小さな手を差し伸べてくれた。
こんな私と、友達になりたいと言ってくれた。
私の初めての友達。
本当に、本当に大切で、愛しくて、一緒にいると心が休まって……。
ぴよくんと、有くんと一緒に過ごしたこの夏は、宝石みたいに、もうずっと色褪せない。
二度と来ない夏。
どれほど贅沢な時間を、私は無邪気に過ごしていたのか。それを思うと、胸が強く締め付けられるように痛む。
この時間はもう二度と、二度と来ない。来年も、十年後も、きっと。
喉が痛い。頭が熱い。こらえていても、搾り出されるように、涙が出てきてしまう。
もうぴよくんに会えないかもしれない。
嫌だ! そんなのは嫌だ!
ずっと一緒にいたい。
この夏を永遠に繰り返せるなら、私はもう他の未来を全て失ったって構わないのに……。

ふっと、ぼやける視界の端に、白いものが見えた。
あの日のデジャヴ? 私は夢を観ているのだろうか?
でも今は夏の終わりの夜で、白い影も今度は逃げ出さなかった。
「……こんな涼しい夜に出歩いたら、風邪を引いてしまいますよ」
ぴよくんは私の近くまで来ると、いつだかそうしてくれたように、私の手をそっと握ってくれた。
「もう……せっかく、明日は……泣かないようにって……今のうちに……涙、見せないようにって……思ってたのに……」
ぴよくんは涙声の私に気付かないふりをして、私と同じように、もう片方の手で樹の幹に触れながら言った。
「ここで、公子ちゃんに見つかってしまったんでしたね」
「ぴよくん、逃げ足すごく早くて……追いかけるの、大変だったよ……」
「ぼくもまさか、追いつかれるとは思いませんでした」
「あの日ね、私……なんだか自分の中のスイッチが、切り替わったような気がした……。元々いたもう一人の私が顔を出したみたいで、自分でもびっくりした」
「ぼくも……自分の感情に戸惑いました。でも、あの時また逃げ出さなくて本当に良かった。公子ちゃんと出会ってからの時間は、かけがえのない宝物になりました。毎日がとても楽しくて、キラキラ輝いているようで。本当に、ありがとうございました」
「ぴよくんてば……そういうのは、明日……お別れの時に……言うものだよ……」
ぐっと喉が締め付けられて、ボロボロと涙がこぼれてしまって、うまく言葉が出てこない。
そのまましゃがみ込んで、私はぴよくんをぎゅっと抱きしめた。
ふわふわもちもちの、真っ白なやわらかい肌に、涙がぽたぽたこぼれる。
「私ね……本当は……。ううん、ごめん。ごめんね、で、でも……やっぱり、嫌だよ。せっかく友達になれたのに、離れ離れになるのは嫌だよ。ずっと一緒に遊んでいたい……毎日、おはようって挨拶して、おやすみって言って眠るの……ぴよくんがいなくなるなんて、嫌だよ……」
言わないようにと思っていた言葉が、次々に溢れてくる。
ああ、ダメだ。またぴよくんを困らせてしまう。
ぴよくんは何も言わずに、小さな手できゅっと私を抱きしめてくれた。
「嫌だ……もうぴよくんの声が聞けない。ぴよくんの淹れてくれたハーブティーが飲めない。やわらかいほっぺたを、つんつんって……触ることも……できなくなっちゃう……。寂しいよ。こんなに……胸が苦しい……。友達とお別れするのって、こんなに寂しいものだったんだ……」
友達なんていらないと思っていた。
家族以外の他人は皆怖くて、見知らぬ他人と仲良くすることなんて絶対にできないと思っていた。
学校の卒業式で泣いている先輩や在校生を見ても、何が哀しいのか理解できなかった。
転校していくクラスメイトのお別れ会で涙ぐんでいる皆を、私は輪の外から醒めた目で見ていた。
他人といつまでも一緒にいることはできないなんて、そんな当たり前のことが、皆はわからないのかなって……。
わかっていないのは私の方だった。
友達と別れるのがこんなにも辛いなんて知らなかった。
自分の一部を切り離さなければならないような、胸が引き裂かれるような痛みと、喪失への恐怖。不安。
こんな痛み、私には耐えられない……!
その時、私の頭の中に、ひとつの絵が浮かんできた。
それは図書館で見た絵本だった。
言葉を覚えたウサギと、一人ぼっちだった女の子のお話。
ウサギと友達になった女の子は、最後にウサギから贈り物をもらう。
それは生きる上でなくてはならないもの。
……そのお話は、まるで今の私たちのことを書いているみたいだった。
これが書かれたのは、ぴよくんが行方不明になって間もなくの頃のはずだ。
奈緒さんはどんな気持ちでこの物語を書いたのだろう。
少女はウサギとの別れを受け入れて、次の新しい日々を前向きに、歩んでいく。
奈緒さんも、同じ気持だったのだろうか。
ぴよくんがいなくなってしまったことを諦めるため?
……いや、違う。
絵本の最後のページには文章はなく、ただ光のなかで微笑むウサギの絵が描かれているだけだった。
ウサギのスチカは最後に言ったんだ。
『さようなら、またいつか』
奈緒さんは、諦めていたんじゃない。
信じていたんだ。
またいつか、必ず、ぴよくんが帰ってくることを。
まぶしいほどまっすぐに、信じていたんだ。
「……そっか。こういうことなんだね。ぴよくんも、寂しかったんだね。覚えていなくても、もう大切な人たちと会えないかもしれないって……ずっと、不安だったんだね……」
ぴよくんの肩が、ぴくりと震える。
「そっか……奈緒さんもきっと……。こんなに寂しいから……だから、一緒にいられる時間を、大切にしなきゃいけないんだね……」
「公子ちゃん……」
ぴよくんの声は少し震えているようだった。
ぴよらっとも、涙を流すのだろうか?
「ぴよくん、さっき私が言ったことは、忘れてね。私はぴよくんの友達で、ぴよくんのことがすごく好きだから、やっと叶うぴよくんの願いを奪うわけにはいかないんだ。ぴよくんと一緒にいたいのは本当だけど、これで永遠にお別れじゃないもんね。私たち、また会えるよね?」
「もちろんです」
顔を上げると、ぴよくんの瞳に涙はなかった。
ただそこには満ち足りた、優しい笑顔があった。
「ぴよくん……」

きゅるるる、と、突然間の抜けた音が静かな夜に響き渡った。
「わっ」
慌ててお腹を押さえる。
それでもお腹は私の意思を無視して、きゅるきゅると抗議の声を上げていた。
「公子ちゃん……おなか、すいたんですか?」
「うう……こんな時に……しまらないなぁ……」
それまで切なく張り詰めていた空気が、跡形もなく砕かれてしまったようだった。
「晩ご飯……あまり食べられなかったから……」
恥ずかしくて耳まで熱くなっている私を、ぴよくんは気が抜けたような顔でぽかーんと見つめている。
そしてふと思いついたように、言った。
「公子ちゃん、そういえばこうして、二人で月を眺めたことがありましたね」
「えっ?」
ぴよくんの視線を追って空を見上げると、真っ白に澄んだ月が、よく晴れた暗い空に浮かんでいた。
「ああ……そういえば、お風呂で一緒に見たんだっけ」
「はい。それで、思い出しました」
「何を?」
不思議に思い、ぴよくんの方を見る。
するとぴよくんは片方の耳を掴んで、ブチィと取ってしまった。
「今ぼくにできることはこれくらいですが、よかったら……」
そっと耳を私に差し出してくれる。
途端に、あの日の月やお風呂の湿った空気、シャンプーの匂いなどの記憶がリアルに蘇ってきて、鼻の奥がツンとした。
「ありがとう……いただくね」
私に降り注ぐ真っ白な光と、優しくやわらかい真っ白な糧……。
それは一緒に月を見上げたあの日と同じように私の心に沁み入り、そしてあの日とは違って、少し、しょっぱい味がした。

次の日。
別荘の前には送迎用の黒塗りの車が来ていた。
早いうちにお父さんが手配していたらしく、そのままぴよくんを奈緒さんの元まで送り届けてくれるのだそうだ。
だから私たちは、別荘の前でお別れすることになった。
「本当にお世話になりました。ありがとうございました」
深々と頭を下げるぴよくんに、皆それぞれお別れの言葉をかけている。
私は、言いたことはもう昨日の夜に全て言ってしまっていたから、なんだかすっきりした気持ちでその様子を見守っていた。
「ほら、公子も」
お父さんに促されて、私もおずおずと前に出る。
なんだかこうして改めて向かい合うと、変に緊張してしまう。
「ぴよくん」
私はそっとぴよくんの手を握って、言った。
「また会おう。私、もっと強くなるから」
「公子ちゃんは、強くなれますよ。失うことを恐れずに、本当に大切なものを見極めていける、強い人に。その時にまた、会いましょう」
「ありがとう……またね」
「……ありがとうございました」

そうして、ぴよくんの乗った車と、私たちの乗った車は、別々の道へと走りだした。